みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 2

前回は平安末期におけるザックリとした武家の有様と源氏と平氏の成り立ちと台頭などを御案内させて頂きました(友人からは長すぎる〜と言われました)。しかし此の背景が分からないと中々厳しくて途中で挫折する場合が多いので繰り返します。最初は源氏も平氏も地方に基盤を置く動きをしていた事。義仲公の父親は源義賢公です。義賢公の兄は義朝公であり、義朝公の弟に為朝公がおりました。義朝公の嫡男は義平公(鎌倉悪源太)、次男に鎌倉幕府初代将軍の頼朝公がおります。

略図 『乱世を駆ける 木曽義仲巴御前』 北日本新聞社 より抜粋
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※ 大蔵合戦 
義仲公は幼名を駒王丸と言い、父は帯刀先生(注1)源義賢公で母は秩父重隆公の娘である小枝御前です。駒王丸が2歳の時に大事件が起きました。
時は久寿二年(1155年)の8月16日、場所は武蔵国大蔵館です。大蔵館は現在の埼玉県比企郡嵐山町にこざいました。母の小枝御前は秩父氏の頭領である秩父重隆公の息女です。秩父氏は平将門公の女系子孫であり、当時の秩父重隆は武蔵国留守所総検校職(注2)として武士を動員する権限を持っておりました。
此の戦の背景としては諸説ございますが、一般的な事をご案内させて頂きます。結論的に此の合戦は義朝公の嫡子である義平公の焼き討ちにより、義仲公の父親である義賢公と小枝御前の父親である秩父重隆公が討ち取られ、味方していた武家は離散致しました。
河内源氏頭領の源為義公は兄弟の中でも次男の義賢公に目を掛けておりましたので、嫡男である義朝公は自分の立場に危機感を強く持っておりました。単略的に言うと、まず為義公と義朝公は親子なのにとっても仲がわるかったのです。為義公のバックは五摂家(藤原氏嫡流)、対して義朝公のバックは院の近くに侍る近習達でした。院政(注3)と言う政治体制の絶頂期なので、此の時の『院』つまり上皇は最強です。兄の義朝公は弟の義賢公より十年以上先に南関東に来訪しており、力のある豪族の三浦氏や千葉氏など有力な豪族と婚姻関係を結んでおりました。義朝公の嫡子である義平公の母親は三浦氏の女性です。そんな背景も有って何と父親を差し置いて息子の義朝公に下野守の官職が朝廷より贈られてしまいました。其処でお父さんの為義公は棟梁の地位を守る為に嫡子とした義賢公を義朝公の勢力が及んでいない北関東に送り、当時武蔵国で最強の武士団を持つ武蔵国留守所総検校職の秩父重隆の娘を奥さんに迎えさせました。義賢公は小枝御前と義父である重隆公の館に居りました。

話は少し脱線致しますが、私は高校生の頃に父の蔵書にあった大蔵合戦についての書籍を何冊か読んだのですが、源氏の武将の名前が為ナントカ...とか義ナントカ...など色々名前が出で来て、『全く訳が分からん〜』って状態に成りました。同じ様な名前でゴチャゴチャになった方は前回紹介した源氏一門の表をご覧下さい。面倒臭い方は雰囲気だけでも感じて頂ければ幸いです。

合戦の背景は上述の事だけでは無いのです。実は秩父氏も揉め事がありました。武蔵国留守所総検校職の秩父重隆公は父である重綱公の次男でしたが、嫡男を差し置いて武蔵国留守所総検校職を継いだ事により、嫡男秩父重弘の長男である畠山重能公や重綱公の後妻などが共謀して重隆公を討ち滅ぼす機会を狙っておりました。
オマケに秩父氏は利根川の向こうの上野国の新田氏や下野国藤姓足利氏(注4)などともイザコザが絶えませんでした。従って秩父重隆公にとっても源氏の嫡流であった為義公の跡取りにあたる義賢公と結ぶのは敵対精力より優位に立てる上作だったったのです。重隆公に対抗する新田氏や畠山氏はいずれも義朝公と義平公の親子と結んでいました。そんな最中に義賢公と秩父氏の小枝御前との間に生まれた子供こそ後の旭将軍である木曽義仲公(幼名は駒王丸)です。義賢公は秩父氏と血縁関係を結んだとはいえ、秩父氏の敵対勢力も同時に付いて来ちゃったという感じです。

駒王丸が2歳の時に事は起きました。義朝公の嫡子義平が一族で十六夜の宴を催していた大蔵館を突然焼き討ちしたのです。義朝公は弟の義賢公を直接打つのは周囲の目も合って憚られたので、近くに居た息子である義平に襲わせたのです。時は久寿二年8月16日の夜でした。不意を突かれた義賢公と秩父重隆公は15歳の義平公率いる連合軍によって敢えなく討ち取られてしまいました。義賢公の嫡子である駒王丸(義仲公)にも当然ですが殺害命令が出てました。ところが秩父重隆公を討ち取る事に燃えていた畠山重能公は功成った後で年端もない駒王丸を殺す事が出来ずに密かに小枝御前と一緒に匿ったのです。なんと人間らしい武将でしょうか! 当然ですが寄手の総大将である義平公には内緒です。心優しい武人の畠山重能公の息子さんは鎌倉幕府発足に大きく貢献し、人格及び武芸に優れ、御家人の間では『武家の鑑』と言われた畠山重忠公です。有名な一ノ谷の戦い鵯越の時、馬が哀れだと馬を背負って崖を降りた程の豪傑です。此の父にして此の子有り、重忠公の心根の優しさはお父さん譲りだったと思われます。

