みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

叔母からの授かり物 其の2 山浦真雄の長巻直し刀

今週は私が望んで叔母から授かったの長巻直し刀を紹介致します。此の長巻き直し刀の作者は信州人で山浦昇真男という幕末に活躍した刀鍛冶です。山浦真雄は信州生まれの私にとっては英雄なのです。 刀好きであった父の口からも伝え聞いている程の故郷の偉人で、自宅は県指定の文化財となっております。

此方は明智光秀配下の斉藤利三が馬上で長巻きを携えている様子です。元々は大太刀から進化を遂げた物で有り、基本的には此のような形です。長巻は強度を高める為に長い柄に長い中心(手持ち部分)が深々と入っております。長巻き直し刀とは、ほぼ刀身と同じ長さの中心を断ち切って刀に見合う長さに仕立て直したエコなものなのです。また長巻きのまま朽ち込ませるのは勿体無い物が残るとも考えられますね。
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山浦一門の研究では群を抜く花岡忠男先生が著した『刀工山浦真雄 清麿 兼虎伝 』と言う本の存在を知り、入社2年目の頃に神田の古本屋でやっとの事で見つけ出し、高くて迷いましたが定価の6倍である30,000円で購入しのが28年前の事です。この刀剣研究家の花岡先生は信州上田上鍛冶町出身であり、真雄の嫡子である兼虎が松城から上田に移ってから御縁の有る家系と自らの著書に有りました。

人としての山浦真雄の魅力を花岡先生の言葉を御借りすると『刀匠という本道のみならず、複眼的な視点にも耐えうる人間としての幅や奥行きが含蓄深い人物像となっている』と表現されております。不勉強ながら私も真雄筆録の『老いの寝覚め』などを読むにつけ先生のお言葉の通りだと考えます。困ったもので真雄の事は語り出せばキリが有りません。今回は刀匠山浦真雄の出自と何を行った人なのかを軽く御伝え致します。

誰が描いたかは記されておりませんが、慶應元年62歳の山浦真雄の絵です。刀工山浦真雄 清麿 兼虎伝より
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真雄は文化元年の8月に小県(チイサガタ)郡赤岩村(現東御市滋野)の山浦治右衛門昌友の長男としてこの世に生を受けました。幼名は駒次郎、後に昇と改めます。山浦家の出自は武田家につながる名門でした。徳川の御世になってからは小諸藩に属し、代々赤岩地村の名主職を務めておりました。名門山浦家の嫡男で有る真雄は、早くから剣技の修行に励み、其の業は刀の術理に長けて常ならぬものがあったと言われております。

真雄は剣術修行の傍ら自ら200口を超える刀で切り試しを行っておりましたが、自身の思う通りの刀には巡り会えておりませんでした。そんな折に父の代役とし隣村との水利権争いの訴訟の為に江戸へ出府したのです。其の時に当代一の名工である水心子政秀に自らの指料を注文しました。此の水心子政秀こそは『刀剣実用論』を著し、多数の優れた弟子を育成し、華美な刃文を焼いたような脆弱な刀では無く、古い時代の強い刀への回帰を主張した当時の第一人者でした。実は現在活躍している刀匠の師筋を突き詰めて行くと殆どがこの方に成る程の刀剣界における大偉人なのです。

ところが此処で真雄の拘りによる問題が発生致します。真雄は打ち上がった刀の出来が気に入らず、再度政秀に造り直しを願い出たのです。孫と祖父程に歳の離れた若造に気に入らないから注文打ちの一刀を造り直せと要求されたです。私が政秀の心中を代わりに代弁すると『黙れ、小童〜』となります。

当たり前ですが、真雄の要求は政秀の逆鱗に触れてしまいました。政秀は甲骨の職人中の職人なのです。顔を真っ赤にして激昂している政秀に真雄は独自の武用刀理念を説明致しました。『野獣の角は身体の一部として備わり、例えば刀と身とが別の違和感が無く、帯刀して厳しい山谷や遠路を往っても腰に疲れぬ、反りよく、姿がよい、反り浅い刀は佩き心地が悪く抜刀も不便。切れ味鈍く、堅物を切ると切先がのめり、戦争では特に平打ち(側面)の難が有る。反り浅深により利害得失を含み、先生の技術で造刀すれば名刀の出現は疑い無し』と言ってのけたのです。

此れを聞いた政秀は『年に似合わず、面白い事を言うやつだ』とたちまち機嫌を直し、造り直しを引き受けました。自論を激昂している年長者に面と向かって話す真雄の胆力もさることながら、孫ほどに歳の離れた若僧の言葉に耳を傾け、話しに理が有らば直ちに此れを受け入れる水心子政秀の人品の高さと鍛刀に対する真摯な心掛けが伺える話だと思います。真雄は作り直しにおいて相槌まで引き受けたと言われております。此の続きは膨大なモノになるので、またの機会に綴ろうと思います。しかし此の話一つを取っても山浦真雄がどの様な人物おおよそ推察が可能だと思います。

