みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 神仏習合 最終回

物部連氏が滅び、日本初の女性天皇である推古天皇は甥の厩戸皇子と叔父の蘇我馬子によって政治を行っておりました。推古天皇の父は欽明天皇です。

推古天皇 Wikiより
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少し時間を戻しますが、推古天皇の即位の前には押坂彦人大兄皇子厩戸皇子が候補に上がっておりました。押坂彦人大兄皇子は病弱で崇峻天皇が暗殺された頃に没してしまいました。その後は弟の竹田皇子と厩戸皇子皇位継承の表にたちますが、何方とも蘇我氏の血を引く者であり中々決まらずにおり、結局は馬子の姪である推古天皇が即位した流れです。

敏達天皇の第一皇子である押坂彦人大兄皇子(オシサカノヒコヒトノオオエノオウジ)の子は推古天皇の後の舒明天皇(ジョメイテンノウ)となっております。

馬堀法眼喜孝画伯の舒明天皇です。
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因みに現在の皇室は此方の押坂彦人大兄皇子の男系子孫となっております。また押坂彦人大兄皇子舒明天皇中大兄皇子(天智天皇)となり、乙巳の変中臣鎌足蘇我氏を滅ぼす事になる系譜となっております。

乙巳の変、首を飛ばされているのが蘇我入鹿です。
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推古天皇の話が出たので、本文とは直接関係有りませんが、女性天皇女系天皇の違いをご案内致します。現在は声高らかに女性天皇でも良いじゃないかと言っている罰当たりもおります。

男系の連なりが必要な理由を少しお伝えします。此の話は天照大神素戔嗚尊の誓約(ウケイ)まで遡ります。高天原で対峙した二神は、其々神を産む事でお互いの潔白を証明したのです。

対峙する兄弟神です。
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天照大神素戔嗚尊の十拳剣を噛み砕き、フゥーっと吹いた息から宗像三女神を産み、素戔嗚尊天照大神の勾玉を噛み砕き、フゥーっと吹いた息から男の神様を5柱産みました。

天照大神素戔嗚尊の十拳剣を噛み砕いて産んだ宗像三女神です。
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素戔嗚尊が産んだ5柱の神々の長男が天忍穂耳尊 (アメノオシホミミノミコト)で有り、天照大神素戔嗚尊の遺伝子、つまり日の御子(ミコ)の遺伝子を持った神が誕生された事になります。そうして其の日の御子を受け継いだのが瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)であり、其の次が山幸彦(彦火火出見尊)であり、次が鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)であり、其の次がイワレビコです。当たり前ですが、日の御子の遺伝子を受け継いだ人物のみが天皇になる資格を持ちます。つまり天皇の子供でないと継げないのです。此の日の御子の遺伝子は女性からでは引き続ぐ事が不可能なのは皆様の知っている通りなのです。f:id:rcenci:20240223142303j:image

不敬を承知で例を上げますと、A天皇にお子さまが2人生まれました。此の2人が女性だとします。当然此の2人は日の御子の遺伝子を受け継いでおりますので天皇になれます。しかし仮に長女が天皇となり、何処かの馬の骨と結婚し男子を産んでも、其の男子は天皇には成れません。何故なら馬の骨氏の遺伝子から産まれた子だからです。もし馬の骨が中〇人なら、中〇人の子供を国民は絶対に天皇と認めず皇室の権威は崩れてしまい、先人達が2681年もの長きに渡り命を賭して守り抜いた日本は終焉を迎えてしまうからです。そうなると我々は黄泉の国に行っても先達の御霊に永遠に苛まれ続けるる事になりますね。絶対的な権威の臣民である日本国民は古来より大御宝(オウミタカラ)として扱われ、実際に政治を司る権力者は天皇の大御宝に対し、安心安全に暮らせる様に政治を行なうと言う日本独特のスタイルなのです。もし権力者が舵取りを間違ったら逆賊となってしまうのです。絶対的な権威が存在しない国では権力者が人民から搾取のみを行います。此れは北〇鮮、中〇人〇共〇国を見れば明白な事ですね。此の国体護持を維持する為に何十万もの同胞が命を落としました。国が有るから働く事が可能となり、日々の糧を得て子供を養えるのです。未来の子孫の為にこそ日本人は戦って来た事を忘れては成りませんね。
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また、此れは余り知られて無い事ですが、現在の天皇陛下は次の天皇を決める事は出来ません。決めるのは皇室会議と言われる会議のメンバーなのです。自分の後継を自分で決められない不自由さを想像してみて下さい。更に陛下は週に何時間も国民の為に祈りを捧げておられます。不敬を承知で申し上げると、プライベートは一切無い本当に御不自由な御身なのです。女性天皇を容認する方々は2681年もの長きに渡り自らの先祖が敬ってきた皇室を葬りさろうとしている事と同じ思想を持っている事になるのです。学校教育がどうのと言う話ではなく、親が子に教えるべき日本人の心得だと感じております。

