みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 番外編

一旦義仲公の物語とは外れますが、源平合戦という全国的な大戦で武勇の誉を受けた武将が合戦の後に過ごした半生を御紹介致します。倶利伽羅峠の合戦後に活躍した武将も含めて日本人なら誰でも知ってる有名な方々について御案内しようと思います。以下に御案内する内容は2017年に発行された『信州往来もののふ列伝』と言う書籍からの内容も多く含まれてます。

『信州もののふ列伝』 とても簡潔に記されおりますが、書き手の熱意が伝わる面白い書籍です。
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合戦に参加したマイナーな武将の半生も興味深いものが多いのですが、沢山の武将を御案内すると膨大な文書に成るので今回は3人とプラス1人の御紹介とさせて頂きます。

まずは屋島の戦いで平家の軍船に掲げられた扇の的を見事に射抜いた那須与一。2人目は同じく屋島の戦いで図らずも敦盛を討ち取った熊谷直実。3人目は同じ源氏一族でも運命的に頼朝軍に身を置いて宇治川の合戦で一番乗りを果たした佐々木高綱についてです。実はこの源氏の3人については戦後の身の処し方に共通点があるのです。先週に『日本人の死生観』という事柄について触れました。その中で人間の良心についても少し触れました。私は宗教家では無いので変な言い回しは避けますが、生まれ持った高潔な良心の導きにより此の三人は武人としての自分を捨てたのです。(私の師匠は己が良心の事を内なる神、つまり内在神と表現しておりました)

那須与一屋島の合戦で扇の的を射て義経公から古備前成高の太刀を拝領致して家名を轟かせました。与一は11男であり10男の兄と源氏に与したのです。他の9人の兄は平家に着きました。合戦では10男の兄と八面六臂の活躍をしたと伝わる剛の者です。しかし武家の習いとは言え合戦の後に討ち死にした者達への想いが徐々に与一を襲ったのです。やがて居た堪れなくなった与一は出家をして仏門に入り、名を源蓮と称して源平合戦の戦死者を弔う旅をしたと伝わります。合戦で敵を討ち取る事は武門の誉ではあるが、ふっと我に帰ればこれ程虚しい事はないと悟ったのだと伝わります。与一は9人の兄達の赦免を取り付け、自分の領地を兄達に譲り、家名を轟かせた英雄にもかかわらず当主の地位を捨てたのです。その子孫は830年経った今でも健在で37代を数えております。勿論現在でも地元の英雄であり、栃木県大田原市では毎年『与一弓道大会』なるものが開催されております。

時代は違いますが明治時代の日本海海戦で世界最強ロシアバルチック艦隊を撃破すると言う偉業を成し遂げた東郷平八郎元帥は艦隊戦略の全てを参謀の秋山真之に一任しておりました。秋山真之はかつて村上水軍が用いた丁字戦法を戦術に使って連合艦隊を大勝利に導いたのは有名な話です。しかし秋山真之は多くの命が失われた事を強く悔やんだと言われております。坂の上の雲でも『坊さんになりたい』と言って思い悩んでいた事が表現されております。同時はそんな弱音を許す風潮は無く、海軍に勤務し続けますが実際に49歳で早死にしてしまったのも与一と同じように良心の呵責に耐えられなかったからだと思われます。日本人の精神に存在する内在神(良心)は時代が変わっても高潔であるのです。恐らく現在に生きる我々も時代は変われど一人ひとり高潔な良心を持っている事は同じだと思います。

英雄秋山兄弟の次男である秋山真之です。
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兄の秋山好古日露戦争において騎馬隊を率い、当時世界最強といわれたコサック騎兵団を世界で始めて打ち破った名将です。Wikiより
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世界最強だったコサックの戦士です。彼等の余興だったコサックダンスは有名ですね。Wikiより
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次は屋島の戦いで図らずも平家の公達である平敦盛を討ち取った熊谷直実についてご案内致します。熊谷直実平敦盛の父である平経盛に仕えていた時代がございました。しかし其の後の合戦は源氏方として参陣していたのです。平経盛とは敵味方に別れたとは言え、其の子供である平敦盛を討ち取ってしまった事を直実は心底悔やんだと伝わります。合戦は決して平家を憎んでの戦では無く、家名を守る為に選んだ道であり、裏切りと言う言葉とは無縁の『武家の習い』でした。直実は敦盛を討ち取った後に痛恨の情を連綿と書面にしたためて敦盛の首級と死ぬまで肌身離さず持っていた小枝の笛を一緒に平経盛に送りました。其処には『落涙しながら御頸を給わり畢んぬ 恨めし哉 痛ましき哉....云々』と書かれていたと伝わります。この書状は後世に『熊谷状』と名前が付けられております。この書状に対して平経盛咎めるどころか直実に深く感謝して礼の返書を送りました。この変書は『経盛返状』として伝わっております。学生の頃に文化人類学の先生が授業で此の話をされ『かつて自分に仕えていた配下の者が敵に回り、息子を討ち取り、首と赦免の手紙が送られて来て、其の相手に感謝の手紙を送るなんて事が出来ますか?』と学生達に問われました。私は驚愕して何も答えられなかった事を今でも覚えております。武家の習いで敵味方に別れはしたが、経盛と直実の間にはかつての主従関係が存在しており、配下は主人の徳を敬い、逆に主人は配下の心情を汲み取る度量が無いと決して出来ない事であり、決して他国には存在しない日本人独特の礼節だと思います。