真雄は数えで二十歳で信濃国佐久郡芦田古町の戸塚勘右衛門定吉の六番目の子(二女)である勢喜(セキ)と結婚し、嫡男である兼虎が生まれました。兼虎は明治の廃刀令で槌を置く事になります。此の芦田古町は中山道六十九次のうち江戸から数えて二十六番目の宿場で有り、当時は旅人で賑わった場所です。奇しくも此の宿場町は母の実家より指呼の間に有る場所なのです。近くには名勝の笠取峠が有ります。此の峠は旅人が上り坂で息を切らし、いつの間にか編笠を取っていることから笠取峠と命名された名と言われております。

広重の笠取峠です。芦田宿の一つ前の長久保宿は身内の実家が有る場所です。
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真雄の弟には四谷政宗の異名を持つ山浦環清麿がおります。清麿を始め山浦兄弟は無類の酒好きで有り、特に清麿は『日に三升を尽くす』と迄弟子に言わしめている酒仙です。やがて清麿は酒毒により病と成り果て、槌が握れなくなってしまい、三十余口もの大量の刀債を残して42才の時に厠で割腹自殺を遂げてしまいました。因みに清麿の弟子である斉藤清人は師匠の此の刀債を一人で返済した忠義の人です。破天荒な弟に対して兄の真雄は天寿を全うし、明治7年5月に71歳で歿しております。同じ道を歩んだ仲の良い兄弟だけに、此の時の真雄の心中は察するに余り有るものが有ります。

また真雄は古今の古典文学や相学にも精通し、其の学識は特筆されておりました。後に真雄は『刀工の人格、天理が造刀に感化する』と言っております。此の言葉は私の胸に大いに響きました。此の時からいつの日か山浦真雄が一口欲しいと願っていたのです。そして真雄は生涯の大仕事であった嘉永6年3月24日に行われた真田家試刀会を迎えるのです。此の試刀は切れ味試しも有りますが、本意は打ち折り試しなのです。もしも己が鍛えた一刀が脆くも折れ飛んだら何時でも自刃出来る様に着物の下に白装束を着込んでの参列でした。そして真雄の刀は試刀会において抜群の成績をおさめたのです。此の一部始終は『刀剣切味並折口試之次第』と言う書物に一部始終が記されており、佐久間象山の高弟である松代藩武具奉行の高野車之助が明治になってから国立国会図書館に寄贈し現在に伝わっております。実は刀の試しの後も、長巻きで兜を切り割る試しを藩の長巻師範によって行われており、此方でも驚くべき耐久性と切れ味を示しました。是等のシーンは是非とも書きたいのですが長くなるので又の機会ご紹介致します。

山浦真雄はその生涯の中で七回も銘を変えております。これは到達した境地毎に新たな気持ちで鍛刀に向かったからだと個人的には考えております。世阿弥が著した本に『風姿花伝』が有りますが『華』『幽玄』『初心忘るるべからず』『離見の見 』など色々な教えが有ります。特に『初心忘るるべからず』につきましては、其の年齢や到達した芸の境地によって段階的に『華』の有り方を発揮する大事な教えです。芸のレベルが上達しても決して現状に満足する事なく、慢心せずに日々謙虚に学び、常に新しい事に挑戦して行きなさいという教えなのです。風姿花伝新潟県出身の歴史学者である吉田東伍かま明治20年頃に学会に広めました。活躍した時期が少し早い山浦真雄が知る由もない書籍でした。

しかし世阿弥や山浦真雄など一芸に秀でた偉人の共通点とでも申しましょうか、私には同じ志が有ったように感じます。真雄の銘の変遷は正則→寿守→完利(ヒロトシ)→寿昌→正雄→真雄→寿長 となります。真雄の鍛えた刀を指料とした有名人は小諸藩主牧野康哉公(幕府若年寄)、上田藩主松平忠固公(幕府老中)、松城藩主真田幸教公、若殿の豊松君、松代藩家老真田桜山、同じく家老恩田柳泉、他には佐久間象山など錚々たる人物です。此の実績は近世の刀工で並ぶも者がおらず随一の実績なのです。

子孫に伝わる真雄愛用の瓢箪です。此れに酒を入れて晩年を過ごした松代城下を散策していたと思われます。私も真似して家伝の瓢箪に酒を入れて釣りに行きましたが、大容量過ぎてベロベロになってしまい、川で転んで竿を木っ端微塵に破壊致しました(笑)。刀工山浦真雄 清麿 兼虎伝より
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さて山浦真雄の案内は此処までとして授かった刀の説明に入ります。今回の刀は山浦真雄の『正雄』銘の長巻き直しの刀でした。正雄銘は弘化4年の8月頃から嘉永4年8月手前迄となります。同年の8月からは真雄に改名しております。

