みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信州 真田宝物館 松代藩荒試しの刀

真田宝物館のホームページより

信州松代は真田13万石で有名ですね!信州真田家に伝わった諸々の宝物は真田宝物館に収蔵されております。家から車で15分程なので帰郷の度に訪問し、其の時の展示を拝見するのを楽しみとしております。少し前の話ですが世に伝わる物凄い物が展示されておりましたので今回ご紹介させて頂きます。私は其の時の展示物が当時の物と知り、恥ずかしながら事の凄まじさに少々戦慄を覚えました。その展示物はと言うのは刀で有り、史上稀な刀の堅牢さを試す試刀会で試された物です。当時の松城藩をあげての試刀会で実際に試された現物でした。清麿は勿論、山浦一派の研究では第一人者であります花岡忠男さんの書籍で内容は知り得ておりましたが、試された現物を見ると只々驚嘆するばかりでした。最初に簡単に次第を説明すると松代藩上級藩士の多くと城の常備刀として納められていた大慶直胤と言う刀工の刀が簡単に折れた事から始まり、直胤に変わる当時頭角を表していた新進気鋭の刀鍛冶の刀の強度を試し採用するか否かを決めたのです。更に其の新進気鋭の刀鍛冶に刀の性能として折れやすい錵出来の刀を打たせての試刀会だったのです。刀の焼入れと強度については、私ごときが説明するには余りの知識不足の為にやめておきますが、簡単に説明すると高い温度で焼入れした刀は強い焼きがはいる代わりに折れやすい特性を持ち『錵出来』と言われます。対して其処までの高温で焼入れしてない備前伝に代表される刃文を匂い出来と表現すます。相州伝に代表される錵出来にも小錵やら荒錵やら沢山の種類がありますが、此処での説明は省きます。

ボロボロの直胤の刀

別角度からの撮影

この刀の説明文です。
歴史の具現化された物として残された事は本当に称賛に値する事だと考えます。

この話は刀剣好きなら知らない人が居ない程の有名な試しです。当時の真田家江戸家老矢沢監物が贔屓にしていた大慶直胤は現代においても新々刀の第一人者と認められており、当時でも間違いなく当代随一であったと思われます。どの伝法もこなす名人で特に直胤独特の渦巻き肌の刀は見る者を魅了致します。私も何処かは忘れましたが、ある刀屋さんで見せて頂いた時は惚れ惚れ致しました。試刀会に至った次第は直胤の刀を用いてある藩士が切り試しをした処、刀が折れ飛んだと言う事から始まり、その事を聞いた藩士達が次々に己の直胤刀で試した処、簡単に折れました。松代藩内では大騒動になりました。藩士個人だけでは無く、お城の常備刀として納入されておりましたから事は重大です。藩士達は大慶直胤を『大偽物』と罵りました。そこで先程の新進気鋭の信州の刀鍛冶の刀と一緒に荒試しを行なったのです。新進気鋭の刀鍛冶屋の話を綴ると、長文になり過ぎるので、此処では大慶直胤の刀に対して行われた試しだけ紹介致します。

嘉永6年3月24日、真田藩武具奉行の金児忠兵衛邸で行われました。集まった藩士は120人を下らずと有ります。10人が選ばれて目付役とされ、切り試し役は家中手練れの者が7人選ばれたとされております。他には研ぎ師2人、万が一の事故に備え医師が1人臨席と有ります。
最初に試された一口は直胤刀で二尺三寸八部分の荒錵出来の刀、まず俵菰二枚重ねの干藁を切ると八分切れ、切れ味中位、次いで厚さ8厘、幅三寸の鉄鍔を切ると刀は鍔元7〜8寸から折れる。
二口めは直胤刀二尺三寸の匂い出来の刀(高音で焼き入れする錵出来より比較的低音で焼き入れする匂い出来の方が丈夫と言われてます)。干藁を一太刀切ったら腰(反り)が伸び、そのまま五太刀切ったら八分は切れた。鉄砂入陣笠に二太刀、一太刀毎に腰が伸びる。鉄胴にニ太刀で刃切れ入り、刃毀れ生じる。鹿角に三太刀、鍛鉄に三太刀、鍛鉄を少し切り割るが刃切れも多く出た。次いで兜に一太刀で大いに伸びる。鉄敷棟打ち七太刀、平打ち四太刀で折れた。
三口目が直胤作の長巻、干藁をニ太刀切っただけで刀身は曲がり、切れたのは五分のみ。
四口目も直胤作の長巻、干藁への一太刀で曲がり強しで切れ味四分から五分とされる。
五口目も直胤作の長巻で干藁にニ太刀で五〜六分切れ、続いて鹿角にニ太刀、一太刀で刃毀れの上大いに伸びるとある。ニ太刀目に更に伸びて刃切れ入り曲がり強く切る事が不可能となる。鉄敷棟打ち三つ、平打ち二つて刃切れ口大いに相成り曲がり、ぐたぐたにて其の差置くとあります。何も城方に常備刀として置かれた刀で有り、匂い出来の刀以外は腰が弱すぎて使えないと確認されたと有ります。想像するだけでも手に汗握る凄まじい試刀です。
上の写真の刀が一連の試しに使われた物である事は間違いありません。松城藩のみでは無く水戸藩でも同様な事が行われていたと書物で知りました。嘉永6年の3月24日に行われた試しで城に納入する刀鍛冶を決して、同年7月にペリー提督が黒船4隻で浦賀沖に出現したのです。ペリーが来航して風雲急を告げてからのスタートでは無く、其の前の事なのです。流石は武で名を轟かせた真田藩であるといえる凄い先見の明ですね。

直胤の次の松代藩御用鍛冶の打った傑作の一口です。