みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 4

まず大きな流れですが、平安時代の真ん中から藤原氏による摂関政治から院政に移り変わりました。摂関家は代々源氏と結び付きが強い傾向です。対して平家は上皇が住んでいる場所(院)の護衛をずっと担当してました。たまたまかも知れませんが、院政下では平家が近い分だけでも断然有利だったのです。

前回の保元の乱後半戦に出てきた藤原南家出身(注1)の天才『信西』は後白河上皇に見出されて大きな権力を持つ存在となってました。信西薬子の変(くすこのへん 810年)以来行われてなかった私刑を復活させ、源為義など背いた側の武将を死罪と致しました。また摂関家の弱体を図り、政治を推し進めて行く過程で自分の息子達を要職に付けたのです(今も昔もコレをやると組織化が弱体化しますね)。

平清盛公 wikiより
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冒頭にも表記した様に時代は院政政治(注2)が最高潮の時なので摂関家は弱体化したのです。当然ですが弱っちく成り下がった摂関家についていた源氏は色々冷遇されました。そんな背景下で起こった保元の乱だったので論功行賞として後白河天皇側に着いた源氏の武将に恩賞はとっても薄く、平清盛などに対する恩賞とは比べ物に成りませんでした。そんな事も有って義朝公と義平公は大いに不満を持っており、其の矛先は全てを取り仕切っている信西だだ1人に向けられていたのです。

二条天皇 wikiより
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後白河天皇保元の乱が終わると息子の守仁親王皇位を渡します。守仁親王二条天皇となり、後白河天皇後白河上皇に成りました。当時の後白河上皇は能力的に少し残念なところが有ったみたいで実質は信西が実権を握っていたのです。源氏一族も信西を憎んでましたが、藤原信頼を筆頭に藤原北家も何で格下の藤原南家出身の奴輩が権力持つんだ〜って怒っておりました。共通の敵を持つ者同士は何時の時代も現代の野党の様に結び付きます。此の場面では摂関家藤原信頼と低い恩賞などの不当な待遇に不満を持つ源義朝公父子が結託致しました。

熊野那智大社 wikiより
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しばらくして藤原信頼は平家の頭領である平清盛公がもうじき熊野詣に行くと言う情報を仕入れました。此処は番犬の居ないうちに『信西』をやっつけるチャンスです。此処が大事なところなのですが、実際にやっつけたいのは憎っくき『信西』一人だったのです。

そこで清盛公が熊野詣に出発したのを見計らって信頼と源氏頭領親子は挙兵致しました。襲うのは上皇の住まいで有る東三条殿です。藤原信頼後白河上皇上皇の姉を確保し軟禁致しました。東三条殿に居た他の者は容赦なく首を刎ねられたと伝わります。しかし肝心の信西は既に逃亡した後でした! しかしその後の探索でまず信西の息子が捕縛されました。信西本人は山城国田原という場所にに逃れて土に穴を掘って木箱の中に隠れておりましたが、追手に見つかり土を掘り返す音を聞いて木箱の中で自刃したと伝わります。信西の首は京都に持ち帰られ都大路に晒されました。

目的を果たした信頼は義朝公を播磨守に任じました。息子の義平公は東国よりの大軍を引き連れておりましたので、平清盛公の帰路を待ち伏せて討ち取る事を進言しましたが、藤原信頼は之を受け入れませんでした。この藤原信頼が下した判断の少しの甘さが後の明暗を物凄く大きく分けます! 藤原信頼が百戦錬磨である義平公の進言を受け入れなかった理由は、信頼の嫡子信親が清盛公縁の娘と婚姻関係にあったので、まさか争いにはならないだろうと考えたからです。この感覚のズレが貴族の考えと武家の習いの違いでした。藤原家の貴族は天皇外戚となって力を握る事が目的、武家の目的はあくまでも何処までも御家の繁栄なのです。

清盛公は熊野詣の途中の紀伊国で都の異変を知りました。途中で熊野別当などの軍を味方につけ、本拠地の伊勢から仲間を引き入れ大軍となって都に戻ったのです。それに対して源氏は信西を討ち取るだけを目的とした人員でしたので、合戦に及ぶ事までは想定しておりませんでした。此処からが清盛公の真骨頂です。まず藤原信頼の嫡子である信親を返しました。この事により一度は信頼に恭順の意を示した清盛公ですが、そんなに世の中は上手く回りません。

六波羅 現在の郷土史東山区 Wikiより
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六波羅に戻った平清盛はある戦略を練ります。天皇上皇は敵方におわしますので、その敵を攻めると朝敵となってしまうのです。まず二条天皇を信頼側から取り戻す為、二条天皇に女装して内裏を脱出する事を冠者を使ってすすめます。同時進行で後白河上皇にも内裏を離れてもらう戦略でした。今から思うと『え?そんな事なの〜?』って感じの戦略ですが、此の戦略は見事に成功したのです。後白河上皇は無事に仁和寺に逃げ込み、二条天皇も見事に女装して六波羅に匿う事に成功致したのです。女装って事ですが、ハリウッドの特殊メイクも無い時代だけに不思議です。そんな感じなら合戦で負け時にみんな女装して逃げれますね。

