みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国探索の旅 その2

戸隠山を後にして、木漏れ日の中を通り過ぎると長野市を一望できる処まで降りて参りました。余りにも凄すぎるパワースポットなので此処まで皆無口でしたよ。

気分を神代から戦国時代に一気に変えます。今度は戦国最強の名将二人が覇権を争った川中島古戦場に向かいます。川中島とは甲武信岳から流れ出す鮮烈な清水が各支流を合わせ千回曲がって流れ下る千曲川と、槍ヶ岳から上高地を経由し奈良井川を合わせ長大な大河となる犀川が合流する手前にある三角地帯です。とても肥沃な土地で常に川が良い土を運びます。

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我家の三太刀七太刀の図


戦国時代の川中島はとても重要な場所であり、肥沃な土壌から産出されるお米の生産量は当時の越後一國を超えていたと言われております。麦の栽培も行われるなど、まるで食料庫並みの重要な場所でした。更に千曲川犀川が合流した信濃の川河口からは日本海より遡上する鮭やサクラマスなどの魚族資源も豊富に取れました。祖父から聞いた話では飯山にダムが出来るまでは鮭が大量に遡ったのとこ事です。私が幼少の頃には各家の物置にサケ取り用の大網がまだ置かれていたのを記憶しております。更に川中島一帯は当時から交通の要衝で、戦略上の価値は両国に取って計り知れない場所であった事は間違いないと思います。

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川中島古戦場八幡社


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三太刀七太刀の像


有名な川中島の戦いは合計で5回行われたと言われてます。(回数は諸説有ります)

第一回 1553年 布施の戦い

第二回 1555年 犀川の戦い

第三回 1557年 上野原の戦い

第四回 1561年 八幡原の戦い(一番の激戦)

第五回 1564年 塩崎の退陣

武田信玄公は三方ヶ原で徳川家康公をウンチを漏らす迄コッテンスッバンにやっつけました。上杉謙信公は手取川の戦いで織田軍(鬼柴田を大将として滝川、丹羽、羽柴、佐々、前田)最強軍団合計4万を半分以下の軍勢で立ち直れない程ボッコボコに負かしました。ただ惜しむらくかな両雄は志半ばで没してしまいました。川中島の地は戦国史上最強の二将が絶頂の時に激突し、未曾有の戦死者を出した大合戦が行われた場所です。長野に住んでいた私は、よく分かる事ですが、新潟県と長野県の県境を越すと、新潟はお米どころと言うのがよく理解出来ます。昔は高速が無かったので県道を通り野尻湖を越してしばらく進むと一面田んぼと成り、長閑な田園風景が広がります。一方甲斐は山国なのでお米を耕作できる場所が限られ、他国を侵略するしか国が栄える方法は無かったのでしょう。『義の上杉』と純粋に『甲斐に栄えあれ』と国を富ませようとした武田の思惑がこの地で激突したのです。武田信玄公を上田原の戦い(重臣板垣信方甘利虎泰など有力武将が討死)と砥石城の戦い(有名な砥石崩れ)において二度撃退した北信の雄である葛尾城主村上義清公が真田昌幸の巧みな調略によって敗れ、越後に逃れました。越後に近い北信を武田方に取られた上杉謙信はやがて来るであろう武田方の越後進出を憂慮していた事も有るでしょうし、自分を頼って落ち延びた者へ義を通す事、足利将軍家から守護の証でも有る白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許可された関東管領として、他国侵略を繰り返す武田信玄公への討伐の意味合いも有ったと思われます。両将の出自は何方も名門中の名門です。上杉謙信公が上杉の名跡を継ぐ前は長尾景虎と言い、長尾家は桓武平氏である鎌倉氏の一族です。武田信玄公は戦神(いくさがみ)と称された八幡太郎義家公の弟である新羅三郎義光公から続く甲斐源氏嫡流です。上杉家自体は公家筆頭格の藤原北家の出自である藤原重房が上杉重房と名のり、鎌倉幕府第6代将軍として招かれた宗尊親王と共に鎌倉へ下向した事から始まります。そして重房の孫である清子(せいし)が足利尊氏、直義を生んだ事で世に出た稀有の名族です。

