みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 物部編  5

今週は古代豪族で一番の勢力を誇った物部氏の発祥と推移をご案内させて頂きます。物部連氏の発祥は河内國の大和川下流域であったと言われております。其処に饒速日命が天ノ磐船で降臨し、此の地を治めていた長髄彦を帰順させました。長髄彦は妹である三炊屋媛 (ミカシキヤヒメ)を饒速日命の妃として差し出しましたのです。饒速日命と炊屋媛(ミカシキヤヒメ)の間に産まれたのが宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)と言います。帰順してからはヤマト朝廷を表から裏から支えてまいりました。後ほど後裔のなかで抜群の働きをした宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)の子孫を紹介してまいります。

ます、私が物部氏が好きな理由として、武士(もののふ)の語源になった事。『新撰姓氏録』では神別に分類され、謎の神である饒速日命の末裔である事、私が心から崇敬する諏訪大社のシャーマンの家系である洩矢一族に物部武麿が養子に入っている事などがごさいます。物部連氏と諏訪の洩矢一族は太古から交流が有ったのです。どの時点で養子に入ったかは次回以降に系図をご紹介させて頂きます。

久宝寺遺跡は物部氏の居館跡と考えられております。大阪府ノHPより
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奈良県大和郡山市矢田町に鎮座する矢田坐久志玉比古神社(ヤタニイマスクシタマヒコシンジャ)です。久志玉比古とは饒速日命の別名となります。饒速日命が天磐船で降臨された時に船から三本の矢を射ると此の場所に突き立ったと伝わります。それ故に此の場所に宮を造ったとされてます。住宅街の中にボツッとある神社だと写真を撮影した近隣に住む部下が言っておりました。
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饒速日命の天磐船は飛行機を連想させ、航空祖神として崇敬さらておりました。陸軍で実際に運用された九一式戦闘機のプロペラが奉納されております。
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話は戻りますが、此処でお含み頂きたい事として『物部』とは役職の名前で有り、どの部族にも物部の役割をする者が居たのです。全国に存在する物部と後に大連(オオムラジ)の役職となる物部連氏は違うという事になります。今回ご案内させて頂くのは饒速日命と其の息子の宇摩志麻遅命を始祖とする物部連氏の事となります。

此の饒速日命の子孫が物部連氏です。此方の絵も持田大輔氏の描いたものです。記紀を正確に反芻し脳裏で何度も想像しないと此のような絵は描けません。
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イワレビコに帰順した後の物部連氏は伴造(トモノミヤツコ)として部民の中の物部達を束ねておりました。伴造とは大和朝廷の中のただの首長となります。部民とは大化の改新前までの一族集団の事です。物部連氏は同時に解部(トキベ)という役職を持ってました。解部とは簡単に表現すると裁判官です。

つまり物部連はヤマト朝廷支配地域内におけふ警察権を持ち、同時に裁判官のような司法権も持ち合わせていたと言う事になります。裁判と言っても荒っぽいもので盟神探湯(クガタチ又はメイシンタントウ)というやり方で有罪か無罪か判断してました。

此方が盟神探湯です。煮えたぎる熱湯の中に手を入れて火傷しなければ神仏の加護が有るので無罪、火傷したら有罪となる強烈な証明の仕方です。左の方は腕が真っ赤なので火傷されてますね。また、毒蛇を入れた唾の中に手を入れるというやり方もあったそうです。だだ毒の無い蛇をいれて有るとか、熱くないぬるま湯を入れるかは解部(ときべ)を統率する物部連氏の胸の内ひとつとなる訳です。誰も逆らえませんね!
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そんな物部連氏から伊香色雄(イカシコオ)と言う人物が出て来ます。伊香色雄は有名な崇神天皇に仕えておりました。この崇神天皇は力の有る豪族を次々に滅ぼして中央集権国家の屋台骨を造られた凄い大王(オオキミ)なのです。伊香色雄の色雄(シコオ)とはブ男の意味では無く、強く頑健な偉丈夫な男と言う意味です。従って伊香色雄とは伊香に住んでる屈強な男という意味だと思います。