畠山重忠公 wikiより
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畠山重能公に救われた駒王丸は、畠山重能公の手を離れ、周囲の豪族と親交が深い武蔵国幡羅郡長井庄を本拠とする豪族の斎藤実盛公の手に委ねられました。斎藤実盛公は後の大戦で再び義仲公と悲劇の対面を果たします。すっとずっと後の時代に石川県の多太神社を訪れた松尾芭蕉は次の様な俳句を残してます。『むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす』此の事は何回か後でご案内しますが『漢の中の漢』とは正にこの人の為に有る言葉の様に思われます。斎藤実盛公は以前に源義賢公にも仕えたことがあるので駒王丸を逃がすようにと畠山重能公に頼まれたのです。斎藤実盛公は駒王丸を悪源太義平の追手から逃すべく、武蔵児玉党の女性を妻にした信濃国の豪族で信濃権守であった中原兼遠公に元に駒王丸と小枝御前を連れて行きました。小枝御前は父である秩父重隆公と夫である源義賢の夢を託した大事な駒王丸を女の細腕で道無き道を進み、多くの峠越えをして木曽まで歩いて行った事を思うと心が痛くなります。結局小枝御前は駒王丸を無事に送り届け、精も根も尽き果てて間も無く木曽で亡くなってしまいます。お墓は現在の木曽町日義にある『義仲館』に隣接している立派な山門を持つ徳音寺という古刹にございますので、近くに行かれた時には是非お立ち寄りください。兼遠公の次男である樋口兼光、最後のニ騎になるまで義仲公に従った今井兼平の墓もございます。

正に漢の中の漢 斎藤実盛公 Wikiより
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吾妻鏡』によると中原兼遠公は義仲の乳母の夫であったと記されております。例え源氏の貴種である義朝公や長男の悪源太義平公を敵に回そうが、斎藤実盛ほどの漢に懇願されてのです。兼遠公は源氏の御曹司を預かる決意を致しました。これぞ木曽の中原兼遠公の凄いところです。自分の一族が存亡の危機に成ってしまう事も顧みず八幡太郎義家公の血を引く駒王丸を受け入れたのです。以後24年後に義仲公が平家追討で旗上げするまで立派に養育されたのです。

兼遠公は木曽と安曇に所領を持っており、ほかの武家からも信頼が厚かったと伝わります。後の義仲四天王信濃国一の剛の者だった根井行親を説いて嫡子の盾親忠と共に味方に付けたのも兼遠公の御仁徳だと思います。これ程の度量を持った漢が木曽を領していたのです。木曽は間違いなく850年前に日本の歴史を変えた英雄を育んだ土地と成ったのです。現代に生きる私は義仲公の愛妾である巴が水浴びした巴淵の下流にある堰堤でイワナを釣る為に竿を出していると、何となく歴史が具現化した様で不思議な気持ちに成ります。旗上げ神社も中原兼遠公のお墓や屋敷後も現在まで地元有志の皆様の御尽力により史跡として確り残っており、私はそんな木曽の空気を身に取り入れながら渓流釣りを堪能している事を改めて幸せに思います。ブログによく記載している南宮神社も兼遠公と義仲公が京の都に旅をして、美濃国南宮大社に寄った事から木曽に分社した歴史がございます。

今年義仲館の前で撮影した源氏の旗記である笹竜胆(ささりんどう)です。
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駒王丸が木曽でスクスク育っているなかで世の中は歴史的な大きな変化を遂げております。いよいよ次は戦乱の始まりである『平治の乱』です。


注1
帯刀先生 (タテワキセンセイでは無く、たちはきせんじょうと読みます、私は12年間もセンセイだと思ってました 笑!) 東宮の警護職を束ねる長の役目の事です。東宮とは宮中において皇太子がいる場所であり、皇太子そのものを示す場合もございます。よって帯刀先生は天皇に余程信任がないと成れない役目です。


注2
武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)、実に読み難い官職の名前ですけど武蔵国の豪族にとっては憧れの職でした。この実権を握る事によって周囲の地侍を動員出来たのです。

注3
改めて院政とは具体的には次の3人です。白河上皇鳥羽上皇後白河上皇。その前は藤原氏による摂関政治でした。

注4
藤姓足利氏とは近江三上山の百足退治で有名な藤原秀郷を祖とし、下野の足利郡に本拠を置いていた豪族です。後に頼朝公により滅ぼされました。有名な足利尊氏公の足利氏とは区別されます。足利尊氏公の足利氏は藤姓足利氏と区別する為に源姓足利氏と表現される場合がごさまいます。