みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

諏訪大社の宝刀『梨割西蓮』

昨年の秋に仕事仲間を連れだって諏訪大社に行って来ました。目的は長年資料を読み漁っていたミシャグジ信仰の根源を参拝する事でした。今回は願いが叶い目的は達せられました。神域に入る小さい禊の為のせせらぎを渡った時から小雨が降り出し、全ての参拝が終わって下山し始めると曇った空にも関わらず晴れ間が覗き、光が我々の前を照らしたのです。参拝場所の内容については余りにも非日常である為にブログに書いて良いものかの判断が付かずにおります。そんな旅の目的の二つ目に諏訪大社上社本宮宝物館に展示されている御神宝の『梨割西蓮』を数年ぶりに見に行く事でした。生まれから歴代の所持者を経て、私の目の前に静かに在るのですが、恐らくは鎌倉時代から今日までの歴史を具現化した神器にも等しい宝剣なのです。

諏訪大社上社本宮に通じる御門の奥に布橋と呼ばれる回廊がございます。御門の新しい屋根の檜皮がとても綺麗でした。布橋とは、かつて現人神である大祝のみてが歩行を許された通り道であり、回廊の踏板の上に布を敷いた事が名前の由来みたいです。恥ずかしながら、繁々と門を見詰める緑のウインドブレーカー禿げおじさんが私であります。
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さて先程の本宮宝物館にある太刀のうちの一口をご案内致します。此の刀剣には『梨割西蓮』と言う号が有り、生まれは筑前国ですが非常に数奇な運命を辿って現在の場所に落ち着いております。号とは其の刀剣に付けられたニックネームの様なものとお考え下さい。梨割西蓮は寛文7年に松平忠輝公が大社に奉納したものと伝わります。ところが奉納者の忠輝公に渡るまでに物凄く長い時を経ており、有名な方々を経由している王者の太刀とも言える代物なのです。現在は大きな役目を全うして諏訪大社本宮を鎮護しております。残念ですが宝物館には其の説明がございませんでした。

『梨割西蓮』です。恐らくは刀剣を知らない方のディスプレイだとは思いますが、少し角度が悪くて真横は写せませんでした。後で説明致しますが、コレ程の名刀を据わりの悪い鹿角の刀掛けにかけるのは一愛刀家として心配になります。更に刀剣は鉄ですのでショーケースの中は湿度が少ない方が適しており、適度な湿り気が必要な違う文化財と同じ陳列にも疑問が残った次第です。
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梨割西蓮の説明書きです。
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拝見してガッカリ致しました。此れには一部間違いがあります。『刀銘 西蓮』では無く、『無名 西蓮 号梨割』が正しい表記です。本刀は大磨上無銘であります。つまり銘が有ったかどうかは現在では分かりませんが、銘が在った部分を取り去って無銘となっているのです。梨割西蓮は無名でありますが、確りと来歴が残っているので筑前国の西蓮作と極められた事になるのです。極めるとは専門用語であり、作者を特定すると言う意味です。一番権威のある極めは往時より刀剣研磨を生業とする本阿彌家が担っておりました。

此方が梨割西蓮の鞘と思われます。筑前国談議所西蓮 無名本阿弥添書有りとあります。本阿弥の極めが付属していると言う意味です。談議所とは正式に鎮西談議所と言い、鎌倉幕府の行政機関の事です。司法機関と役所の役目が一緒になったような場所でした。
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中心(錆びている手持ちの部分)の上には薙刀樋(なぎなたび)と言う独特の樋が掻いて有ります。中心(手持ち部分)の下は裁断したように真っ平になってます。
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中心(手持ちの部分)の3寸ばかり上から刃の反対側である棟の部分を薄く加工しております。
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棟を落とした形状は切先まで続いて切先の頂点につながっております。この形状を菖蒲の葉に似ている事から菖蒲造りと言います。傍目でも鋭さが伺える鋭利な造り込みですね!
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梨割西蓮のハバキです。ハバキとは鞘に刀身を納めた場合のストッパーとなり、刀身が鞘の内に当たる面積を極限まで減らす役目も負っております。『梨』『割』と彫り込んだ手間の掛かった金着せハバキです。金着せとは銅の鋼材を整形した後に金の薄板をピッタリ着せると言う手間の掛かる造り方の事なのです。
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私の短刀に付いている金着せハバキです。裏からみると薄板を着せている事が分かりると思います。本当はもっと薄い板を着せる古き良きハバキを紹介したいのですが、あいにく持ち合わせておりません。
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前述致しましたが、松平忠輝公が諏訪大社に奉納した後は諏訪大社から甲府藩主であった徳川綱豊に渡り、以後は徳川家に伝わって歴代将軍が保持しておりました。明治になって徳川家から侯爵であった佐々木家に贈られ、更に佐々木家から陸軍大将乃木希典に贈られました。乃木希典が自刃した後は杉山茂丸氏清に贈られましたが、大正8年に徳川16代当主の徳川家里に返納されたのです。その後は徳川本家より侯爵徳川慶光氏に贈られた事を契機に諏訪大社ゆかりの品である事から奉納された経緯があります。後半戦の来歴を先に御案内致しましたが、物凄い来歴を持つ太刀である事はご理解頂けたと思います。しかし後述致しますが、其れ以前の来歴はもっと凄いのです。

