みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

趣味の話  火縄銃について

ご存知の通り鉄砲伝来は天文12年8月25日(1543年)にポルトガルの商船が種子島に漂着し島を治めていた種子島時堯(たねがしまときたか)がポルトガル商人から鉄砲二丁を購入した事が始まりです。同時に種子島時堯は家臣に火薬の調合を学ばせました。当時の種子島は砂鉄が多く産出されていた場所であり製鉄業に携わる職人が数多く存在した事を幸いに多くの刀鍛冶に製法を学ばせたとされております。種子島氏は島津家家臣なので時堯(ときたか)は藩主に鉄砲を献上し、島津家から時の将軍である足利利家に献上されました。種子島の鍛冶職人が製作した複製品から根来寺津田監物や堺から来た技術者に伝法が伝えられたとされてます。優秀な日本の鍛冶職人は瞬く間に製造技術を身に付けて、折しも重なった戦国時代の需要によって戦国大名の間に急速に広がり、長篠の戦い(1575年)で織田と徳川の連合軍が戦国最強武田騎馬軍団を馬房柵と3,000丁の鉄砲で打ち破った事で鉄砲は戦武具として不動の地位を確立致しました。

我が家には一丁のみ伝わっております。不勉強で火縄銃の事はよく分かりませんが、刀と違って割れにくい柔らかな鉄が銃身に使われていると父から聞いた覚えがございます。火縄銃の思い出としては幼少の頃に骨董商の祖父が大砲の様な大筒を手に入れて家に置いてありました。祖父に我儘を言い其の大筒を持ち上げようと思いましたが全く持ち上がらなかった記憶がございます。現在我が家に無いという事は売れてしまったのだと思います。祖父は儲かると冬にはブリを丸々1匹魚屋さんに頼み、家に届くと祖母と母が料理して刺身や煮付けなどにして家族で美味しく食べました。更科は四方山々に囲まれており、幾つも峠を越えて日本海からブリ街道を通って運ばれる寒ブリは現代よりよりずっと高級品だったとの母親の話です。話は外れますが信州人とってブリは特別な魚でして年末の『お歳とり』にブリは欠かせません!今でも大晦日が近づくと近所のスーパーには立派なブリの切り身が所狭しと並びます。


鉄砲の全景です。
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後ろから見た姿です。
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口薬入です。
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火縄銃に使う火薬は筒先から入れる発射薬と火蓋から入れる口薬と二種類有ります。粒状か粉末かの差ですが粒状は直ぐに着火しないそうです。粉末は空気を含んでる分だけ着火が早いみたいです。口薬入れ自体は細竹で瓢箪を編み込み黒漆で固めており、根付には割れた透かし鍔が付いております。エコロジーな時代らしいてすね!

此の栓の内側が一回分の口薬となります。
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此れは火縄ですが何の繊維で編まれているのでしょうか?
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照星です。当時の言い方は前目当
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照門です。
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当時言い方は先目当! 
コレは『目星を付ける』の語源です。

小禽(小鳥の事)の彫り物が有ります。
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竹藪の意匠が有りますが小禽との関連性が不勉強で分かりません。
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手持ちには桜花があしらわれております。
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口薬を入れる火皿と火蓋です。
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通常は火縄の火の粉が落ちても着火しない様に火蓋は閉じられ、打ち放つ前に安全装置の役目をしていた火蓋をずらします。此の一連の動作は『火蓋を切る』の語源です。

火蓋が切られている状況。
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ラクリ部分です。
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槊状(さくじょう)と言われる玉を詰め込んだり、筒内の掃除をする為の道具です。
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銃床にある穴に差し込む仕組みです。
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掃除の為のボロ布を通す穴が有りますね!
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鉄砲は足軽が弓や槍と比べて技の練度をあまり必要としない為に容易に扱うことが出来て威力が抜群である事から戦国時代後半から安土桃山時代を経て江戸初期までに隆盛を極めました。しかし火薬の調合材である硝石や玉を造る鉛は最初明国から輸入しておりましたので費用はそれなりに掛かったと思われます。その後は一部の地域で硝石が産出出来る様になりました。加賀国前田家の領地である五箇山は日本有数の産地でした。何でも人が長年の用を足している土壌に様々な草を混ぜて攪拌し数年かけて発酵させる製法であるとの事です。この事を発見した当時は宝物を見つけた状態であった事だと思います。因みに現在の五箇山世界遺産の合掌造り集落として有名です。

しかし鉄砲は雑兵が使う武器であった為に高位の武士は初期において使わなかったみたいですが、時代が進むにつれて高位の武士も士筒(サムライヅツ)と言われる口径の大きめな火縄銃を使用しました。江戸時代以降は争いも無くなりましたので昔から高い精神性が重んじられた刀剣が専ら武士の表道具となりました。鉄砲の様な先進的な武器では無く、一時代下がった刀に高い精神性を求め続けたのは日本刀には霊力が宿るとした日本人らしい感性だと思います。刀剣と鉄砲は同じ様に鉄を使った武器ですが、主君より拝領する品はあくまで刀剣で有り、敵を殺すだけの鉄砲では無かった事は日本刀が単なる武器で無く、持ち主を守る霊器で有り、神が宿る神器で有ったからだと思います。

鉄砲は江戸期に入っても徳川家御用鍛冶である近江國友鍛冶等によって製造されておりおりました。幕府統治の元で泰平の時代が継続する事によって生産も減りましたが國友鍛冶同様に全国で鉄砲の生産は続いていたとの事です。江戸後期になると有名な堺の鉄砲鍛冶であった井上家で10代目関右衛門寿次(ひさつぐ)が自らが御抱え鍛冶を務める伊予大洲藩をはじめ北は福島から南は鹿児島まで60藩に出入りする日本一の鉄砲鍛冶となりました。しかし西洋式の最新の銃が入るように成りますと西洋式の銃は銃身内部にライフリングが施されていた為に射程距離や命中精度が格段に優れておりました。其の為に日本の鉄砲生産は急速に廃れて行ってしまいました。