熊谷直実 Wikiより
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熊谷直実は合戦が終わると余りの自責の念から出家し、浄土真宗法然に弟子入りしました。そして法然から『蓮生』の名前を貰って一日六万遍の念仏を生涯守り通したと言われております。蓮生は高野山で敦盛の七回忌法要を盛大に行った後に多くの寺を開基しました。そのうちの一つは信州若里にある熊谷山仏道寺です。

此の仏道寺には悲話が残されております、直実は出家で家を出たのですから家族は熊谷に残しておりました。父がいなく成って寂しがった幼い娘の玉鶴姫は難路の碓氷峠を経て、父に会いに遥々信濃国にやってまいりました。しかし父が居る善光寺まであと少しの綱島と言う集落に差し掛かった時に病気を患い進退極まってしまったのです。その時に善光寺如来が父の蓮生(直実)の元に降臨され、姫のいる場所に導いてるくれました。蓮生は善光寺如来のお告げで娘と再会出来ましたが、愛娘の玉鶴姫は既に息絶えておりました。そして娘を不憫に思って開基したのが仏道寺なのです。現在仏道寺には可愛らしい玉鶴姫の像が安置されております。当時の人々は平安時代後期に生きた熊谷直実の情熱と優しさを野の花の名前にしたのがクマガイ草です。

クマガイ草 花弁が騎馬武者が矢避けに付けた母衣に似ていると言われております。
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f:id:rcenci:20220122190646j:plain因みに此方はアツモリ草です。

里の住民は玉鶴姫の死を哀れんで塚を築いて手厚く供養したと伝わります。此の塚は信州大学キャンバス西側にそびえる樹齢数百年の大欅の下にございます。そして塚の名前は姫塚として現在でも伝わります。長野観光コンベンションビューローより
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樹齢数百年の大欅です。
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最後の一人は義仲公にとっては敵でしたが、宇治川の合戦に梶原景季と共に先陣を争った佐々木高綱です。近江源氏の高綱は宇治川の合戦で敵陣に一番乗りを遂げた英雄です。高綱の名前はあまり出ては来ませんが頼朝公の旗挙げに真っ先に駆けつけ、初戦の石橋山の敗戦では殿を引き受けて頼朝公を守り通した大功の武将なのです。後には長門.備前守護職を任されるほどの出世を致しました。しかし高綱程の剛の者が突然に息子に家督を譲り自分は高野山に向かったのです。そして当時越後国に居た高僧の親鸞上人に弟子入りして名前を了智と名乗りました。

高綱は親鸞上人の元で修行の日々をおくりました。修行を終えた高綱は親類縁者が長野県松本市島立周辺に居た事から親鸞上人に信濃における布教を任されたと伝わります。

松本市に戻った高綱(了智)は土地の民衆と共に汗を流して働き布教を行い、民衆から厚い崇敬を受けたと言われております。この高綱が開基した寺が正行寺であり、『信州往来もののふ列伝』には27代目の子孫である住職さまのコメントが載っておりました。更に驚くべき事は現在も正行寺の近くに中学校が有るのですが、此の中学校の名前は松本市立高綱中学校なのです。学校要覧には昭和24年の設立時に校名を広く募集したところ『高綱』の希望が最も多かった事から名付けられたと書かれたおります。信州人としても驚きの事例です!高綱の功績は800年を経た現在でも土地に語り継がれていると言う事ですね。

親鸞上人 Wikiより
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正行寺 松本市観光情報より
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高綱中学校 松本市HPより
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因みに佐々木高綱の末裔で有名なのが乃木希典陸軍元帥です。高綱が長門国守護の時代の子孫であるのと事で信州まで何度も墓参りに訪れており、松本市に有る高綱こ墓の横に分骨された乃木の墓所が立てられております。恐らく明治天皇崩御時に殉死した乃木希典の遺言だったのではないかと推察致します。 

乃木希典 Wikiより
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日本人の死生観について源平合戦で活躍した武将のその後をご案内しようと思ったのですが、文章表現力の無い私には到底無理でした。昔の話ですが父から『お天とうさまが見てるぞ』とよく言われました。お天とうさまは己が体内に居たんだと51歳にして強く思う情けない昨今です。

次に続きます