仁和寺 wikiより 金堂は国宝です。
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こうなると数に勝る平家は断然有利です。実際あっという間に内裏を奪回してしまうのです。内裏を脱出した源義朝軍は六条河原で最後の決戦に挑みますが、同じ源氏の源頼政が裏切った事により負けてしまいました。藤原信頼は降伏しましたが斬首され、義朝公は主従で東国を目指し敗走致しました。ところが落ちる最中に源義朝公は愛知県知多郡美浜町野間で部下の裏切りに遭って最後を遂げます。別の道を落ちのびていた義平公は、父が打たれた事を知り、仇を討つべく都に戻りますが、平家方に捕縛され斬首されてしまいました。これで源氏は壊滅状態となり、残った源氏一族は散り散りになりました。敗走中の父とはぐれてしまった頼朝公も捕縛されてしまいました(後に伊豆の蛭ヶ小島に流され、政子と出会います)。

この後は平家が日宋貿易(南宋)で巨万の富を築いて朝廷に入り込み、『平氏にあらずんば人にあらず』とまで言われる程の繁栄を築いた事はご存知の通りです。モバイル通信機器がない時代だけに、人の心の移り変わりと貴族と武家の文化の些細な違い違いが後の運命を大きく分けて日本の歴史が動いて行ったのです。  

蛭ヶ小島に流された頼朝公は渚に座り海を見ていたと多くの文献に表現されております。恐らくは父や叔父など身内が如何に生きて如何に死んだのか? 何故に朝廷の官職という甘い蜜を求めて覇権を争ってのか?波の音を聞きながら沈思黙考していたと思われます。此の沈思黙考の時間が後の天才政治家の根っこなのです。出した答えは面倒くさい朝廷とは別の武家だけの政権でした。

因みに鎌倉幕府は頼朝公の一族が三代で滅んだ後に北条一族が取り仕切った事は周知の事だと思います。偉大なNo.2であった執権北條氏は清盛公が行っていた南宋との関係を引き継ぎ、高僧を日本に招いております。ところが超軍事大国のモンゴルが南宋と戦う事になりました。モンゴル帝国は日本に使者を何度も送りました。ところが時の執権北条時宗南宋から招いた無学祖元禅師の話を鵜呑みにし、モンゴル帝國からの使者を無視し続けることを繰り返し、やがては使者を切り捨てました。その事がフビライハーンを怒らせた経緯がこざいます。その事と合わせてベニスの商人であるマルコボーロが黄金の国ジパングは『木に黄金が実っている』などとフビライハーンを焚き付けたのです。モンゴル帝国南宋をやっつけた後で矛先を日本に向け、我々が知っている蒙古襲来となったのです。コレは当時は朝鮮半島までがモンゴル帝国支配下になった事に起因しております。蒙古襲来までは神功皇后三韓征伐のおかげで史上最強の軍隊を誇る隋も日本には来れなかったのです。神功皇后は正に日本を救った女神さまでした。(義仲公には関係ない話はでした)

次回はいよいよ後白河上皇平清盛公が喧嘩して院政が終わりを告げます。所領を平家に奪われた以仁王により平家追討の令旨が出た経緯をご案内します。


最後までお読み頂き、有難うございました。



以下は文中の『注』の解説
注1 藤原家
名門である藤原家は四つに分けられておりました。まず摂関職を輩出する藤原北家が有って、その他が南家、式家、京家です。南家の始祖は藤原不比等の嫡男である藤原武智麻呂、式家の始祖は藤原不比等の三男である藤原宇合、京家は藤原不比等の四男である藤原麻呂が始祖です。つまり全部の家が藤原不比等の子供なのです。ご存知の様に藤原不比等大化の改新の中心人物である中臣鎌足の次男です。文武天皇の時代に不比等の子供だけが藤原姓を名乗る事が許されました。後の兄弟は中臣姓となり、ハッキリと区別されちゃいました! 藤原不比等天武天皇が制定した大宝律令の編纂に関わった方です。名前自体が等しく比べちゃダメ(不)って凄いな〜って昔から思ってました。


注2
前回も少し説明しましたが、追加としてご案内します。藤原氏摂関政治天皇が国家最高の権威として存在し、摂政や関白などが政務を行っておりました。院政に於いては院の下に『院庁』という役所が存在し、上皇から選ばれた近臣達が運営しておりました。近臣達により決められた定めは上皇が承認します。そして天皇院宣というかたちで指示します。天皇は言われるがままと迄は言いませんが、酷い言い方をするとオカザリ的に成っておりました。此れを強制的に終わらせたのが平清盛公なのです。