みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

中原兼遠公の墓所を訪ねて 2

先週は木曽次郎義仲公が何故に木曽に来訪したのかを御案内させて頂きました。幼い駒王丸を抱いた小枝御前を伴い、埼玉の熊谷から数多の峠を超えて木曽谷までの強行軍は相当に骨が折れたと思います。f:id:rcenci:20251213205129j:image

此方は木曽町出身の田屋幸男画伯が描いた中原兼遠公です。側に佇む童は後に義仲公の四天王となる今井四郎兼平か樋口次郎兼光でしょうか。私は粟津で最後まで義仲公の傍にて勇戦した今井兼平に感じます。f:id:rcenci:20251213205140j:image

兼遠公の墓参に話を戻します。毎年必ずお参りする御寺は木曽町日義にある林昌寺さまです。

立派な山門です。山門沿いに幅四尺程の小川が流れるのは、往時における合戦時の折に堀りの役目をしたものでしょうか。f:id:rcenci:20251213205157j:image

入って直ぐ左に此の供養塔がございます。『𩵋』とは魚の異体字で『魚』と同じ意味です。私が真っ先にお参りするべき供養塔なのです。今年も感謝の気持ちを込めてお参り致しました。f:id:rcenci:20251213205209j:image

境内にも立派な松の木がございます。松は古来より神が宿る御神木と伝わる霊木です。古刹には立派なものが多いのですが、林昌寺さまの松は特に雄々しく感じます。f:id:rcenci:20251213205221j:image

本堂に向かって右手側の斜面には、お墓が下を見下ろすように建てられております。

斜面を見上げると此の様な感じです。結構な斜面ですが、小道は確りと整備されており、歩き易くなっております。f:id:rcenci:20251213205232j:image

其の斜面を少し登った所に此の標識がございます。ご住職さまの話だと兼遠公のお墓には、毎年多くの参拝者が墓参に来られるそうです。f:id:rcenci:20251213205250j:image

案内板の通りに進めば斜面の一番上に有る中原兼遠公のお墓に辿り着きます。持参した線香に火を灯し献納致しました。そして静かに古の英雄に手を合わせた次第です。f:id:rcenci:20251213205345j:image

お墓の横にも立派な目印代わりの柱がごさいます。住職さまの揮毫でしょうか、誠実さが現れる書体です。f:id:rcenci:20251213205356j:image

献納した一束の線香の煙は、山の中に吸い込まれる様に入って行きました。山門をくぐったのは朝方の6時頃でしたが、何か柔らかくも神秘的な空気を感じました。古い社に参拝する折、稀に感じる独特の空気です。f:id:rcenci:20251213205403j:image

兼遠公がお墓から見下ろしておられる景色です。秋の空は澄み、雲はたなびき、山の稜線の向こうから陽の光が差し込む間際でした。f:id:rcenci:20251213205410j:image

見惚れているうちに朝日が昇りました。其の折に脳裏に浮かんだ事が、『朝日将軍木曽義仲公』を養育された兼遠公が義仲公と重ねた木曽の景色かも知れないと言う事です。

同行した渓友は後に、此の写真の左上の雲が、まるで龍神さまが鉤爪を出して朝日を掴もうとしている光景に見えると言っておりました。木曽の龍神さまに最後にしてお会い出来ていた事を知り、我が身の幸運に感謝致しました。

此の時は釣り仲間と2人での御墓参りでしたが、2人とも義仲公を崇敬しております。思いは遠く平安末期に向かっておりました。

 


追記 
林昌寺さまのホームページより

木曽義仲公養父、中原兼遠菩提所。兼遠は濃権守(時の国司長官)にも任ぜられた人物で、父義賢を討たれた駒王丸を庇護した。義仲挙兵の翌年、治承5年(1181)入寂。=『円光』と号した。

久寿年間(1154~1155)の開創時は寺号を「洗林寺」と称し真言宗高野山地蔵院の末であった。応永13年(1406) 駒ケ岳の蛇抜け(大規模土石流)により流出。その後長らく未復興。

慶安2年、大通寺2世・北傳祖宗和尚により再中興。同5年に現在の山号寺号に改め、以来臨済宗妙心寺派に属す。本尊は釈迦如来坐像(室町時代)。脇侍立像(摩訶迦葉尊者、阿難者)とともに木曽町指定有形文化財