みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 3

今週は神武東征の最終回で天神御祖(あまつかみみおや)から十種神宝を授けられた饒速日命が登場します。饒速日命の登場シーンはとにかく少ないのですが、記紀にはハッキリと神武天皇より前に天降っていた天孫族として記述があるのです。つまり天孫はニ系統有った事になります。

ヤマトを治めたイワレビコは橿原の地にて『建国の詔』を発します。我らの日本国は2,680年も前に世界にも全く類を見ない高い理想のうえに成立致しました。詔は原文と現代語訳を載せますので、其の前の東征軍の動きが駆け足となるかも知れませんが御許し下さい。

イワレビコが高倉下を通して受け取った布都御魂剣は石上神社に御神体として鎮座されておりますが、此方の写真は東京都世田谷区にある北澤八幡宮に奉納された布都御魂の写し物です。刀工として帝室技芸員に選ばれた宮本包則刀匠が八十三歳の時に打ち上げた渾身の作です。上古の刀剣によく見られる素環頭太刀の形態ですね(柄尻に丸い環がある太刀)。

尚、古事記日本書紀の内容には、かなりの差異が有りますので、一般的に認知されてされている内容を両国書よりランダムに選んで案内させて頂きます。
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国宝に指定されている古事記の写本です。稗田阿礼(ヒエダノアレ)が纏めていたものを太安万侶(オオノヤスマロ)が書き上げました。
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日本書紀は我が国初の『勅撰国史』です。舎人親王、紀清人、三宅藤麻呂らが編集したと言われております。『勅撰』とは天皇陛下からの『勅命』によって選ばれたと言う意味です。
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本題に戻ります。

兄神さまである五瀬命の御遺言通りにイワレビコは数々の苦難は有りましたが、八咫烏に導かれて日を背にして戦う為に進みました。やがて東征軍は大和の忍阪(オサカ)の岩室に到着されました。そうしたら尾の生えた土蜘蛛(まつろわぬ人々)の八十梟帥(ヤソタケル)が岩穴に隠れて待ち構え、唸り声をあげておりました。八十梟帥(ヤソタケル)とは多くの屈強な者と言う意味です。

此処でイワレビコは正面から戦うのではなく作を用いました。ご馳走を作って八十梟帥(ヤソタケル)達に振る舞ったのです。そして一人一人に現代で言うところの料理人を付けました。そして其の料理人達に剣を佩かせたのです。そしてイワレビコの歌を合図に料理人達は剣を抜いて八十梟帥(ヤソタケル)達を皆切り殺しました。兄の五瀬命と違ってイワレビコは戦巧者である事と、東征軍に歯向かう者には容赦しない傾向にありますね。平和な縄文人とは一線を画しております。

前回の記事には書いてませんが、宇陀において東征軍は兄宇迦斯(エウカシ)、弟宇迦斯(オトウガシ)と言う兄弟と対峙致しました。勝ち目がないと判断した弟の弟宇迦斯(オトウガシ)はイワレビコに帰順し兄を裏切りました。そして兄の兄宇迦斯(エウカシ)は自分が造った罠にはまり圧死したのですが、東征軍は其の骸を引き摺り出して切り刻み、周辺に撒き散らしたのです。其の地は『菟田の血原』と言う地名が付いて現在も伝わっております。弟宇迦斯は其の後に功名を重ね猛田県主(ウダノアガタヌシ)に抜擢されました。現在の宇陀市の支配者になれたのです。

更に東征軍は其の後に兄師木(エシキ)、弟師木(オトシキ)とも戦って勝ちましたが、軍の皆は疲れ果て腹が減ったと記紀にはあります。其処でイワレビコは鵜飼の者達に食べ物を運んで貰い、此れを食したと伝わります。

鵜飼の人達なら川魚が主菜の食事でしょうか。学生時代に此の項目を知り、テレビで見る鵜飼自体が2681年も前からの伝統漁法である事に驚いた事を覚えております。
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イワレビコ率いる東征軍はついに大勢力の長髄彦軍との戦いになりました。東征軍は日を背負い布都御魂剣と八咫烏を伴い戦っておりましたが、相手は最強戦士の長髄彦なので連戦致しましたが、勝てませんでした。此れは当たり前なのです。何故かと言うと実は長髄彦の主人もイワレビコと同じ天孫族饒速日命だったからなのです。

持田大輔氏の描いた悲劇の最強戦士である長髄彦です。
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少し話は外れますが、此の頃には長髄彦の嫡子である宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)は育っていたと思われます。また長髄彦には兄の安日彦が居り、難を逃れて東北に逃げたとも言われております。また長髄彦自身を安日長髄彦とする説も有ります。此の話は後にご案内致します。

話しを元に戻します。

イワレビコ率いる東征軍は長髄彦の軍との戦いを続けますが攻め手を見出せない状況でした。そんな戦いの最中、俄かに空が曇って氷雨が降ってまいりました。すると何処からともなく金色に輝く鵄(トンビ)が飛来し、イワレヒコの弓の先にとまりました。

