みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

強者の遺品に思う

大型連休を利用して更科に帰って来ました。連休中は母の実家に行ったり色々有りまして、行きたい所には初日に行ってまいりました。見たいモノとは真田家当主であった真田源太左衛門尉信綱の佩刀である青江の大太刀でした。

真田信綱公です。『信』の字は真田家の通字です。写真はWikiより
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真田源太左衛門尉信綱は武田勝頼の配下として長篠の戦いに参戦し、弟である真田兵部丞昌輝と共に壮絶な討ち死にを遂げたのす。信玄公が存命の折に父の幸隆と共に武田二十四将に数えられたほどの猛将でした。

長篠の露となった信綱公の首級は家臣の白川勘助解由兄弟の手により陣羽織に包まれ鎧と共に信濃の大柏山打越寺まで運ばれ葬られました。その後に打越寺は信綱寺と改められております。白川勘助解由兄弟の忠臣ぶりは後の語り草となっております。

上田市真田町に有る信綱寺の宝物館に所蔵されている血染めの陣羽織です。此の陣羽織に信綱公の首級が包まれておりました。
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此方も信綱寺の宝物館に所蔵されている本人の黒漆塗仏二枚胴具足です。私は先に紹介した陣羽織と此の二枚胴を見た時に恥ずかしながら震えがまいりました。
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その真田源太左衛門尉信綱が使った大太刀には激戦を物語る刃溢れ(ハコボレ)が有り、其を敢えて直さずに収蔵されているのです。此の太刀は備中国青江貞次の作刀で有り時代は南北朝時代です。青江派備中国(現:岡山県西部)に拠点を置いた一大刀工集団でした。青江派の太刀は多くの国宝指定や重要文化財の指定を受けている名門一派なのです。他にも有名なところでは吉川家に伝わる青江為次の狐ヶ崎が有ります。

山口に居る友人が送ってくれた吉川資料館の狐ヶ崎です。
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青江の大太刀が展示されているのは此方の真田宝物館です。実は過去に3回ほど見ておりますが、前回は既に5年ほど前の事です。
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此方が今回の主題である真田源太左衛門尉信綱の青江の大太刀です。神社などに奉納される大太刀では無く実戦に即した大太刀なのです。姿をよく俯瞰して見ると高い品格が備わっており何とも言えない存在感です。また、備前物とは違う映りが出ております。
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もの打ちから切先です。樋先がだいぶ上がっております。
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茎と其の上です。
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刃長は103㎝、銘は『備中国住人□□ 延文六年二月日』と有ります。銘の部分は朽ち込んで判読出来ませんが、真田家譜には『青江貞次の鍛えたる三尺三寸余りの陣刀』と明記されております。

 刀身の中央右上の棟に敵の斬撃を受けた切り込み傷が有るのが分かりますでしょうか。他は何と言っても肌が凄い!青江は縮緬の布の様な地肌で有名ですが、本太刀は其れだけでなく、青江独特の澄肌が垣間見れ、地景が縦横無尽に入る凄い地鉄です。実を申しますと此の時代の太刀はオーバーツで有り、現在の科学を持ってしても原料と制作方法を含めて再現が不可能なのです。
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此方は激戦の刃溢れが見えますね。相手の武者と切り結んだのでしょうか。
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重要文化財青江の大太刀の説明書きです。もうちょい詳しく明記してほしく思います。
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長兄の源太左衛門尉信綱と次兄の兵部丞昌輝を失い、残された三男の真田昌幸は辛かったであろうと思います。しかし悲しみに打ちひしがれている暇も無く織田軍の侵攻により武田勝頼公が天目山で自刃し武田家は滅亡してしまいました。昌幸の嫡男は信之であり、次男が信繁(幸村)です。真田昌幸は信玄公譲りの見事な采配で徳川の大軍を2度までも打ち払い、其の後の子孫は激動の時代を生き抜き現在まで至っております。

私が真田源太左衛門尉信綱の青江の大太刀の存在を知ったのは中学生の頃でした。また、源太左衛門尉信綱の半生を知ったのは高校生の頃です。何も父の蔵書を読んで知りましたが、故郷の英雄が所持した大太刀の存在は1人の信州人として実に感慨深い文化財なのです。

真田信綱公は武田の先鋒隊として数々の武功を挙げた猛将でした。特に三増峠の戦い三方原の戦いでの活躍は有名です。長篠の戦いも真田の精兵を率いて参戦し、敵の三段構えの馬防柵を次々なぎ倒し、青江の大太刀を打ち振るい敵を蹴散らしながら敵陣に迫りました。しかし鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に戦死したのです。信濃の名族滋野氏の嫡流である海野氏の血を引く若き当主は39歳の若さで斃れました。

信綱寺です。Wikiより
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此の大太刀は正に真田家当主であった源太左衛門尉信綱の遺品で有り、棟の傷や刃毀れは真田家当主が受けた傷で有ります。今から約450年前の天正3年5月21日に勃発した長篠の戦いを現在に具現化していると同時に信綱公の散り際の凄まじさを物語っておりますね。

設楽原決戦場三子山に残る信綱兄弟の墓です。若き当主は家名に恥じない勇猛ぶりを見せ見事に散りました。甥っ子の真田信之が93歳まで生きて真田家の危機を救い、更にその後の真田家が『武門の家柄』として江戸時代を見事に生き抜く様を見てきっと満足されている事でしょう。今も信綱公の『熱い思い』は其のまま青江の大太刀に込められていると考えます。此れこそ刀剣が霊器と伝わる由縁ではないかと思う次第です。
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