前回の続きからご案内させて頂きます。相沢忠洋先生が23才の時に群馬県みどり市笠懸町稲荷山の切通しの崖において、関東ローム層中に埋もれていた槍先形尖頭器を発見された事は前回ご案内した通りです。
此の発見は石剥片どころでは無く、槍形尖頭器という明らかに縄文以前の人類が造った生活の証であった事から、相沢氏は此の発見を専門家に見て貰う事をお考えになられたのです。
相沢氏の生活は納豆の行商で活計を立てておられました。相沢忠洋 その生涯と研究より
前回も書きましたが、岩宿遺跡の発掘以前の常識として、人類が日本列島に現れた最も古い時期は縄文時代早期と考えられておりました。当然ですが、岩宿の発見前は多くの考古学研究者が其の縄文早期に注目していたといいます。
相澤氏も岩宿遺跡と共に縄文時代早期の調査を精力的に行っておりました。其の為に早期の土器や石器についての教示を受ける目的で南関東で有名な研究者に何度も手紙を出されております。
相沢先生は岩宿遺跡が発掘される頃まで、何とか専門の研究家にお会いしたいと考え、東京や千葉県市川市等へ、自ら発掘した資料を持参し、行商で使っている自転車で何度も往復されたといいます。今みたいなスポーツ自転車では有りません!実際にお使いになられた自転車が岩宿博物館に展示されておりました。私は其の自転車を見た時、魂が揺れる様な感動を覚えました。
此方が其の自転車です。上州は山々を下降する乾燥した強い風が吹き荒れる場所で有名であり、地元の方は『上州の空っ風』と言います。そんな強風が吹き荒れるなかで片道120km以上を此の自転車で往復されていらしたのですから、其の熱意たるや凄まじく、私の想像の遥か上を行く意思の力だと思います。
其の後、相沢氏は東毛考古学研究所を構え、主に赤城山麓における縄文文化早期初頭遺跡の基礎資料の集成を行い、後期旧石器時代から縄文時代への移行を示す証拠を発見しようとされたのです。世界と比べた時に、日本の遺跡の凄いところは此の連続性に有るのです。
其の後、相沢氏は有る方のすすめで会社務めをされました。そして務め始めた会社が東京の吉祥寺に支店を出すことになり、其処に通われたといいます。
そんな折に世田谷の赤堤町にお住まいの後に慶應義塾大学名誉教授となった江坂輝弥先生を訪ねた時、偶然にも相沢氏の生涯の理解者となる当時明治大学の大学院生だった芹沢長介氏にお会いしました。相沢氏は芹沢先生だけに赤土の崖から出た石器の事を話されたそうです。
芹沢先生と交わされた手紙。相沢忠洋 その生涯と研究より
此のくだりは『岩宿』の発見と言う自伝のような書籍に書いてあります。『芹沢先生だけに』話されました...とありますが、他の高名な先生方は縄文より前に人が住んでいる訳ないと取り合わなかったかも知れません。実際に否定的な方々も大分お見えだったみたいです。書籍『岩宿の発見』には山洞・山曽野グループは常に岩宿遺跡に対して否定的な見解をお持ちで有ったと有りました。
しばらくして、芹沢先生からのご要望で東京青山に有るご自宅を訪問し、崖から採取した槍先形尖頭器と、石剥片を持参されたといいます。芹沢先生は八幡一郎先生の『満蒙学術調査報告』に記載されていた細石器の写真と比較され、全く同じだと感嘆の声をあげられたと自伝にはございました。
芹沢先生は此れを重要だと断定する二つの理由をあげられました。一つ目は細石器様のグループが北関東に有る事。もう一つは関東ローム層の中に土器を伴わずに存在したという事だと仰られたそうです。
其の後、芹沢先生から葉書が送られて来て、同じ明治大学の人文科学研究所長である杉原荘介先生が登呂遺跡の発掘から戻られるので、明大の研究室に案内したいと申し出が有ったそうです。
後に相沢氏は芹沢長介先生の矢出川遺跡発掘調査に何回も。参加されております。此の芹沢先生とは後に筋金入りの考古学者となる方で有り、遺跡の撮影技術を磨く為に有名な写真家の土門拳氏に師事して撮影技術を学ばれたそうです。矢出川とは川上村を流れる千曲川の支流であり、天然イワナの魚影が濃い小規模河川です。また、此の頃に相沢氏は三浦きみさんと再婚されました。
矢出川遺跡です。私は近くを流れる矢出川でイワナを釣ると旧石器人の食べていたイワナの末裔を釣った様な不思議な感覚を覚えます。日本旧石器学会さまのHPより
相沢氏は芹沢先生と一緒に明大の研究室に杉原先生を訪ねたところ、現地に行ってみたいという要望を受けたそうです。日を改めて皆で岩宿に行き、皆で掘り始めたところ、辺りも薄暗くなった夕方に杉原先生が青色の石器を掘り当てたとあります。
