みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の古刹 善光寺の事

小さな回向柱です
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信州には『牛に引かれて善光寺参り』で有名な善光寺がございます。善光寺さんは宗派を問わない無宗派の珍しいお寺さんで全国より参拝者が訪れます。数え年で7年に一度ですが秘仏善光寺如来像の身代わりである前立本尊を御本堂にお迎えして行われる善光寺前立本尊御開帳が執り行われます。高さ10m程もある回向柱が本堂の前に立てられ、前立本尊と回向柱は『善の綱』により繋がっており、参拝者がその柱を触る事により前立本尊様に触れた事になるのです。参道一杯の参拝者で御開帳の時期にはコロナの前の原宿を上回る凄い賑わいです。信州はキンリビールなどのビール会社が善光寺御開帳記念ラベルビールを出す程の熱狂ぶりと成るのです。

善光寺
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善光寺の縁起は平安時代には出来ていたと伝わりますが、恐らくは様々な寺社の縁起の中でも最も普及した縁起であると伝わります。それとミステリアスな話ですが善光寺の御本尊は秘仏であり、日本最古の仏像であると言われております。善光寺縁起によると御本尊は自身のお告げにより百済から日本に渡って100年目でお隠れになったとの事です。本堂最奥の厨子に安置されており、今迄誰も見たことが無いとされているのです。

此処で少し此の日本最古の秘仏について父から聞いた話と若い頃に読んだ書籍からの話を簡単にまとめて説明致したいと思います。釈尊在世の時に龍宮第一の重宝である閻浮檀金(えんぶたごん)三千七百両をもって造られたとされております。中天竺(古代印度の区分の一つ)に月蓋長者という無信仰の大金持ちがおりました。一人娘の如是姫が病気になり釈迦の教えで西方の阿弥陀如来を迎えた処、娘の病気が治癒致しました。其処で長者は竜宮城の閻浮檀金を求めて一光三尊の阿弥陀如来像を作らせました。(閻浮檀金とは閻浮樹の林を流れる川の底にある砂金を固めた金塊) 中央に阿弥陀如来、向かって右側に観音菩薩、左側に勢至菩薩がお立ちになっておられます。

月蓋長者の話は小学生の頃に父親から買って貰ったブッダと言う手塚治虫先生の漫画で知り、とても興味が湧きました。月蓋長者が造らせた一光三尊像は此処から数奇な道のりを歩みます。
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長者は如来像をお告げにより像を百済聖明王に贈ったと伝わります。更に如来のお告げにより百済聖明王から海を渡り、日本の欽明天皇に送られたとされております。欽明天皇は第21代の天皇であり、西暦509年に誕生され、崩御されたのが571年であると伝わります。此の時代に仏教が日本に公伝し、その後に蘇我氏聖徳太子vs物部氏の戦いが始まりました。時代は古墳時代真っ只中です。欽明天皇は側近に仏像の是非について問いましたが、日本古来の神道を尊ぶ保守派の物部尾興は猛反対し、仏の教えと同時に優れた先進技術を取り入れようとした蘇我稲目は賛成して意見は二分されました。其処で天皇は像を蘇我氏に与え、蘇我稲目は邸内に御堂を造って安置しました。やがて国内に疫病が流行ると物部尾興は異国の神を安置した事に日本古来の神がお怒りになっているのだと言って如来像を奪い、難波の堀江に投げ捨ててしまったと伝わります。その後信濃の本田善光(若麻積東人)と言う人が国司のお供で都にのぼり、帰りに難波の堀江にさしかかった時に水中より如来が出現して善光の背中に飛び乗ったときされております(さぞ善光さんはビックリした事だと思います) 。善光はお告げにより如来像を背負って帰り、伊那郡麻積郷(現在の飯田市)の自宅に安置致しました。やがてお告げににより水内郡芋井郷(長野市)に移しました。善光寺の名前の由来は本田善光の善光からきております。善光寺の創建時期は明らかでは有りませんが、境内で発見された古瓦には白鳳期と見られるモノが多く、遅くても奈良時代までには建立されていたと思われる事が研究により判明しております。その後は様々な高名な聖達により善光寺の名前は諸国に広まりました。

戦国期に突入すると、甲州の覇者である武田信玄公と越後の龍と称される上杉謙信公のと激戦の渦中に善光寺は巻き込まれます。天文22年の第一回か? 弘治元年の第二回か? 諸説ございますが善光寺周辺が戦場と成りました。武田信玄公は百済伝来の阿弥陀如来像とその他の宝物を甲斐に移し永禄8年に甲府善光寺を造りました。上杉謙信公も仏像をはじめ仏具などを春日山城に持ち帰り、浜善光寺と致しました。信玄公と謙信公は戦いの最中に競って善光寺の宝物を自国に持ち帰り、勝手に自国の善光寺を建てておりました。本尊が不在となり善光寺はしばらくの間ですが荒廃しておりました。その後2人の勇将は他界し時節は過ぎました。甲府に安置された善光寺如来様に目を付けたのは時の権力者である豊臣秀吉です。秀吉は京都の方広寺の本尊とする為に善光寺如来甲府から運び寄せました。しかし慶長3年8月、秀吉の霊夢如来が立って信濃に返す様にとのお告げが有ったとの事で善光寺如来は信州に運ばれました。秀吉が没したのは善光寺如来像が運ばれた翌日の事です。祟りを恐れた秀吉の嫡男である秀頼によって善光寺如来堂が建てられ、寺領としての土地も寄進されたと言われてます。次の権力者である徳川家康も水内郡四ヶ村を寺領として寄進し、善光寺は復興を遂げたとされております。

他にも様々な伝説が伝わります。なかでも凄いのが善光寺如来様は人肌の温もりを持ち、人と語らうとされております。奈良の法隆寺には善光寺如来聖徳太子と取り交わした文書が『善光寺如来御書箱』という箱に納められて保管されております。今に伝わる実物が有るだけに説得力抜群ですね。

善光寺さんは長い歴史を有しますので、とても此のブログ程度では内容を詳しくお伝え出来ません。先に記述した欽明天皇の采配による善光寺如来像に対する攻防をみても此の事が古来の名族である物部氏滅亡のキッカケと成った事が理解できます。武士と書いて『もののふ』と読みますが天皇家の軍事部門を務めた物部氏から由来しているとも言われております。物部守谷神社が諏訪大社大祝洩矢(もりや)家に繋がり、諏訪の守谷山の南麓に物部神社が存在します。物部一族の系譜の一つに諏訪氏がありますが....この事を書くと膨大な文書になるので本日は止めておきます。話は多少脱線致しましたが、まだまだ善光寺様に沢山の伝説が有りますので何処かの回で綴ってまいります。