みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

夏の思い出 仁科神明宮  3

一通り参拝が終わりました。最後に妹夫婦は社務所御朱印を依頼し、娘達と母は御守りを授かっておりました。私は社務所の方に宝物館に入館したい旨を伝え、普段は鍵が掛かっている宝物館に入らせて頂く事になりました。『少しお待ち下さい』との事なので、夏の日差しを避ける為に休憩室に入りました。

休憩室には奉納された面がズラッと並んでおります。能楽師の父は、世界中の演劇の中で『面』を付けた人が演じる役柄は『人ならぬもの』であると言っていた事を思い出しました。面は見慣れた能面とは少し違っており、神楽面(かぐらめん)と書いてありました。
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信奉者の方が奉納された神楽面です。いずれの面も細部まで手の込んだ見事な彫りでした。
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因みに神楽(かぐら)とは其の場に神をおろし、神と人とが共に享楽する事を目的とした古来からの神事です。言い換えれば『神降し』の神事とも言えますね。また、日本において神の御告げを受けられるのは女性のみです。通常は巫女さんが其の役割を担っていると思われます。
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全く違う話ですが、魏志倭人伝に有る卑弥呼という呼称は『あまねく卑しいと呼ばれている』と書き、チャイナが日本を蔑んで付けた名です。本当は太陽(天照大神)を現す『日』の巫女が正しいのではないかと我が師が言っておりました。神職の方から『では、どうぞ』と言って頂いたので早速中に入りました。

此方が目的の一つである重要文化財の木造棟札です。 棟札とは棟上げ(一般の家だと上棟式)時に日付や施主などを書き込み、天井の棟木などに打ち付ける木札の事です。写真の棟札は永和二年と書かれております。
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永和二年と言ってもピンと来ないと思いますが、室町幕府三代将軍の足利義満公の時代となります。各地に守護を置き、その支配体制が未だ落ち着く前だと思います。此の守護が地域の大名主(おおなぬし)となり、やがては大名となって行った時代です。しかし其の後に6代将軍の足利義教を三カ国の守護大名である赤松満祐が殺してしまった『嘉吉の乱』が起こり、幕府の力は急激に弱まって戦国時代に入った経緯が有りますね。
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説明書きです。
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ズラッと続く此方が20年に一度の式年遷宮の際の棟札となります。恐らくもっと以前から式年遷宮は行われていたと思いますが、一番古い物は南北朝時代の永和2年(1376)の棟札で有り、その後620年間33枚が此の宝物館に残されております。33枚のうち江戸時代末期にあたる安政3年(1856)までの27枚が重要文化財に指定されております。室町〜江戸時代までの棟札が此処まて並ぶ光景は圧巻の眺めでした。何故なら此の文化財は620年間もの歴史を『具現化』したものだからです。
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歴史の証明と言えば、私は趣味の一つに刀剣鑑賞がございます。我が家には大小十二口の刀剣が有り、其の中で年紀(製作された日付)が有るものが八口です。年紀を見ると其の時代の歴史背景が分かりますね。特に天正年紀などは武田信玄公などが活躍していた大変な時代であり、手に取ると実に思うところが大きく、色々な妄想をしながら手入れと鑑賞を行います。

此方の棟札も刀の年紀と同じで一枚一枚が『歴史を具現化した』とても重要なものですね。棟札を見ながら歴史を振り返っておりました。特に足利義満公の時代は信濃でも幕府に任命された守護の横暴に地域の領主が結束して立ち向かい、見事に此れを打ち負かした大塔合戦(当ブログに2022年10月22日から複数回連載)が起きた年代です。此の合戦が起こったのは応永七年でした。

大塔合戦には大太刀を縦横無尽に使いこなす当地の剛勇仁科盛房公が200騎を率いて参陣し、小笠原方の強者である坂西長国と大激戦を繰り広げた経緯がございます。大太刀を使う荒武者同士が繰り広げる戦いとはどの様なモノなのか想像もつきません。

以前に次女に持たせた我が家の大太刀です。仁科盛房公が使った大太刀は正確に刃長が伝わっておりませんので分かりませんが、一般的に刃長が三尺を超えると大太刀と言います。大太刀を振るう武者とは本当に怪物なのです。重くて長大なので誰でも扱えるモノではないのです。
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棟札には応永3年のものが存在します。そして此処から4年後に大塔合戦が起こります。恐らく仁科盛房公は仁科神明宮に軍勢を集結させて戦勝祈願を行ったと思われます。応永3年の棟札を見つめていると、仁科軍の『鬨の声』が遠くで聞こえて来るようです。

大塔合戦時に寄手の大将であった村上義清公です。戦国最強だった武田信玄公を2回も完膚なきまで打ち負かした猛将です。特に上田原の戦いでは武田方宿老の板垣信方甘利虎泰が討ち取られております。両武将は当時武田家の飛車と角の様な存在でした。

仁科神明宮の式年遷宮は古族である仁科氏の総領が務めておりましたので、個人的にも一枚一枚撮影し、後の研究材料とさせて頂きました。
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他にも多くの宝物が陳列されておりましたが、もう一つ是非とも見たかった御正体(みしょうたい)の前に、神明宮に奉納された刀剣をご紹介致します。ガラス越しなので画像が分かり難いのは御許しください。

此方は脇差です。茎(なかご)は白鞘の柄で分かりませんが、箱書によると銘は備州長船住祐定です。室町時代までの刀剣の大産地は備前国でした。備前国で生産される刀剣は他の地域を圧倒しており、正に一大刀剣王国だったのです。しかし全盛を誇った備前鍛冶も天正19年に起こった吉井川の大洪水で地域ごと流されてしまい、生き残った人は2〜3人だったと伝わります。流域では死者が7千数百人も出たと古文書にございます。
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吉井川  Wikiより
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そして其の生き残りから僅かではありますが備前刀工を名乗る刀鍛冶が輩出され、江戸末期まで其の系統は残りました。『備州長船住祐定』は江戸時代に活躍した刀工で有り、当時から名工の誉高い刀工でした。此の脇差は中鋒が伸びて姿も美しく、鍛えも上手であり、焼きは刃区に近い棟の下の方まで焼き下げております。どちらかと言うと相州物などに多い皆焼(ひたつら)と言う焼き入れに近い出来です。

何時も思うのですが、奉納された刀剣類は手入れをされずに錆びるままになっており、一人の刀剣愛好家して甚だ残念で仕方ありません。熱田神宮草薙剣御神体だけに、奉納された刀剣類は素晴らしい状態に保たれておりますね。刀の話になるとつい長くなってしまって申し訳ありません。


無言で夢中になっている私を横目に見て、痺れを切らした妹と次女には『お腹減ったよ〜』と言って私を急かせてまいります。他にもう一つ必ず見ておきたい神仏混合の歴史がありましたので、彼女達には『うな重の松と肝焼きも付けるから、待ってて〜』と言って許して貰った次第です。思わず財布の中身を確認してしまいました。