梨割西蓮は製作当時は大薙刀として作刀されました。武蔵坊弁慶の持っているヤツです。薙刀が戦闘形態の変化により合戦での使用頻度が減って行く過程で名品を後世に残す為に中心を短くして刀に再利用した物なのです。

西蓮とは有名な筑前国の刀鍛冶であり、息子は実阿(じつあ)、孫は有名過ぎる左文字その人なのです。梨割西蓮は筑州西蓮の作刀なのです。

熱田神宮に所蔵される西蓮の子である実阿の太刀です。因みに此方の太刀は重要文化に指定されてます。流石に草薙剣を祀る熱田神宮だけあって素晴らしい展示の仕方です。訪問者にも刃文や地鉄が分かり易くなる様に素晴らしい配慮なのです。
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では其の薙刀としで生まれた梨割西蓮が何故に梨割と言われたかと言うと、話は1274年11月19日まで遡ります。以下の話は浜浩哉氏が昭和36年に記された『西蓮刀之記』からの説明を引用致します。

1274年11月19日と言えば日本を襲った蒙古襲来の2回目である文永の役が始まった年です。ご存知の様に文永の役は本気の蒙古軍が日本に攻め入った国家存亡の危機でした。結局は最強鎌倉武士団にボロ負けした挙句に台風に船ごとひっくり返されて負けたのですが、上陸した蒙古軍と鎌倉武士団は激しい戦闘を繰り広げました。その中で鎌倉幕府御家人であり、伊予水軍の棟梁である豪勇河野通有が西蓮作の大薙刀を振い上陸した蒙古軍の将と戦ったのです。

其の激闘のなかで河野通有は見事に敵将を兜ごと叩き割ったと伝わります。梨割西蓮はまるで梨を割る様に敵将を討ち取った事から命名された号なのです。河野通有と言う武将は正しく豪の者で充分に肯定出来ますが、此の故事は凄まじいですね。言い換えると日本を救った薙刀であったと言っても過言では有りませんね。

その後は近江国穴太の村上彦四郎義日の元に渡り、彦四郎から足利将軍家に献上され、その後は武田信玄公が拝領して名工である和泉守兼定薙刀から薙刀直しと言われる形状の刀に直されました。此処で梨割西蓮は薙刀から刀に変貌を遂げたのです。信玄公は梨割西蓮を持って川中島の戦いに向かったと伝わります。信玄公が没した後は四郎勝頼から六角承禎に伝わり、六角氏が信長公に破れると浅井長政の所用となり、浅井朝倉両軍が敗れた後は信長公に渡り、その後に秀吉公に渡った後に、秀吉公から家康公に贈られました。更に家康公から六男の松平忠輝公に渡り、忠輝公が諏訪大社に奉納したのです。鎌倉時代から現在までの武家の歴史を見て来た刀剣である事がご理解頂けると思います。

私の個人的な思いかも知れませんが、梨割は鎌倉時代に日本国を鎮護した後に歴代の権力者のの手に渡り、諏訪大社に納められた後も国家的危機を迎えた事を契機に乃木希典陸軍大将の手に渡るなど何回も国家存亡の危機を救ってくれた事になります。そう考えると私は日本のの為に戦ってくれた名刀梨割西蓮に心から敬意を評してたいと思います。本当の名刀とは此の様な霊力が宿る刀剣の事を指す名称であると思う次第なのです。

文中の内容は三浦一郎先生の『信濃の甲冑と刀剣』から一部引用させて頂きました。此方の書籍のおかげで色々勉強させて頂いております。
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