みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

和田峠 黒曜石

縄文時代は黒曜石時代とも形容出来ると話している先生方が多くおります。私は時代の呼称について良く分かりませんが、黒曜石は縄文人を豊かにした鉱物だった事は間違い無いですね。特に諏訪地方の和田峠や星糞峠(ほしくそとおげ)にまたがる地域で産出された黒曜石はブランド黒曜石だったと言われているのです。今日は私の持っている黒曜石と縄文時代の流通ルートについて御案内させて頂きます。

これが諏訪に連なる和田峠産の黒曜石です。専門店にバフ掛け(磨き作業)をして貰ったものです。
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角度を変えてもう一枚。大きさは私のグーの1.5倍くらいです。
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こちらは太陽光が強くあたる窓の近くで撮影したものです。真っ黒では無く、どちらかと言うと茶系の色合いで、石自体が少し透けており、中に縞模様が見えます。此れが和田峠産黒曜石の特徴なのす。此の透明感と縞模様を縄文人は愛たのでしょうか。
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反対側にも縞模様が規則正しく入っております。
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一方で此方は北海道産の黒曜石です。大きさは手の平くらいで真っ黒な品です。一般的に黒曜石とは此のように真っ黒で透明感は無いのです。
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こちらも和田峠の黒曜石です。長さが7cmほどの欠片ですが、此方は向こうが透けて見えますね。和田峠産黒曜石にも先程の北海道産黒曜石の様に真っ黒のもの存在しますが、白い細マジックで書いた様な明確な白線が並行に入っている物が殆どです。
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黒曜石はご存知の様に刃物として使う事や簡易的な槍の穂や矢の先に付ける鏃にも使用され、時には宝飾品として物々交換の対価となったと言われております。此の黒く輝く石を縄文人は天空の星の破片が落ちて来たと捉えていたのではないかと仰る学者さんがおみえになります。

豊かな縄文集落では黒曜石製の対人用武具が一切発見されておらず、狩猟で取れる動物を解体する小さい刃物のみが出土しております。人々は互いに助け合って集落を形成していたと推測されております。日本は豊かな国なので縄文人は魚や貝を食べ、山では獣や栗及び胡桃などを食べて生活しており、欧州や大陸の様に他の部族を滅ぼして食物を奪う風習は無かったのです。

この分布図は世界で黒曜石の取れる場所を現しております。 Wikipediaより
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アメリカには巨大火山帯のイエローストーンが有りますので世界で一番多い採取場所が有りますね。  Wikipediaより
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一方ユーラシア大陸においては日本が特出して多くなっている事が分かると思います。なんと日本には狭い国土の割に55ヶ所も黒曜石が取れる場所があったのです。なかでも諏訪地方の黒曜石は品質ナンバーワンだったと伝わります。また黒曜石はエネルギー分散型蛍光X線分析装置(EDX)で産地が分かるのです。最新テクノロジーは素晴らしいですね、本当に感謝しております。  Wikipediaより
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此の最新テクノロジーを使うと、何処で産出された黒曜石がどの年代の地層で見つかったのかが解明されます。此の事を紐解くと驚くべき縄文時代の交通網が見えてくるのです。私もかつて此の事を書籍で読んだ時は驚き、果てなき妄想の世界に入り込みました。

では日本列島の黒曜石が産出地よりどれだけ遠くで見つかったのかと言う例を数例挙げたいと思います。

まず本土から離れた隠岐島でも黒曜石が取れました。驚愕の事実ですが、隠岐島の黒曜石は日本海を超えて北上し、直線距離で1000kmも離れたロシアのウラジオストックやナホトカで見つかっております。

隠岐島の位置は此処です。
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ウラジオストックは此処です。交通インフラや船の計器も無い縄文時代の事です。
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諏訪のブランド黒曜石は関東から東北地域で多く出土しており、青森の三内丸山遺跡でも発見されております。三内丸山遺跡では沢山の黒曜石が出土してますが全国各地18箇所にも及ぶ産地から運ばれた物でした。また諏訪和田峠産の黒曜石は直線距離で650kmも離れた北海道木古内町の遺跡からも出士しているのです。海路だとしても途方も無い距離です。恐るべし縄文人の移動距離です。

北海道で出土した諏訪の和田峠産黒曜石の鏃です。 此れを持っていた道産子縄文人は綺麗なブランド黒曜石ですから、きっと矢に付けても使わないでいらしたかも知れません。ですから完璧な形で残っているのだろうと考えます。近くに産地が有るのに何故に信州の和田峠産なのかは謎です。集団で定住する人達と定住しない人達が居たのだろうと言われております。産経フォト様より
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他にもまだ驚愕の事実が有ります。

伊豆半島の先にある神津島の黒曜石も海を超えて静岡を始め本州で見つかっております。神津島伊豆半島の間には黒潮である対馬海流が流れております。

縄文人はいったいどのような船で黒潮を渡り切ったのか、渡るだけでは無いのです、復路は重い黒曜石を載せて再度戻る必要があるのです。沼津市文化財センターより
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内陸の諏訪地方で海の魚の骨などが出土しており、当時の交易は物々交換だった事を連想させます。思うに黒曜石と魚の干物や燻製などとでも交換したかも知れません。当時の諏訪縄文人達は、美味しくて珍しい海産物に舌鼓を打ったと思われます(笑)。他にも九州の黒曜石は朝鮮半島や南西諸島へと運ばれております。

まだまだきりが有りませんが、縄文時代には海路や山谷を進んで遠く離れた土地に辿り着いていた事が分かりますね。恐らく此のネットワークが出来たおかげて、其れ以後の国内における交通インフラが整備されて行ったと思います。

飛鳥時代天武天皇の時代に五畿七道の原型が出来上がりましたが、縄文からのネットワークが其の基盤になった事は疑いようも無い事です。縄文人は平均気温の上昇や火山の大噴火で北に移り、縄文海進で更に豊かな文化を形成しましたが、4,000年前頃からの度重なる気候変動により、南へ徐々に移動して行ったと言われております。縄文の人々が自らの足で見出した道が其れ以降重要な役目をした事を思うと、やっぱり16,000年も続いた縄文時代は偉大だと思うのです。もはや歴史区分の域を超えておりますので、何故に『縄文文明』と言わないのか不思議でなりません。