みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

刀剣仲間が保有する脇差

本日は先日ご紹介した大隈守廣光を持つ友人とは別の友人が保有する脇差をご紹介致します。友人とは同じ会社で20年程の知己で有り、私とは長い付き合いと成ります。仕事上では頭上を飛び交う銃弾の中で日々匍匐前進で前に進み、例え身に小傷を受けても決して怯む事無く愚直に少しでも前に進み続けた殊勲の男なのです。京都の宇治出身で私とほぼ同世代と言うこともあり、昔の話が全て通じます。尚且つ酒と食べ物の趣向が全くもって同じなのですから馬が合わない訳がありません。今回はそんな後輩が保有する脇差をご紹介致します。位列が高い刀工でも無く、美術的な価値が高い物では有りませんが、制作された当時の時代背景を考えて鑑賞致しますと、現在に生きる私達に何かを語りかけて来る雰囲気を持つ一口だと考えます。私の感覚的には何となくですが持ち主の雰囲気と良く似ております。  

透漆鞘龍図金具脇差拵え
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薩長同盟が結ばれた地に立つ記念碑
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脇差の紹介
銘(表)田子駿河守正弘 (裏)慶応二年八月日
刃長33.3cm 反り0.75
少し怖い話を致します。刀の造り込みには種類が有り、通常は鎬造りと呼ばれる造り込み方法ですが、平造りは短刀や短めの脇差に多く見受けられ、合戦で組み伏せた敵の首を掻き易いと伝わります。現在においては鎬造りに比べて刀の表面の地鉄が鑑賞し易く、見処の多い造り込みと考えます。以下は専門的な言葉で特徴を現したものです。『平造りで三ツ棟 地鉄は小板目肌流れこころに良く詰む 地沸が微塵につき細かな地景入る 刃文は互の目乱れに丁子刃交じる 匂い口深めに沸づく 互の目足入り葉働き刃縁に金筋絡み砂流しかかる 湯走り入り飛び焼きかかる 茎の鑢は化粧に筋違い』総じて相伝備前の様相を呈します。

此の白鞘には鞘書がございます。
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先反りがついております。
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差し表
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差し裏
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互の目乱れの刃縁はよく沸づいてます。
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沸を拡大致しました。
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正弘は奥州二本松藩お抱えの刀工であり、有名な水心子正秀から続く一門で作刀を学び、事を成し得て師から直心子の号を授けられました。

時代背景
此の刀工が活躍した頃、奥州二本松藩の第10代藩主である丹羽長国公は京都警衛などを任され、水戸天狗党の乱の鎮圧などに其の手腕を発揮致しました。しかし戊辰戦争においては奥羽越列藩同盟に参加し、薩長率いる新政府軍と果敢に戦いましたが時の流れは二本松藩に味方せず、慶応四年七月に夏空の中で繰り広げられた『二本松の戦い』に敗れ二本松城も落城致しました。時は正に激動の時代であり、幾度のなく場所を変えて勃発した戊辰戦争は敵味方とも其々お互いに『守るべき物』を守る為に命をかけて戦ったのです。新しい日本が生まれる過程で起こった最後の国内闘争ですが、白虎隊など日本人なら誰も胸が苦しくなる悲話だと考えます。


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裏年紀
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雲龍図鍔
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厚い雲の中を縦横無尽に龍が駆けております。銘は正久と有りますが、正久は本名平八郎と言い、武州伊藤派の鍔工です。

鍔の裏です。鍔の表に彫られた龍のお腹が雲の切れ目から出ております。刀の鍔は彫物のスペースが極端に限られた部分しか有りませんが、工夫された鍔工の意匠は本当に面白いですね!
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田子駿河守正弘の見処
此の脇差は裏年紀に慶応二年八月日と有ります。此の年は奇しくも薩長同盟が締結された年で、他には有名な寺田屋事件などが起こっております。その後約二年程で戊辰戦争の『二本松の戦い』と成り、正弘が禄を食んだ二本松藩二本松城落城と共に負けてしまいました。私が此の脇差を握り鑑賞すると勝手な妄想をしてしまいます。妄想の中身としましては坂本龍馬の仲介で西郷さん等と桂小五郎高杉晋作等が小松帯刀邸の一室に介して同盟を結んだ光景を思い描いたり、二本松藩側も待ち受ける討幕軍との一戦に慌しく備えている情景などが脳裏に浮かびます。そんな中で二本松藩士の一人が此の脇差の注文を刀工駿河守正弘に願い出て、正弘も想いを込めて此の一刀を打ち上げたのだな...と考えながら此の一刀を視ると何故だか胸が熱くなる気がするのです。尚、此の脇差には実直な奥州二本松藩藩士らしい当時の拵えが付属しております。拵え全体的には決して華美な物では有りませんが、注文主が一戦に備えた不退転の意思を昇り龍に託し、天に届ける為に誂えた龍の総金具が装着された質実剛健な一品です。上述した様な事を鑑みますと此の脇差明治維新前の歴史を具現化している品の一つである事は間違い有りません。自分の周りに其の様な歴史の証である美術品が存在すると、自ずと其の歴史に興味が湧き、本などの資料を購入して前後の時代背景を勉強し直す事も此の趣味における楽しみの一つですね! 研究の最中できっと今迄知らない新しい内容が心ときめかしてくれると思います。
因みに年紀の八月日の事ですが、此の時代はまだ旧暦を使用しておりましたので、八月は現在の九月にあたります。いつの頃から言われていたかは勉強不足で知りませんが、三月と九月は彼岸の季節であり『暑さ寒さも彼岸まで』と言われている様に温度が一定の時期に刀の焼入れを行っていたとされております。また彼岸の水には強い霊力が宿り、其の強い霊力の水を使い焼入れをしたなどと伝わります。実際の処は何方の理由か分かりませんが、多くの刀工が裏年紀の末尾に二月日と八月日を多く切っている事は間違いありません。

写真の正弘の脇差には今後とも我が友人の家を病気や災難から守護し、家運を上げ、子孫繁栄に導いてくれる事を切に望んでいる次第です。