Wikipediaにピッタリの写真がございました。
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初代神武天皇を勝利に導いた金鵄は勲章にも使われております。Wikiより
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イワレビコの持つ弓の上にとまった金色の霊鵄は、稲光りの様な眩しい光を発しました。盛強を誇る長髄彦軍は余りの眩しさに目が眩み大混乱となりました。長髄彦は此の様な事象は常の事ではないと考えたかどうかは分かりませんが、一旦戦いを中止し、自分の主人は饒速日命と言う天孫の神であり、天磐舟に乗って天下った。天孫の神子が二人も居るはずが無いと言いました。饒速日命側は天羽々矢一隻と歩靱(矢立の事)を見せ、イワレビコ天孫の証を饒速日命に見せたのです。イワレビコ饒速日命はお互いに此れは間違いないと認めました。こうして饒速日命イワレビコが皇祖の大詔によって高天原から天降った正統な君である事を理解し、一族を伴って帰順したのです。親が帰順したのですから、当然息子である宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)も帰順しております。

嫡流に大和を譲った饒速日命です。
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其れでも納得の行かない長髄彦は、いくら話しても信念を曲げる者ではないとされ、饒速日命に切り殺されたと言われております。この長髄彦の処分に際しては諸説がありますので次の機会にご案内致します。其の後、イワレヒコは日本の国の初代天皇として即位し、橿原に宮を造ったと言われております。


神武天皇の『建国の詔)は以下の通りです。
漢文なので下の現代語訳をお読み下さい。

三月辛酉朔丁卯 下令曰 自我東征於茲六年矣     
賴以皇天之威 凶徒就戮 雖邊土未淸 餘妖尙梗 而中洲之地無復風塵 誠宜恢廓皇都規大壯  
而今運屬此屯蒙 民心朴素 巢棲穴住 習俗惟常 夫大人立制 義必隨時 苟有利民 何妨聖造 且當披拂山林 經營宮室 而恭臨寶位 以鎭元元 上則答乾靈授國之德 下則弘皇孫養正之心 然後兼六合以開都 掩八紘而爲宇不亦可乎 觀夫畝傍山 東南橿原地者 蓋國之墺區乎 可治之

言葉を詳しく御伝えする事は難しいのですが、解釈の仕方は概ね合致すると思いますのでお許し下さい。

『私は人々の暮らしを良くする為に東征を行いました。天の力をお借りして抵抗する者は斃してきました。しかし私の力は国の端々までは及んでおらずに未だ戦乱が続いておりますが、私の治めている大和は平穏に治っております。まずは国の中心になる皇居を建造してまいります。しかるに国民の多くは近代化されておらず、私は気掛かりで仕方ないありません。民の多くは動物と同じ様に洞穴に住み、往古より生活様式が変わっておりません。それ故に御神勅によって掲げられた者が国の統率者にならなければいけません。時間は必要ですが、此の志は理解してもらえると思います。皆に有益な事柄であれば、どうして私の治世の妨げになるのでしょうか。其処で山林を切り開き皇居を造り、謹んで皇位について国民が安心安全に暮らせる様に邁進してまいります。上は天津の神々からお授け頂いた理想を受け継いだ国造りを目指し、下は瓊瓊杵尊が目指した御心を広げていきます。其の後は国を一つに纏めて都を創り、我が国の民が安全で安心して暮らせる、まるで家族が集まる家の様な国家を目指してまいります。此れは素晴らしい事ではありませんか。見渡せは畝傍山の東南の橿原の地が、他と比べても良い場所なので此処を国を治める場所としましょう』   以上

この文の中で神武天皇が一番言いたい事は、八紘一宇(はっこういちう)と言って国民が皆家族の様に安心して暮らせる国を目指すという内容です。          

この内容を子供の教育に1ミリも使ってないのが私は不思議でならないのです。八紘一宇の文言は戦後GHQによって禁止され、公文書から姿を消しましたが、其処から既に71年も経過しているのです。此の八紘一宇の精神こそ今の日本に必要な国民の目標(みちしるべ)だと強く思う次第です。

かつて日本軍の基地に掲げられた八紘一宇の旗です。Wikiのり
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宮崎県にある平和の塔です。日本中の石を集めて建造されました。そして秩父宮雍仁親王殿下の揮毫により『八紘一宇』と刻まれております。写真はWikiより
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八紘一宇の文字だけ拡大致しました。日本では古来八紘一宇の精神のもとで強いものは弱いものを助けるのです。故に日本は国際連盟の連盟憲章に『人種の平等』の文言を入れるように提案したのです。Wikiより
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此の塔を建造するに際し彫刻家の選出が行われました。そんななかで彫刻家の日名子実三氏が『報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい』と言って名乗りをあげました。

日名子実三氏です。Wikiより
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この時代は此のような骨の有る益荒男が居たのですね。戦後は文字が消されたり、ロッククライミングの練習に使われたり、酷い扱いを受けた時代もありましたが、宮崎県の関係者のご尽力により復元されました。此の事を思うだけで目頭が熱くなります。正しく此の塔は日本の宝だと思います。

イジメが起こったり、自殺者が増えたり、子が親を殺したり、親が子を殺したりするのは、全ての国民を一つの家族にすると言うと建国の理想を知らないからだと思います。一生懸命働いて確り税金を払う事で国の役に立っていると言う考えが有れば退職者も減り企業も安定して国が潤います。悪い事は一つも無いのです。今こそ八紘一宇(はっこういちう)と言う神武天皇のお言葉を再認識する時だと思い次第です。

十種神宝も物部連の話も、まずは此の神武東征をザックリ理解しないと前に進みません。記紀には詳しく明記されておりますが、全てご案内すると20回以上となってしまうので、端折ってお伝えした事をお許し下さい。神武東征で一番ご案内したかった項目は此の『八紘一宇』でした。『八紘一宇』こそは我々大和民族の心の拠り処な言葉だと感じます。

次回に続きます。