みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

夏草や兵どもが夢の跡

題名にした句は御存知のように松尾芭蕉が奥州平泉で詠んだ名句です。奥州藤原氏三代の栄華の終焉と義経の死に思い意を馳せて詠んだと伝わります。

今回は高校時代に通っていた道沿いから少し入った場所に有った古い城跡について、改めて今夏に訪ねた時に感じた事と城の由来をご案内させて頂きます。私は故郷近隣の史跡に興味を持ったのは故郷を離れてからでした。

長野市指定遺跡である横田城跡の立看板です。
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土塁の上に小さい祠が2つ有ります。
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赤い鳥居が建てられおり、地元の方々が大事にしている事が伺えます。
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少し横田城について説明させて頂きます。此の城は信濃の歴史好きにとって有名な城跡ですが、築城主も天守構造も不明で築城時期についても平安時代末期ではないがと言う推測しか現在では分かっておりません。しかし横田城を合戦時に用いた人物については様々な文献が残ります。古くは木曽次郎源義仲公が平家方の越後守だった城長茂(じょうながもち)と横田河原で合戦に及び、義仲軍の囮作戦で見事に勝利を納めた闘いがございました。其の横田河原の戦い折に城長茂が本陣を置いた場所が此の横田城です。当時の城長茂軍は9千とも2万とも言われておりますが、其の大軍が入るからには相当な規模な城だったのだと思われます。此の時代に平城は珍しいのですが、山城と違って守りが弱い代わりに二重または三重の堀を有しおり、正に大規模な環濠式の平城だったと言われております。

現在でも貴重な環濠集落として水路が残っております。
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更に詳しく話すと環濠集落とは周囲に水路を巡らせた集落で有り、空堀を巡らせた場合には濠が壕に変わり『環壕』として区別されます。
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その後は応永7年に信濃国最大の合戦でもある大塔合戦(おおとうがっせん)が起こりました。此れは室町幕府に任命された信濃守護である小笠原長秀が傍若無人な政策を行った事に対して信濃における殆ど全ての国人衆が一斉に反守護に回って戦った大戦です。此の時に長秀が一時横田城に入った経緯があります。その後の長秀は凌ぎきれずに守りが堅い塩田城まで逃れたのです。その撤退時にも友軍と離れてしまい、その後に友軍は壊滅してしまいました。因みに此の戦で大敗した小笠原長秀は信濃国守護を罷免されて信濃は群雄割拠が続くのです。

信濃国人衆は結束し大文字一揆として戦いました。
この旗は当時使用された軍旗です。独立独歩の矜持を有し時勢に絶対靡かない信濃国武将達の勇ましい戦いが繰り広げられた合戦です。『一揆』と言うと百姓一揆を連想させますが、元々は志を同じくする共同体と言う意味なのです。八十二文化財団のHPより
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更に時代が下り第四次川中島合戦の話です。啄木鳥戦法が謙信公によって見破られ、劣勢になった武田本陣に上杉軍が迫りました。本陣を急襲した一団には上杉謙信公本人が居たと伝わります。更に謙信公は床几に座ったいた信玄公に襲い掛かりました。此の上杉謙信公と武田信玄公の一騎討ちの時に武田方横目衆筆頭の原大隈守虎吉が主人の危機に際し、側に立てられた信玄公の槍を掴み、今まさに斬り込んでくる謙信公に渾身の一突を入れたのです。しかし原大隈守の突き入れた槍先は的を外れてしまいました。そこで返す槍で謙信公を強かに打ち据えようとしたのですが、今度も外れて槍先は馬に当り、驚いた馬は狂乱上米となりました。此れには流石の毘沙門天の生まれ変わりである謙信公も引くしか無かったのです。こうして信玄公は辛くも窮地を逃れたと言う逸話が有ります。

川中島古戦場史跡公園にある執念の石と言われている物です。
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何でも信玄公を窮地から救った原大隈守虎吉が、敵湘である謙信公を打ち損じた悔しさで岩に一突き入れたと伝わります。正に『一念岩をも徹す』の故事通りの話ですね。

大岩を見事に貫通しております。穴の空いた部分を拡大してみると、槍の形状の一つである平三角に成っております。
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説明書きです。
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コレは家に伝わる浮世絵版画ですが、一番右のアフロヘアの御仁が原大隈守虎です。子孫は徳川に仕えて現在の東京都八王子市千人町に住し、千人同心頭として活躍されました。前置きが長くなりましたが、此の原大隈守虎吉が合戦の最中に籠ったのも横田城なのです。
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現在の横田城跡は周りには民家が立ち並び往時の面影は有りません。土塁の上の祠の前に立ち、アブラゼミがミンミン鳴く汗ばむ陽気の中で、足下を流れる微風に下草が揺れておりました。私がその時に感じたのが有名な芭蕉の一句だったのです。一つひとつの史実を伝えようと私の歴史探索に付き合ってくれていた娘に話し始めましたら、そんな昔の話など何処吹く風と言う感じでしたのでやめました(笑)。今後の未来は絶対分からないのだから、自らの方向性を知るには先人の生き方に習うしか無いと言っていた亡父の言葉を思い出しながら横田城を後に致しました。