海図内にある石碑
海津城の門
武田軍軍師である山本勘助が北信に住していた村上氏の一族である清野氏の館を分捕って築城致しました。その後は田丸氏、森氏、真田氏と遍歴が有ります。築城に通じた山本勘助が縄張りしただけに甲州流築城術の特徴である丸馬出し、三日月掘りが有ります。周辺には地元の土豪であった東条氏の居城であった尼飾城、村上義清公の一族である清野氏が居城とした鞍骨城などか有ります。因みに尼飾城は尼飾山の上に築城された堅固な山城で武田家滅亡後は上杉方の城と成り、時代を経て関ヶ原の合戦に勝利した徳川から上杉景勝公が会津への転封を言い渡された時に破却されたと伝わります。此の山の麓にその後に此の地を守る任を与えられた武門の誉れの一族が居ります。現在でも尼飾城に登るのは此の家の敷地を通るしか有りません。名前は伏せますが私の刎頚の友の実家です。近年はお城フリークが急増し見学に来る人が多いと聞いております。真田家に攻められ越後へ逃れた東条兵の中には討ち死にした者も多く居た事でしょうから、勇者の御霊も賑やかで喜んでいる事でしょう。
此処に上杉謙信公が本陣を構えたのです。(実際は分かりませんが、本当の上杉本陣が造られた場所は更に奥にある斎場山であると地元では伝わってます)とても感慨深いもモノが有ります。正に眼下を一望出来ます。それにしで低山とは言え、此の急峻な山を良くぞ登り降りしたと思います。 此処には上杉謙信公の槍尻之泉という霊水があって毘沙門天の化身てある謙信公が槍尻で突いたら泉が湧いたと言われております。古より万病に効くと言われており、現在でも湧き出ております。(現在は飲用不可)
松代焼 松井窯
江戸時代には寺尾焼や代官町焼きなど町名の付いた窯が数カ所あったようです。藩の御用窯として陶器を焼いてましたが大正末期から明治初期に全て廃窯となり、再び昭和47年に復興されました。松代焼は後に付けられた総称です。青味が効いた焼肌に緑色の釉薬が流れ、悠久の千曲川の流れに存在する深淵を思わせる様な何とも言えない素敵な色合いです。此処で今晩使用するぐい呑を皆で購入致しました。
松代焼のぐい呑
故郷の更科について
宿へ向かう途中に姨捨山方面に夜景を見に参りました。
夜景ですが写真が下手糞ですいません
『更科』と言う地名は皆様も一度は聞き覚えが有ると思います。今から遡る事千年ほど前に編集された『古今和歌集』に始めて『さらしな』という名前が出てまいります。更科の月は千年以上前である平安時代から都の公家達の憧れの対象でした。その後の古典に『更科日記』か存在するのもその為です。更科日記は菅原道真公の玄孫(やしゃまご)である菅原孝標の娘として生まれた菅原孝標女(当時の女の人は名前を文献に残していない)と言う都人が記した回想録ですが、実際に菅原孝標女が更科を訪れた訳ではなく、父親が赴任していた上総から京の都に帰る道すがらを長期にわたり記したものです。ではなぜ更科か?というと作中に出てくる彼女の心を読んだ歌が古今和歌集の更科と姨捨の月を読んだ歌の本歌取りをしている事に由来するという話です。それだけ当時から更科と姨捨の月は有名で有り、ロマンチックな場所だったとう事だと考えられます。姨捨の月と言えば、田毎の月と言いまして、姨捨の棚田に水を張る時期に各田んぼの水面に其々月が映し出されるという幻想的な風景の事です。現在は長楽寺というお寺があり観音堂は一見の価値があります。長楽寺についてですが、元々は千曲川市八幡にある武水分神社八幡宮が廃仏毀釈前の武水分神社八幡宮寺(最後に寺が付いてました)で有った時の別院であったとの事です。廃仏毀釈後に分離され長楽寺と成ったと伝えられてます。
長楽寺観音堂を下から見た図
姨捨の月を心から愛した俳人に有名な松尾芭蕉がおりす。芭蕉が江戸中期の俳諧紀行文である『更科紀行』編纂の旅で更科地域を訪れた時に読んだ有名な句があるのでご紹介致します。『俤や姨ひとりなく月の夜』 (おもかげや うばひとりなく つきのよる) 芭蕉は少し前に他界した亡き母を思い姨捨の月を感慨深く見つめた事だと思います。切ない中に心静かな芭蕉気持ち伝わる名句ですね。今でも此の更科の地で俳句大会が行われており、往時を偲ばせます。
姨捨山の地名についてですが様々な説があります。私が一番面白いと思ったのが次の説です。姨捨スマートインターから長野道に乗って諏訪方面に向かうと次のインターに麻績(オミ)と言う場所があります。読んで字の如く麻の産地で、大和王権が高麗から招いた職人集団により朝を紡ぐ技術を伝えたとの事です。麻を栽培し収穫する時には要らない部分が出ます。此のゴミの事を『オハ』と表現していたとの事です。『オハ』を捨てていたのでオハステと成ったという説です。実際に麻績村が残っているだけに説得力が有りますね。姨捨を含む冠着山の古称は小長谷山と書きオハツセヤマと読み、姨捨山は冠着山の一部なので、この読み方から来たという説もありますが実際の処は分かりませんね。それとお婆さんを捨てていたと言う俗説についてですが、私の知る限りは前記した文献や、その後に出た数々の文献の中で、老人を捨てるなどの風習が存在したという事実は何処を探しても有りません。また千年以上継続する月の名所だけに冠着山の頂上には月の神様で夜を司る月読命がお祀りされて居ります。全ての事は理由があるのですね!
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