みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 3

今回から源氏と平家が歴史の表舞台に立つキッカケとなった保元.平治の乱のご案内となります。言うなれば源氏と平氏が朝廷や公家の争いの実働部隊としての地位から武家政権への移行となる過程で起きた局地的な合戦です。ただ其の過程の中で多くの血が流れました。

この争いは京の都の話で有り、遠く離れた木曽に暮らす駒王丸は中原兼遠公の元で確り養育されておりました。後の『義仲四天王』となる兼遠公次男の樋口次郎兼光、四男の今井四郎兼平、巴等と木曽の大自然の中を駆け巡り、兼遠公の指示により名門の血脈に恥じない学問と武芸を身に付けておりました。前回までは武家から見た情勢をご案内しましたが、今から案内する『保元の乱』は宮中の問題が根本なので、武家から一転して宮中の話となります。

樋口次郎兼光  兼遠公の次男 四天王一の英邁で、木曽が育んだ知将です。
f:id:rcenci:20211106110128j:plain

今井四郎兼平  兼遠公の四男 この武将は義仲公に最後まで忠節を尽くしました。まさしく木曽が育んだ平安期の益荒男です。
f:id:rcenci:20211106110202j:plain

保元の乱 1156年7月
この期間に歴史の渦は大きくうねりました。都では嫡子の義賢公を失った源為義公と義朝公&義平高親子の関係は最悪となり、更に朝廷にも深刻な相続争いが起こりました。簡略化しない迄も出来るだけ端的にご案内致します。

白河天皇 全てこの方が原因を御創りになられました。全く勘弁してほしいモノです。
f:id:rcenci:20211106112842j:plain

白河天皇は息子の堀川天皇の頃に政治の実権を握って院政を始め、堀川天皇の後である孫の鳥羽天皇の頃を過ぎても実権を握ったままでした。とても非礼な言い方ですが此の白河上皇がやってしまったのです。鳥羽天皇の次の天皇崇徳天皇です。一応ですが崇徳天皇鳥羽天皇中宮(奥さんの事)である藤原璋子(待賢門院)との間に生まれた第一皇子とされております。ところが崇徳天皇鳥羽天皇の父である白河法皇鳥羽天皇中宮である藤原璋子の間で現代で言う不倫をして生まれた子供だったのです。端的に表現すると孫の奥さんと不倫してた事になります。全ての権力を持つ白河上皇が存命の時は鳥羽天皇も思いは有ったでしょうけど、崇徳天皇に対して普通に対応しておりました。ところが白河上皇崩御した後は自分の子供でない崇徳天皇に冷たく当たり出したのです(キモチハワカリマス)。

絶世の美女で魔性の女性?
待賢門院(藤原璋子) wikiより
f:id:rcenci:20211106110430j:plain

それでも崇徳天皇は保安4年には天子の位を受け継ぎ、第75代天皇として即位致しました。ところが....ところが....崇徳天皇の運命がここで狂います。不仲なお父さんである鳥羽上皇がお爺さんの手が付いてない2人目の中宮(奥さん)の藤原得子(美福門院)との間に躰仁親王(後の近衛天皇)が生まれたのです。そこで自分の本当の子供である躰仁親王を即位させる為に崇徳天皇に退位を迫りました。
鳥羽天皇崇徳天皇に躰仁親王を養子にしたらどうか?と誘いました。この話は崇徳天皇にとっても良い話です。次期天皇の父という事は自分は上皇になれる事が約束されます。其処で崇徳天皇鳥羽上皇の提案を了承したのです。
ところが鳥羽上皇近衛天皇が即位する寸前に近衛天皇を『皇太子』では無く『皇太弟』としたのです。院政天皇の『父』が行うもので『兄』は行えないのです。明らかなだまし討ちでしたが崇徳院には対抗する手段は有りませんでした。酷いを超えた超陰険なイジメです! この事で崇徳天皇鳥羽上皇&近衛天皇と争う様になりました(アタリマエダワ)。

鳥羽天皇 wikiより
f:id:rcenci:20211106112947j:plain

話はソレますが藤原氏が行っていた摂関政治院政真っ盛りの中でも役職だけは健在でした。この頃は藤原忠実太政大臣です。しかし上皇の信頼は厚くありませんでした。そこで白河上皇は次男の藤原忠通を摂関の地位に付けました。藤原忠通には藤原頼長という弟がおります。此の2人の兄弟は其々に自分の娘を近衛天皇に近づけて結婚させます。ところが肝心の近衛天皇は後継が出来ないまま崩御してしまいました。次の候補は崇徳院の子である重仁親王鳥羽上皇の第四皇子である雅仁親王です。鳥羽天皇は当然嫌いな崇徳院の子ではなく、雅仁親王皇位に付けて後白河天皇としました。もう完全に崇徳院は意地悪されっぱねしで我慢の限界です。此処で突然に鳥羽上皇崩御してしまいました! 其れを契機に怒り心頭の崇徳院は武力を持って上皇の座を奪おうと行動を起こしたのです! 藤原家は摂関の地位を掛けて、朝廷は上皇の座をかけての争いが始まりました。後白河天皇藤原頼長平清盛公と源義朝&義平公が味方し、崇徳院側に着いたのが藤原忠通平忠正源為義源為朝でした。お互いの陣に其々の利害関係を持った武将が続々と詰めかけました。両陣営に集まった武将達は共に夜打ちを進言したそうです。
一方の後白河天皇側は夜打ちに賛成しました。実際に後白河天皇が賛成してのではなく、懐刀的な存在だった『信西』という藤原南家出身の貴族で僧侶だった知恵者が源義朝の夜討ちの策を採用したのです。此の信西は後の平治の乱の主要人物となります! 対して清廉潔白な崇徳院は夜打ちには反対しました。しかしコレが勝敗を分けてのです! 朝日が上がる頃には後白河天皇側の圧勝でした。此の戦いで藤原頼長は戦死して源為義等は斬首されました。これにより源氏内で敵が居なくなった義朝公と義平公親子は源氏の頭領の地位を確立したのです。崇徳院は投降しましたが網代車に乗せられて讃岐国へ配流となりました。その8年後に46歳で崩御されたとも、暗殺されたとも伝わります。強い恨みを抱いて崩御した崇徳院は怨霊となり、後白河上皇藤原忠通に近い人々を相次いで呪い殺したと伝わります。怨霊と化した崇徳院の話は後世にかなり着色された話も沢山ございますが、皇室を呪った事は間違い有りませんでした。

この内乱で皇室と摂関家の内紛に源氏と平氏が活躍した事は言うまでも有りませんが、此の戦いにより武士の政界進出が決定的になり、朝廷は武家に治安維持を委ねるしか道は無い状態となってしまいました。

源氏同士の喧嘩は義朝公と義平公が勝ちました。義朝父子は同じ同族を殺して勝利した事になります。です....が....『盛者必衰の理』の言葉通りで勝った義朝公と義平公も間も無く命を落とす事になるのです。


そんな都の情勢と反して、駒王丸は木曽谷で多感な青春の日々を送っておりました。駒王丸はおおよそ24年間木曽で過ごすのです。人体の約7割は水と言いますが、駒王丸の中の7割は木曽の大自然が創った水なのでした。



平治の乱に続きます!