崇神天皇 Wikiより
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この暴れん坊だった崇神天皇に伊香色雄(イカシコオ)が献身的に仕えた事で重用される様になりました。此の時代は国中に疫病が蔓延し人口の半分が死亡する事態となり、困り果てた崇神天皇の夢に大物主の神が現れ『我が子孫である大田田根子をもって我を祀れば立ちどころに平穏となる』と告げたのです。早速崇神天皇は伊香色雄(イカシコオ)を神班物者(カミノモノアカツヒト)に任じました。そして伊香色雄は大物主の末裔として大田田根子を見出したのです。こうして三輪山大物主神を祀る祭司の役目を大田田根子が務めるようになってからは疫病が治ったそうです。人口の半分が死ぬとは凄まじい疫病ですね。因みに神社にある手水舎とは、此の時代に疫病を防ぐ手段として崇神天皇が推奨させたものです。

三輪山御神体とする大神神社です。大和國一宮であり、日本最古の神社と言われております。写真は拝殿です。大神神社のHPより
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此の伊香色雄(イカシコオ)の活躍は物部連氏の飛躍につながり、一豪族の首長から一気に中央に駆け上がるキッカケとなりました。物部連氏の自領から簡単に大物主の末裔が見つかるなんて出来過ぎなのですが敢えて考察は省きます。

大阪府枚方市にある意賀美神社(オカミジンジャ)です。伊香色雄(イカシコオ)の邸内にあったと伝えられる神社が現在も残っております。古代には枚方(ひらかた)に伊香郷と言う地名があったと言われております。日本の凄いところは此の様に歴史の一端を神社の口伝として残している事であり、実に民族として誇りに思える事ですね。
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崇神天皇が創建し、十種神宝と布都御魂剣を奉った石上神宮はヤマト朝廷の武器庫という一面も有りました。第11代垂仁天皇の皇子である五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)が統括しておりました。この皇子は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)と言う所で剣を一千口造って石上神宮に奉納し、以後は五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌しておりました。菟砥川上宮と言えば、物部連氏の領地となり、物部という役職から当然協力したものと思われます。

剣を千本造ると言う事は、刀剣趣味を持つ私の思うに時代的背景も考慮すると大変な大事業です。垂仁天皇と言えば時代は3世紀〜4世紀おなり、上古から製鉄技術を持つ日本でも相当な専門要員が必要になります。

砂鉄からの際鉄はこんな感じになります。炉を造り、吹子を装着して沸かすのですが、更に徹床や焼き入れ用の石船も必要になります。された更に鞘師などの外装部分の職人も必要なのです。こんな炉を幾つも造り倭鍛冶が鍛造したんだろうと思います。
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日本書紀によると日本最初の鍛冶として現れるのが天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と言う神であり、一族は鍛人天津麻羅(カヌチアマツマラ)と呼ばれております。此の神さまは文字通一つ目の神さまです。

面白い事に妖怪にも一本タタラと言う種類があります。其れも奈良県(ヤマト)の妖怪なのです。奈良県歴史文化資料データベースさまより
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此の鍛冶の祖神の子孫は倭鍛冶(ヤマトカヌチ))として代々朝廷に仕えました。子孫も一つ目かどうかは私の知るところでさございません(笑)。

崇神天皇天目一箇神の後裔に神剣を造らせたとございますので十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)も彼等の力を最大限に利用したと思われます。垂仁天皇は第十一代ですが、此の後に第十五代の応神天皇の時代に百済から韓鍛冶(カラカヌチ)がまいります。日本人のすごいところは、此のような渡来の技術と和合し技術をて進化させるところだと思います。

最後に脱線して申し訳有りません。
次回に続きます。