今週は〇ータリーの地区研修会が有り、入会二年目の私は岐阜県の多治見市まで出向きましたので釣りには行けませんでした。土曜日丸一日潰れましたが、多治見と言えば美濃焼の名工を多く輩出した聖地ですので、それなりに感慨に浸っておりました。帰りも遅くなり、借り上げ社宅の玄関をくぐったのは21時を回った辺りでした。翌朝は刀の手入れを行ったのですが、思うところが有ったので今回ご紹介させて頂きます。
刀の部位名称で手持ちの部分を中心(なかご)と言います。此処には通常は作者の銘が切られております。此れは大宝律令(701~704年)によって定められたと伝わっております。金工師が銘を入れる時には『彫る』と表現しますが、刀鍛冶の場合には『切る』と表現致します。また反対側には『年紀』と言って制作された日付が切られる事も有ります。
此方が年紀です。享保元年とありますね。TV番組の暴れんぼ将軍で有名な徳川吉宗公による享保の改革が行われ始めた年ですね。
大河ドラマの『八代将軍 徳川吉宗』が懐かしいです。NHKアーカイブスより
所有者が此の一刀を手入れする時は、此の時代に思いを馳せます。自分の差料に切られている年紀は持ち主にとって気になるモノなのです。また、多少メルヘン的な表現に成りますが、其の時代背景を知ることで作者の願いを感じる事も有るのです。
此方の慶應2年は、歴史に名高い薩長同盟が成立した年です。坂本龍馬と西郷隆盛公の顔が浮かんで来たり、長州の高杉晋作などが遺恨を押しても薩摩と手を組んだ心境などが忍ばれますね。そんな激動の時代に鍛えられた一刀になります。
因みに年紀において2月と8月が多いのは意味が有ります。ご存知の様に昔は旧暦でしたので、2月と8月は現在の3月と9月に該当致します。つまり『暑さ寒さも彼岸まで』と言われている通りでして、一年で一番水温が安定し、焼き入れを其の安定した水温の水で行なった為と言われております。また、当時は今よりずっと信仰心があつく、彼岸の水には霊力があるとされておりました関係も多分にあると思います。
やっと本題に入りますが、此方には天明三年と有ります。天明三年の卯年に薩摩国で生まれた刀です。此の年に起こった自然災害によって我々のご先祖さま方は大変な苦労をされました。
では何が起こったかと申しますと、信州の活火山である浅間山が有史の中で一番の大噴火を起こしたのです。時は天明三年七月八日(現在の8月5日)ですので、上述の薩摩刀が焼入れされてから約半年後の事です。此れは天明大噴火として今でも語り継がれております。
天明の大噴火により出た被害として死者1,624人、流失家屋1,151戸、焼失家屋51戸、倒壊家屋130戸余りと有りますが、コレは火砕流や溶岩流などの直接的な被害のみですので実際には此の数倍の被害が出ました。巨大な大噴火によって現在では観光地となっている『鬼押し出し』が形成されたのです。
此の噴火は大規模なマグマ噴火であって、浅間山の北側にあった現在の嬬恋村や長野原村を火砕流や溶岩流が襲いました。特に当時の鎌原村(かんばらむら)は火砕流と土砂崩れで壊滅致し、村の人口の8割が死に絶えたのです。
当時に描かれた絵です。Wikiより
巨大な噴火は成層圏にまで達して、江戸を含む関東平野に多くの火山灰や軽石が降り注ぎ甚大な被害が出たと言います。火山泥流は利根川を猛スピードで暴れ降り、周辺一帯を全て薙ぎ倒し、江戸湾にまで達したと言われております。巻き上げられた火山灰は長期間に渡り日光を遮断し、其の事で天明の大飢饉を誘発してしまい、全国で推定2万人の餓死者が出たと言われております。
被害を受けた鎌原村の集落を嬬恋村教育委員会が発掘調査した時には無惨な当時の被害者の遺骨も多く出てまいりました。余りの悲惨な光景に『日本のポンペイ』と言われております。 合唱 読売オンラインより
最近では木曽御嶽山の突然の噴火が記憶に新しいのですが、此の天明大噴火は規模が違いますね。実際には4月頃から小さい噴火が起こり始めて7月の大噴火がピークだったと言われております。
話は戻りますが、此の薩摩刀を購入する時、既に此の大噴火を知っていた私は年紀を見てハッと致しました。噴火は大地の怒りだと個人的には感じていたからです。しかし此の刀を手入れする毎に犠牲者を悼む事で鎮魂の意味も有りますし、無事に家族が生きている事に対して感謝する事にもつながると考えて購入を決意したのです。現在の所有者は私なので、此の薩摩刀には『浅間丸』と号を付け、読み方は浅間神社と同じで『せんげんまる』として愛蔵している次第です。