第四時の川中島合戦を簡単に説明致しますと、進軍して来た武田軍2万は前線基地である海津城にまず入りました。此れに対して上杉謙信公率いる越軍1万3千は敢えて敵地深く入り、海津城躑躅ヶ崎の道を寸断した形で妻女山(本当は此の奥に有る斎場山であると地元では伝わってます)に陣を構えました。これに対して武田方は茶臼山に布陣して上杉方の退路を経ちました。暫くは睨み合いが続きます。両軍共動かない状況で武田軍は再び海津城に戻りました。やがて武田軍の軍師山本勘助による啄木鳥戦法が軍議で採用されました。内容は武田軍別動隊が夜半に妻女山の上杉軍に夜襲をかけ、動揺した上杉軍は千曲川を渡り八幡原に降りてまいります。其処に武田本軍が待ち構え挟撃する作戦です。然し、いざ実行の前の夜に妻女山に居た上杉謙信公に此の動きは見破られてました。軍隊が動く場合はご飯を沢山炊いて数日間の行動食と致しますが、夜襲前夜に海津城から立ち上る炊煙の数が常ではない事を見破られていたのです。上杉軍は夜陰に紛れ山を降り、雨の宮の渡しを通り八幡原に布陣致しました。川中島特有の濃い霧が辺りを覆い隠し始めておりました。そうとは知らず武田軍別動隊1万2千は灯りを灯さず、険しい道筋を妻女山上杉本陣に向かって進軍致しました。朝方となって先に待ち構えていた武田軍本軍8千は深い霧が晴れた八幡原に居ないはずの上杉軍1万3千が布陣しており、恐らくかなり動揺致した事と思います。此処で上杉軍の法螺貝が鳴り、勇猛な越軍が怒涛の様に攻めてまいりました。こんな展開でも流石は武田軍で鶴翼の陣形に乱れは無かったと言われております。対する上杉軍は攻め重視である車懸かりの陣形で攻めてまいりました。此の猛攻で信玄公の弟の武田典厩信繁、信繁公の養育係で百千錬磨の両角豊後守、軍師山本勘助など有力武将が討ち死にしてしまいました。此処までは上杉軍が優勢と思えた展開でしたが、武田軍の妻女山別動隊1万2千が山から下山し八幡原に駆けつけてまいりました。此処からは一気に武田軍の巻き返しが優勢となり、上杉軍を強烈に押し返します。


結局は善光寺まで越軍を後退させました。此の戦いは結局引き分けと成り、此の激戦でも両雄の決着は付きませんでした。此処に第四時川中島合戦八幡原の戦いは終結致しました。( すいません、簡単な説明で長文になってしまいました)



以前『上杉家の名刀と三十五腰』と言う愛刀家垂涎の展示会が埼玉で開催され、恥ずかしながら二回足を運びました。名刀中の名刀ばかりでしたが一番印象に残ったのは武田信玄公から上杉謙信公に『塩止め』を行わなかった御礼として送られたと伝承が残る備前国一文字派の太刀で銘は弘と切られた一口です。これは『塩止め』の他に以下の事に対する返礼とも言われております。海津城城代であった武田四天王の一人の高坂弾正川中島の合戦後で死屍累々とした惨状を憂い、敵味方の区別なく戦死者の遺体を丁重に埋葬致しました。驚くべき事に敵方の武具に至るまで洗い清めて敵方に引渡しました。此の事を知った上杉謙信高坂弾正を万座の中で褒めちぎったそうです。

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高坂弾正による首塚


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武田と上杉の武将配置図


越後より甲斐にに塩を送った事(実際には送ったのではなく、塩止めをしなかっただけという説もある)は、義に厚い上杉謙信が、高坂弾正が行った事に対する返礼の意味も有ったと伝えられております。

備前国一文字派鎌倉時代備前国古備前派の次に出現した刀工群です。此の太刀は謙信公から景勝公に継承され、景勝公御手撰三五腰にも数えられており、現在は国の重要文化財となっております。甲斐は山国であり、隣国の駿河と相模が塩止めすると領民は苦しみ国は絶えます。上杉謙信は武田家は敵だが甲斐の領民は関係なく、無慈悲な事はしないと塩を止めなかったとの話です。流石に毘沙門天の化身の上杉謙信ですね!因みに此の事は452年前の永禄10(1567)年頃の話です。私が展示会で慧眼した此の一文字の太刀はその時の歴史を具現化しております。武家に伝わる宝物の面白い処は、此の様に歴史的事実が現在実在しているモノに秘められている事てすね。 つまり此の場合だと此の太刀自体が歴史そのものなのです!



近くには信玄公の弟である武田典厩信繁公の御霊が眠る典厩寺、典厩信繁公の養育係で歴戦の強者である諸角豊後守の墓、軍師山本勘助の墓など川中島の露と消えた勇将のお墓が点在しております。

信玄公の名言で『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』というものがあります。私は此の言葉が大好きで行動の規範にしております。どんなに堅固な城を持っても人の心が離れたら意味がない、人を大事にして情を持って接っし確り育成すれば、人の力はどんな堅固な城にも勝る.....との意味です。数百年前の甲斐国主の言葉ですが現在にも十分過ぎるほど通じ、眩く光る言葉だと考えます。


ごめんなさい、また次に続きます!