みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

叔父からの授かり物 其の1 大太刀

連休に母の実家に行ってまいりました。本家の叔母は97才、分家の叔母は87歳です。母の兄弟で存命は80才の母と東京の目黒に住む87才の叔父の2人だけになってしまいました。幼い頃から可愛がった貰った親戚が高齢となっており寂しく思っているところに、母に連休の初日に実家に乗せて行って欲しいと言われましたので、私はとっても嬉しく思ったのです。ただ今回目黒の叔父は名古屋の娘さん家族が帰って来るので来れませんでした。母の実家は牛舎をを幾つも持って牛を飼育しており、子供の私には楽しくて堪らない場所だったのです。

叔母の家で夕飯時に写真撮影を致しました。一見普通の座敷ですが、向かって左上の『寧静』とある書は現代書道の父と言われる比田井天来先生の書です。寧静とは平穏無事で安らかと言う意味です。右上の長押には大薙刀と大身槍、そして総螺鈿柄の平三角槍が掛かっております。床間の右には何と一軍の将の証である馬印が有ります。よくよく見ると飛んでも無い座敷なのです。
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母の実家は幼い私と遊んでくれた長男が早逝してしまい、実の兄同様の次男も早くに他界しております。新宅の叔父と叔母に子は無く、本家の一番上の姉を養女としているのです。其の様な理由で一番上の姉が2つの家と叔母2人の面倒を見ております。姉は埼玉県川口市に住んでおりますが、年に何回も立科に来ております。色々な意味で負担も大きく姉の体調が心配で仕方有りません。

今回母の一つ上である目黒の叔父から拵え付きの大太刀を一口授かり、加えて新宅の叔母から叔父が残した蔵刀の中にある山浦真雄の一刀を授かりました。叔母にずっと以前から真雄の刀を譲って欲しい旨を伝えていたのです。山浦真雄は本名を山浦昇と言って信濃国が全国に誇る名工です。細かくご案内しようとすると長文となり、とても一回では収まるモノでは無いので、2つに分けて今回はまず大太刀からご案内致します。

大太刀 無名 刃長三尺一寸二分 全長134cm(鋒から中心尻まで)、刃長は96cm、長大な半太刀拵えの全長は158cmも有ります。此の長さぐらい迄は『野太刀』と表現するかも知れませんが、今回は大太刀で統一致します。比較的身長の高い我が長女に持たせてみました。幼い頃から刀を見慣れた長女も『うわ〜凄い、こんな大きな刀も有るんだね〜、重いね〜』と驚きを禁じ得ませんでした。
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今度は鞘を払って下の娘に持たせました。『お父さん、とっても綺麗だけど重い〜』と言っておりました。写真を撮影して思った事ですが、身幅が一寸二分もある抜き身の大太刀を『怖い』と言わないのは流石我が娘達です。
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鞘を払った状態の写真です。小さく見えますが、下の刀掛けは短刀用では無く通常の大小二本掛けなのです。
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太刀鍔と言われる形式の鍔です。ご覧の様に通常は四方に猪目(いのめ)があしらわれております。猪目とはハートの図柄を逆さまにした様な図柄であり、猪の目に似ているので猪目と呼ばれております。魔除けや幸福を呼び寄せる有難い図柄なのです。でも此の鍔は恐らく鋳物の安物鍔だと思います。
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『切羽詰まる』で有名な切羽です。定寸(71cm前後)の拵えに付属する切羽に見慣れた私にとっては、かなりの大きな物に見えました。
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柄前は巨大で確りした造りです。恐らくは丈夫さを考慮したものと思われますが、太さもかなり有り、長さは38cmも有ります。刀身の中心の形状に合わせて反りがついておりますね。
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刀身のみの写真です。通常は刃を下に向けて置く物ですが、錆身の刃先へのダメージを考慮して刀と同じで刃を上に向けての写真となる事をお許しください。刃文は浅い湾れが小沸を交えて破綻なく焼かれておりますので出来は良いと考えました。帽子(鋒の刃文)は其のまま入り小丸で深く変える形状に見えます。
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身幅の1番有るところは役3.5cmです。重量の軽減の為と思われますが、太い樋が掻かれて角止となっております。重ね(厚み)は3分3厘(約1cm)も有ります。しかし『流し』の線の少なさがとても稚拙に見えます。本阿弥系でも藤代系でも無い研師のお仕事でしょう。
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佩き表側の中心です。朽ち込みなのか火肌なのか分かりませんが凸凹しております。無名である事は間違い有りません。
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佩き裏の中心です。
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我が家に有る2メートル38cmの槍と比べても此の長さです。
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金具は総鉄地です。五七の桐紋が銀であしらわれております。桐紋の配置の仕方を見ても本刀が太刀である事が分かりますね。
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兜金にも桐紋です。元々は天皇家の紋でしたが足利家や羽柴家に下賜され、現在は日本国政府の紋になっております。
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大太刀については過去の記事で触れました。長い歴史の中で太刀が一番長大となった時は南北朝時代です。戦国時代には扱いの楽な長柄武器の槍が主戦武器となり、大太刀は一部の豪傑のみが使用しておりました。江戸時代には武士の日本差しに対しての決まり事が定められ、大刀は2尺3寸5分(71cmほど)迄とされ、攻撃力が桁違いの大太刀を携帯する事は禁止になったのです。

