今週は信州の東御市で山浦真雄と弟の山浦清麿の刀、そして真雄の嫡男である山浦兼虎の刀の展示会が有り帰郷致しました。東御市には他にも県の重要無形文化財である宮入法廣刀匠が現役で活躍されております。
東御市の故郷納税の返礼品として宮入刀匠の刀子(とうす)の復元品がごさいます。ご存知の通り刀子とは聖武天皇ゆかりの品をおさめる正倉院に有る御物の事です。
更に宮入刀匠は埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した国宝『金錯銘鉄剣』の復元品も手掛けた稀代の名工なのです。
日本刀は其の作刀された時代によって大きく4つに分けることが出来ます。まず一つ目は古刀(約800年間)、次は新刀(約180年間)、そして新々刀(約100年間)、最後に現代刀(廃刀令以降)と分類されます。古刀期からの全刀工名が記されている日本刀銘鑑には約23,000人を超える刀工が載っております。信濃の山浦一派は新々刀期の最後に活躍した刀工集団となります。
尚、刀には時代ごとに位列と言う順位が存在致します。此の位列を簡単に説明すると刀工の技量の優劣によって決められた順位の事です。参考迄に新々刀の位列を少し明記致します。
※新々刀最上作
山浦清麿 水心子正秀 大慶直胤 奥元平
※新々刀上々作
栗原信秀 月山貞一 伯耆守正幸 固山宗次 次郎太郎直勝 細川正義 山浦真雄 市毛徳鄰 運寿是一 手柄山正繁
此れ以後も位列は上作〜中上作と続ます。真雄の嫡子である兼虎は廃刀令のおかげで作刀数も少なく新々刀中上作に該当しております。
今回の催しものは此方です。長野県東御市生の郷土刀に絞った展示会ですね。
例えば愛知なら信長公のお抱え鍛冶であった若狭守氏房、紀州なら高名な南紀重国、岡山なら長船の刀剣、立花宗茂が治めた筑後柳川なら鬼塚吉国など、全国には其の土地ならではの郷土刀がございます。
さて、山浦一派を創始した山浦真雄の刀からご紹介致します。ガラス越しである事と展示室天井や内壁の構造上の関係から画像を拡大すると鎬地や平地に縦縞が入っておりますが、素人撮影につき御許しください。
上田藩の剣術指南役である河合直義からの注文による長寸の大太刀です。直義の子孫が上田市に寄進し現在は長野県宝です。三尺を超える大太刀です。
説明書きです。此れだけ長大なものに破綻なく刃を焼く事は至難の業であり、真雄の高い技量が伺えますね。
小諸の牧野家のお抱え刀工として活躍していたい頃の小諸打ちです。真雄のこの頃の銘は寿昌でした。此方も長野県宝です。
説明書きです。真雄の考えは『鹿が角を持ちながら山野を駆け抜ける様に自然に腰に治る刀』が理想でした。写真でお伝え出来ませんが、小板目に小杢目が混じり潤いが有って粘る地鉄に感じます。
山浦真雄の脇差です。山浦一派は此の形の脇差を多く造りました。何とも恐ろしい此の形状は刺突に適しております。山浦一派の研究家である花岡先生は此の造り込みを『菖蒲様鵜の首造り』と表現しておりました。
此方は真雄の薙刀です。長い茎が其のまま残されている貴重なものです。
真雄は中山道の宿場である芦田古町の戸塚勘右衛門定吉の二女であった勢喜を妻に貰い嫡男である兼虎を授かりました。説明によると此の薙刀は芦田宿の本陣の屋根裏から発見されたと有ります。
此方は嫡子である兼虎の刀です。大切先の力強い作品となります。明治元年十月の年紀が有りますので、明治九年3月28日に発布された廃刀令まで残り9年弱です。今後の活躍が期待された兼虎46歳の全盛期の話となります。(長野県宝)
説明書きです。山浦一派は山浦真雄が道を切り拓き最強の刀造りに成功した事で名声を高め、弟の清麿は四谷正宗の異名を取る程に名声を上げ、嫡子兼虎で終焉を迎えた事になります。真雄の弟子、清麿の弟子達も名人揃いでしたが、廃刀令には敵いませんでした。
此方は弟の清麿の太刀です。現行では数千万〜1億近く迄お金を積まないと買えません。真雄の数十倍の刀価になる程の人気刀工です。私ごときでは手も足も出ません!
説明書きです。
清麿の傑作として物凄く有名な『一期一腰』と言う大小の大刀です。武家の差料は脇差と大刀で有り、大小揃いで造られました。
此方は『一期一腰』の小です。余りの鉄の冴えに惚れ惚れしてしまいました。
全ての刀剣類を観たら時間が4時間ほど経過しておりました。一緒に行った妹と母親はとっくに疲れてソファーに座ったままでしたので、三刀工其々の地鉄の違いを再度観たかったのですがやめておきました。もっと多くの作品を紹介したいのですがキリが無いのでやめておきます。取り止めもない内容で失礼を致しました。