真雄は早くから父の昌友に替わって名主職を継いでおりましたが、度重なる水論訴訟に嫌気がさしておりました。真雄は弘化4年頃に古くから箱形炉による製鉄が行われていた中国地方への1年程の修業の旅を終え、赤岩に帰ったところへ上田藩より藩主の佩刀と城に常備する長巻100本の注文が入ったのです(実際には財政難で47本納入)。此れを機に真雄は赤岩の名主職を返上し、故郷を出て上田上鍛冶町の刀装金工師てある高桑六左衛門一寿邸に移ったのです。此れは名主職を捨てて刀鍛冶に打ち込む為でした。

叔父の遺品の刀は真雄の中でも『上田打ち』と言われている部類に入り、真雄が45歳から50歳くらい迄の全盛期の作品となります。折しも卸し鉄の秘伝を求めて中国筋への修行から帰り、少し経過してからの作品なのです。長柄が付いた『長巻き』として鍛刀された物を後年に買い求めた方が、当時の刀鍛冶に依頼して中心を切って刀に仕立て直した物なのです。真雄は城内常備の長巻と言えども一切手を抜かずに打ち上げておりますので、長巻き直しにも佳作が多いのです。また真雄の刀の造り込みは通常の甲伏せ造りでは無く『折れず 曲がらす 良く切れる』の理想の為に敢えて傷が出やすい『本三枚造り』や『四方詰め』と言う難易度の高い造り方を行っておりました。

造り込みの種類です。甲伏せ造りは一般的な造り込みです。一般的と言っても決して安易なものでは無く伝統的な造り込みです。現代刀匠の皆様は長い下積みの修行を終えてからも日々灼熱の炎と格闘し火傷をおいながらも精進し、やっと此処まで辿り着くのです。四方詰めや本三枚の造り込みは硬さ(炭素量)の違う鉄を其々に折り返し鍛錬で鍛えあげ、其れ等を重ねた後に赤めて接合し、刀の形に造り込んで行きます。刀の傷には色々な複合要因が有ると言われておりますが、刀鍛冶の著した書籍などを読むと、接合部分が多い程に鍛え割れたなどの傷が作品に出易くなり、造り直しも多くなると有ります。山浦兄弟は敢えて其の難しい造り込みに挑戦して成功しておりました。また材料の鉄につきましても卸し鉄(おろしがね)と言われる独自の材料造りに長年取り組み、常に最良の地鉄を目指しておりました。写真は日本甲冑合戦之会さまより
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同時期の脇差です。脇差 銘 『於高桑氏邸山浦源正雄造 高桑一寿蔵伝長子孫不許他譲』此方は高桑一寿が注文した脇差です。銘の後に続く銘文の意味は『長く子孫に伝え 他に譲るを許さず』です。上田打ちであり、山浦三刀工特有の菖蒲様鵜首造りという特殊な形状の脇差です。まるで長巻の上を切断した様な独創的な脇差しなのです。山浦一門は何故此の様な造り込みが多かったのか、花岡先生の本には先生の御考えが掲載されておりましたが、此方も2回分程の文章量になるので割愛致します。
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一部朽ち込みが有って白鞘の柄を抜くのに苦労しました。此方が全体の姿です。刃長は64..2cmです。
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中心の状態と銘です。
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こちらは重要刀剣指定の同時期に造られたた脇差の銘の部分です。私の印象は真雄銘のような細ダカネで流暢に切った銘が印象的ですが、此方の銘は比較的確りと切られております。城の常備刀なので文字の大きさも控えめですね。中心の鎬筋のほぼ真ん中に銘を切っているのも特徴です。
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ハバキより少し上の画像です。所々に錆びが有って見えにくいのですが、小板目肌が良く錬れて詰んでおり、処々に柾が掛かって地沸が厚く着いております。造り込みは長巻きと言えども菖蒲様鵜首造りです。
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真ん中と少し上の画像です。
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切先と物打ち付近の画像です。鋭さが感じられる力強い鋒です。
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叔父が取った昭和24年発行の特別貴重刀剣の認定書です。45年からが刀剣ブームが巻き起こるので其のギリギリ前でしょうか?
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鑢目は筋違いです。所々に玉鑢が有るところが見所ですね。玉鑢の玉とは鑢目の中にある微細なコブの様な玉状の物を言います。鑢掛けの途中で鑢を特定の力加減で戻す事により出す事が出来ると聞きましたが、実際にやった事がないので分かりません。
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私では此方の素銅一重ハバキが外せませんでした。ハバキ下には赤い悪い錆が出てます。朽ち込みが浅い事を祈ります。中心棟方の棟区下の鑢目は大事な鑑定材料になるので心配なのです。製作当時の品と思われる呑み込みの深い素銅一重ハバキは長巻きだった頃の名残りを示す品だと思いますので、刀身の研磨はしてもハバキは新調せずにおきます。
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此の正雄の一刀をお世話になっている研師の先生に研磨依頼で送りました。そうしましたら『中心を少し叩いたらハバキが取れたよ』との事でした。後は信頼する先生に全てをお任せし、研磨の出来上がりを待つのみです。

研師の先生です。
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簡単に書くつもりが、いつの間にか長くなりました。最後までお付き合い下さり有難うございます。