だだ家の中で所持する事については問題は有りませんでした。神社などに奉納される太刀も奉納者の願いを現して長大な物が多く感じます。やがて幕末になり幕府の力が弱まると勤王の志士などは長い刀を持ち歩く様になったなったと言われております。今回の大太刀は全体の健全度や地鉄を鑑みると江戸後期頃に製作された物だと思います。

太刀の部位名称です。コトバンクより。今回紹介した拵えは一般的に半太刀拵えと言います。
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拵えについては通常の太刀拵えの様に足金物が2つ付いたものでは無く、太い一つのみの足金物に太い環が一つ付いているので、恐らくは巌流佐々木小次郎の様に背負う事を前程として造られた物だと思います。


背負い太刀の図です。Wikipediaより
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叔父は15年以上前から手入れが出来ない状態に有り、叔父が他界した後も叔母は素人同様なので手入れは行っておらずに長い年月が経過し、刀身に錆が広範囲に出ておりました。そこで何度もお世話になっている研師の先生に連絡を取り、まずは送り易い真雄の刀だけ先に送りました。一方大太刀はと言うと、見合うダンボールは有りませんので梱包の仕様が有りません! ヤマト便は元より、福山運輸も西濃運輸も無理との事でした。そこで父の能楽のお弟子さんだった方に赤帽運輸をされている方がいらっしゃるので、其の方に御願いする事と致しました。

仮に現代刀匠に大太刀を発注すると定寸刀の3倍以上の料金が必要です。更に鞘師は其の長さに見合う原木を調達する必要がある為に此方も3倍となり、同じ様に研ぎ師も最初に仕事部屋の大きさから調整する必要が有り、研ぎ賃も途方も無い金額に成ってしまうと高名な先生が仰っておりました。つまり大太刀と言うのは時間やお金に別格の余裕のある方が注文した代物であるのです。

貧乏サラリーマンである私の手元に大太刀が来てから、此の話を思い出しては悩んでおりました。まず修復に必要になる事は刀身の研磨と新規白鞘の制作と白鞘袋のオーダーと拵えのツナギ(タケミツの事です)の製作です。このまま保管し錆が進行するのを無視して据え置くと言う考えも有ります。然し乍ら我等の先人が残した貴重な文化財を錆びて朽ち果てさせる事は、偉大な先人達の生き様を冒涜する事と同じと考えるに至り、夏のボーナスが全て吹っ飛ぶ覚悟を持って必ず復活させようと思った次第です。ご縁があって私の手元に来た刀剣類は私が生ている間は必ず手入れを行って後世に残していく決意を新たに致しました。刀剣の書籍に『刀は買うのでは無く、自分が生きている間だけの預かり賃として対価を払う』と有りましたが、其の事を少しでも実践出来る事を嬉しく思う次第です。トホホ.....! 

次回は山浦真雄の『上田打ち』をご紹介致します。