みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

象山神社へ参拝

先週は少し言葉が過ぎました。ご気分を悪くされた方々にお詫び申し上げます。さて今回も松代訪問時の話です。松代は色々な観光名所が点在しており、今回は佐久間象山先生をお祀りする象山神社のご案内です。ご存知の様に象山先生の門下には明治維新の功労者が多く、直接関わりを持った人物は勝海舟吉田松陰高杉晋作坂本龍馬橋本左内など枚挙にいとまがございません。

県社である象山神社は、松代出身で元大審院長横田秀雄先生の呼びかけにより、地元の他に全国の有志の合力により昭和十三年十一月三日に象山先生の御自宅跡に創建されました。大審院長とは現在の最高裁判所長官の事です。

佐久間象山先生です。Wikiより
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佐久間象山先生の偉業は今更私がご案内しなくても皆様の知ってる通りですが、ごく簡単に説明すると、御尊父は卜伝流剣術の達人であり、藩主の右筆まて勤めた文武に通じた人格者でした。先生は父の後を継いで松代藩士なり、若い頃から経書を学び、江戸に出てからは儒学朱子学を学び英才と呼ばれておりました。その後は蘭学を学び、当時先進国であったオランダの医書兵法書を詳しく網羅したのです。天保13年に松代藩主の真田幸貫公は老中になると同時に海防掛(海防かかり)に就任致しました。其の時に象山先生は顧問に任じらたのです。其処で先生は沿岸警備に必要である砲術を学び、此れを見事に極めました。また日本で初めて大砲の鋳造を行い、日本における西洋砲術の第一人者となったのです。

この場所は象山先生が大砲を試射した跡地です。此の場所は現在千曲市生萱に有り、千曲川の河原から対岸の山々に向けて試射を行ったようです。砲弾は象山先生の予想を遥かに上回り、山を越えて幕府直轄の天領に有るお寺の境内に大穴を開けたと言います。
因みに大砲を含む銃の銃身は割れを防ぐ為に硬い刀の皮鉄と違い、柔らかく粘りのある鉄で出来ております。現在も銃の薬莢に真鍮を使うのは真鍮が爆発の膨張に耐え得る性質が有る為と聞き及びます。画像は千曲検定さまのHPより

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象山先生はその後に江戸木挽町に五月塾と言う私塾を開きました。其の時の門弟が吉田松陰勝海舟など維新の立役者ばかりなのです。やがて黒船が来航し、門弟の吉田松陰が密航を企てました。当然師匠の佐久間象山も罪を問われて伝馬町牢屋敷に軟禁されますが、その後は故郷松代に蟄居となりました。その後しばらくして象山先生は一橋慶喜公に招かれて上洛し、慶喜公に公武合体論と開国論を説明しました。そして元治元年七月十一日に熊本藩士である河上彦斎と因州浪人杉浦虎太郎の凶刃により命を終えたのです。享年53歳で没した訳ですが、奇しくも今の私と同じ歳です。

河上彦斎幕末四大人斬りの一人で漫画『るろうに剣心』のモデルです。使った刀は同田抜宗廣と言う明珍の兜も叩き割る破壊力抜群の刀でした。
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同田抜宗廣です。叢沸が付いてお世辞にも名刀とは言えませんが、如何にも物切れしそうな刀です。極めて個人的な意見ですが、『刀』には全く罪はなく、刀を使う『人間』や『其の背景』にこそ罪が有る事も付け加えておきます。
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先生の説明は此れくらいにして象山神社のご案内を致します。訪問したのは初秋の三連休中日でした。

鳥居の横に象山先生の馬上の姿を模した銅像が有りました。裃(かみしも)を付けてますが、指している脇差の鐺(こじり)がまるくないので登城時では無いと思われます。
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大きく立派な鳥居です。
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神池には紅葉が映えて美しい水面でした。
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義弟が読んでいるのは象山先生の略歴です。
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手水舎です。コンクリートの下地にある水の染みた部分の広さで、本日こちらに参拝した人の多さが分かりますね。
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暫く歩くと維新功労者の銅像が有りました。いずれも比較的新しい物です。

橋本左内です。細かい事を言うようですが、帯びている大小の脇差の刺し方が全く当時と違いますね。
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誰もが知ってる坂本龍馬ですね。
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龍馬の師匠の勝海舟です。此れも大小こ指し方が違います。此れでは大小の鞘と鞘が当たって折角の漆塗りが割れてしまいますね。何をモデルにしたのでしょうか。
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刀の大小は此のように指します。流石は世界の黒澤監督です。差し出がましい話ですが、趣味人の拘りは強くてゴメンナサイ。
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藩主の真田幸貫公の銅像も有りました。立像であり製作者の意図が垣間見れます。
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吉田松陰先生です。辞世の句であった『身はたとひ 武蔵野の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂』は今でも心揺るがす句ですね。
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小林虎三郎です。知らない方もいらっしゃると思いますが、象山先生の高弟であり、故郷である越後長岡の復興と発展に貢献した大人物です。『米百俵』の逸話で有名ですね。
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久坂玄瑞高杉晋作中岡慎太郎は顔のみのレリーフになっておりました。
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是等の銅像長野市篠ノ井出身であり、商売で大成功をおさめた青木兄弟が献納したと書いてありました。青木兄弟はAOKIホールディングス(紳士服のアオキ)を創業された御兄弟です。若き日の青木兄弟は郷里の英雄である象山先生を祀る此の造山神社を訪問し、兄弟2人で誓いを立てたとあります。是非拡大して本文をお読みください。
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拝殿も立派でした。私達は故郷の英雄に心を込めて参拝致しました。
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此方は象山先生が吉田松陰先生の渡航事件に連座し国元で蟄居を命じられた時に来客用に使っていた高義亭と言う建物です。高杉晋作などが松陰先生の手紙を持参し2人で夜を徹して論議した歴史的な場所なのです。
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説明書きです。
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心から感謝の意を込めて参拝すると新たな気持ちに成れました。此の時代の偉人達は皆一様に『私』を捨て、ひたすら『公』の為に命を掛けた事を思うと体が震えます。最近歴史を勉強し始めた涙脆い義弟の目には早くも光るもの溢れておりました。

最後に佐久間象山先生の辞世の句を皆さまご紹介致します。

『折にあへば 散るもめでたし山桜 めでるは花のさかりもみかは』

此の句には2つの意味が有ります。『山桜は花を付けている時が美しいが、盛りが過ぎて散る時もまた美しい』と言う意味と、『花の盛りの様に懸命に生きたならば、死ぬ時が来たら潔く散るもまた良いものではないか』と言う意味す。何とも切なくて、山から湧き出す清水の様に美しい句ですね。当時における武家の生き方が垣間見れ、私は此の句にとても心惹かれました。恐らく此れが『葉隠』などに記されている武士の心根だと思う次第です。