みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

蔵刀の紹介

今回は私の趣味である刀についての話です。錆びさせず貴重な文化財を後世に残す為に定期的に手入れを行います。手入れと言っても簡単な事で前回塗布した古い油を拭い、新しい油を薄く満遍なく塗るだけなのです。油を拭った後に心ゆくまで観賞致します。

しかし此れが中途半端な心持ちでは中々始める事が出来ず『よし!』と心気を整えてから鞘を払なければ逆に刀に気圧されてしまうのです。刀は刀鍛冶が赤熱の鉄塊に槌を魂魄と共に幾千回打ち下ろし、折り返し鍛錬で鉄に含まれる炭素量の調節と不純物の除却を行い、其々の習得した伝法による造り込み過程の後に火造りと焼き入れを行った神技とも言える作品であります。その後に研師が気の遠くなる様な工程を経て刀身を研ぎ上げ、白金師が刀一本毎に合わせて制作したハバキを付け、鞘師が良質な朴の木から削り出した白鞘(休め鞘)に収まっている言わば『眠れる荒魂』が刀なのです。刀と装具の事を知れば知る程に中途半端な気持ちでは立ち向かえないのです。刀屋さんの店主から以前聞いた話ですが商売なので日に何本も手入れをするが『まるで魂を揺さぶられる様に疲れる』と話されていたのを記憶しております。今日は日々報道されている都内新型コロナウイルス感染者数も連日減っており、何となく気分が明るくなりましたので刀の手入れを行なう段取りと成りました。本日蔵刀の中からご紹介する一口は私の個人的危機を何度も何度も救ってくれた正に守り刀です。重要な判断の前や次への気力を漲らせる時に此の刀を鑑賞し気持ちを整えるのです。感覚ですので上手に表現出来ませんが、神社に参詣した時に感じる清浄な感覚とよく似ております。

薩州住平正良 天明三年二月日
刃長 二尺三寸三分(70.3cm) 反り1.45cm
本造り 庵棟 湾れに互の目 飛び焼きや湯走りかかり匂い足入る 板目に杢目が混じり詰んで刃沸地沸共微塵につき地景入る
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薩摩新々刀を代表する刀工で位列は新々刀上々作です。薩摩刀は波平行安から始まる波平派が大和伝の伝法を墨守し継続しておりましたが江戸時代となって丸田正房を招いた事で当時流行の相州伝が薩摩に伝わりました。話は江戸に戻りますが、暴れん坊将軍で有名な徳川吉宗が将軍職に就いたときに、其れ迄の文治政治で衰退していた武芸を奨励し、全国の大名の治める領地内において、優れた刀鍛冶を報告させ、合計277名の刀工の中から特に優れた4名を選びました。その内なんと薩摩の刀工が2人も選出されました。薩摩の刀鍛冶である主水正正清と一平安代が全国で選ばれた刀工の中から技量秀でていると選ばれたのです。(この話はかなり長くなるので詳細は省きます) それ以後も薩摩国は奥元平や伯耆守正幸などの名工を輩出致しました。伯耆守正幸の改名前が正良です。正幸は65歳の時に伯耆守を受領致します。その時正幸は絵師に寿像を描かせております。私の佩刀は正幸が51歳の時に打ち上げた刀です。 

当時の絵師が残した伯耆守正幸の姿
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湾れに互の目は正良得意の刃文です
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刃沸が地まで溢れている薩摩新々刀の特徴が出ております。地鉄は本工にしては大人しく清涼に感じます。
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中心に切られている銘です。
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中心差し裏に切られている年紀です。
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かなり前に購入した『図録 薩摩の刀屋と鍔』という本です、相当な回数読み込みました。
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手入れセット一式です。
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天明年間はそりゃ酷い時代だったと想像出来ます。天明2年から8年にかけて有名な天明の大飢饉に日本は見舞われました。文献を読むと凄惨な状況であったと想像出来ます。関東で飢饉に拍車をかけたのが天明3年7月に起こった浅間山大噴火です。北側の斜面を下った火砕流は鎌原村を始め近隣の村を次々と飲み込みました。山津波となり岩や泥を巻き込んだ火砕流利根川まで到達し、土石流となり遥か200kmの工程を流れ降って海まで到達しました。その後川底の上がった利根川は洪水が頻繁に起き、田畑を荒らしたと伝わります。遠く薩摩においても浅間山噴火とは調節関わらないまでも此の後の飢饉の被害は想像を絶する状態であったと思われます。此の刀は天明三年二月日と有るので二月より前に打たれたと思います。国中が飢饉で喘いでいる中で此の刀を注文した薩摩隼人はどの様な生活を送っていたのか想像も出来ませんが、此の一刀を床の間に置いて家運の向上と一族の安寧を祈った事だと思われます。天明3年は西暦1783年であり、今から237年前になる訳ですが歴史を具現化した文化財とも言えるので大事に手入れを繰り返し後世に伝えて行くつもりです。私は此の刀を鑑賞する事で幾度も助けられていると感じており、敬意を込めてブログに於いての通称とさせて頂いている次第です。