相沢忠洋 その生涯と研究より
翌日、杉原先生は前橋を訪問し、県庁に寄り一連の話をしたそうです。更に桐生に戻って村長さんや地主さん等と面会し、学術目的の発掘の意義を説明し、発掘の下交渉をしたそうです。そして翌日も終日調査を行ったと有ります。立場の有る方が本格的に動いたらこんなにもスムーズに事が運ぶのですね。
関東ローム層は1万年前のものから4〜3万年前のものまで存在しており、其処には人類や動物は住んで居なかったとされて来ましたが、夢を追い求めるアマチュア考古学者の執念の追求によって常識が覆ったのです。其の後は大々的な発掘調査が行われ岩宿遺跡が公に確認されたのです。
此の話は学生時代にゼミの先生が題材とした話ですが、学生時代の20代前半で感じる印象と今の様な五十路半ばで改めて見つめ直して感じる印象は雲泥の差があります。
相沢氏は其の著書で『岩宿は青春の日の輝かしい思い出であり、人生の記念碑であります』と語っております。
明治大学の杉原先生は岩宿遺跡に対して昭和24年9月11日から13日の3日間を予備調査とし、一連の成果を9月20日に新聞発表すると話して東京に戻ったと言います。
相沢氏は一日千秋の思いで其の日を待ちわびました。発表の翌日である20日の夜明けに相沢氏は桐生駅の売店へ向かい、新聞売りのお婆さんが、店に並べる前に朝日新聞、読売新聞、毎日新聞等を購入されたと有ります。
現代の桐生駅北口です。其の頃はどの様な造りだったのでしょうか。Wikiより
其処には『旧石器時代の遺物――桐生市近郊から発掘――』の見出しや、杉原先生が自ら掘り当てた握槌の石器を手にしている写真などの記事が大きく取り上げられていたそうです。
自伝では次の様に有ります。
『私の胸は高鳴った。さっそく買い求めて、新聞を小脇にかかえこむようにして家へ帰っていく道で、『ついに岩宿文化は誕生したぞ』と心で叫んでいた。そして家へ帰っても、私は何度も何度も各紙の記事をあくことなく読みかえした』
実に臨場感のある文章です。世の中は恐らく大反響の渦だったであろう事と相沢氏の感激も直に伝わってまいりますね。
しかし、この後に相沢氏の周囲の方々が異変に気が付きます。遺跡の発見者としての相沢忠洋さんの名前が何処にもないのです。旧石器の発見者である相沢氏を「発掘調査についての斡旋の労をとっていただいた」とだけ記し、また芹沢先生に関しても写真撮影を担当したと述べるにとどまったのです。
ハッキリ言うと明治大学の杉原荘介氏による手柄の横取りなのです。事実として杉原荘介氏は文部省での会見において、相沢氏が発見した日本最古の黒曜石の槍先形尖頭器を『私が発見した』と発表しております。此れに対して同じ明治大学の芹沢先生が猛抗議しましたが、にべもなく揉み消されてしまったといいます。
嘘の様な話ですが、杉原荘介氏 のWikiにも載っている本当の話しなのです。通常、研究室での成果は其れを指揮した教授の成果になるのは理解出来ますが、今回は相沢氏が発見した槍形尖頭器が発端になった話しなので事実と異なるのは明白です。
以前から重ね重ね思うのですが、杉原先生は此の一点のを除けば真に立派な功績を残しているだけに何故此のような嘘をついたのか不思議で成りません。
しかし世間は冷たいものなのです。高名な考古学の先生が語る内容と、納豆売りのアマチュアでは比べモノにならなかったのです。次第に相沢忠洋に対して嘘つきなどと、あらぬ話も流されるようになってしまったのです。
此の事は相沢氏の生活を直撃しました。周囲の人から嘘つき呼ばわりされ、家に石を投げ込まれたり、行商で納豆が売れなくなったり散々だったとの話もございます。
相沢氏は赤貧の状態に置かれ、自らの布団に入っている綿さえも、石器の標本の下敷に使ってしまい、苦しい生活を送られていたとの事でした。
しかし、古来日本人の諺にも有りますが、お天道さまは確り見ているのです。
相沢氏の座右の銘は『朝の来ない夜はない』です。相沢氏は、そんじょそこらの人では無く、強くて慎ましい帝国海軍の軍人さんだった御方なのです。
群馬県みどり市は、相澤忠洋氏の功績を称え、相澤忠洋氏生誕100周年と岩宿遺跡発見80周年及びみどり市市制施行20周年が重なる令和8年を目指して一連の事象を題材とした映画化に着手すると2024年8月5日に発表しております。どんな作品になるか楽しみです。
稀代の英雄はどんなに逆境でも
常に前向きなのです!
次に続きます。