宮内庁庁舎での皇室会議 平成29年12月1日  宮内庁のHPより
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言葉が過ぎました。どうかお許し下さい。
話を戻します。

593年に推古天皇が即位し、厩戸皇子は摂政となりました。推古天皇厩戸皇子は人々が安心して安全に暮らせる平和な世の中を目指し、最初に仏教を広めようと致しました。そこで594年に『三宝興隆の詔』が発布されたのです。

三宝を興して栄えさせよ」との詔です。諸々のに臣下達は其々の先祖の恩の為に、競って仏を祀る建物を作りました。此の建物を後に『寺』と言うようになったのです。三宝とは仏法僧の事であり、仏法僧とは『はとけ』と『ほとけの教え』と『ほとけの教えを奉ずる僧』の事です。こうして日本に後に飛鳥文化と言われる仏教芸術が花開きました。其々の寺は荘園を保有しており、僧侶が暮らしていく為の食糧は確保されて行ったたのです。

信州の田圃の畦に咲く水仙の花です。
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そして....

更に推古天皇は607年2月に『敬神の詔』を発布されました。以下が其の内容です。

古来わが皇祖の天皇達が世を治めたもうに、謹んで厚く神祇を敬われ、山川の神々を祀り、神々の心を天地に通わせられた。これにより陰陽相和し、神々のみわざも順調に行われた。今わが世においても神祇の祭祀を怠る事があってはならぬ、群臣は心を尽くしてよく神祇を拝するように。

此の詔を持って大王家は古来の神道を歩む事が明確に示されたました。此の二つの詔をもって日本は神仏習合の道を進む事になったのです。

此れはまさに酷い争いの後に見えた朝日の様だったに違いありません。
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此の様に仏教が人々の暮らしに有って不自然な状態では無くなった頃に改めて日本古来の天神地祇を厚く敬う事も奨励したのです。饒速日命から連なる大一族であった物部連氏が滅ぶ程に血みどろの戦いを行ったのですが、仏道に味方した勢力も寺を中心に生活が成り立ち、古来からの天神地祇を祀って来た勢力も大王(オオキミ)家が天神地祇を祀る事で安心して祭祀を行えるようになり、争うのでは無く、お互いに安心して日々の生活を営める様に取られた日本の大王(オオキミ)の勅命でした。勿論其の影には厩戸皇子の働きがあった事は言うまでもありません。厩戸皇子は天王家を敬う政策を取る事により蘇我馬子とは袂を分つ事になったようですが、此のところをご案内するには後3回は必要なのでやめておきます。

日本の凄いところは、良いモノは受け入れる包容力を有しながら、古来から伝わる大事なモノと確り共存させる事ですね。他の国なら血みどろの宗教戦争が何世紀も続くところですが、日本は此の時代から違っていた事になりますね。国歌にもある『...さざれ石の巌となりて 苔のむすまで』は『様々な種類の岩石が混じり合い一つの巌となってはじめて長く継続する国家と成する』と言う意味と解釈しているのですが、今の日本国を取り巻くきな臭い状況を鑑みますと今こそ一つの巌となる必要を強く感じる次第です。

木曽の南宮神社に鎮座する『さざれ石』です。左上から日の光が差し込む写真ですが私の理想図です。今回のシリーズは此れで終わりとさせて頂きます。毎回稚拙な長文にも関わらず、お付き合いの程、心から御礼申し上げます。
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