みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

買い物 懐剣

刀剣には様々な種別の中で懐剣というものが御座います。 別名守り刀とも懐刀(フトコロカタナ)とも申しまして、咄嗟の出来事から自身の身を守ったり、仕える主人を守ったり、辱めを受ける前に自刃用にしたりなど武家の女性が帯に挿しておりました。男性でも懐刀(フトコロカタナ)を所持するケースが多々有ったと書籍などで最近知りました。様々な書籍を読むと、武器としての一面より『御守り』としての帯びる事の意味が強かった様な感じが致します。懐剣は現在でも結婚式において新婦が白無垢着用時に必ず帯に挿します(自前で用意しない限りオモチャ)。私は祖母や母親の守り刀を見てますので我が2人の娘にも.....と常より考えておりました。後々此のブログでもご披露致しますが、上の娘の守り刀は既に有ります。仮に結婚式という事に成ると、其れは門出でもあるので一度新作刀として注文しようと考えました。そこで全日本刀匠会という組織に連絡し、好きな作風を説明し得意としている刀工を教えて頂きたい旨をお願いした処、受付の女性の方が親切に対応頂き、今は詳しい方が席を空けているので、後程折り返し頂けるとの事で待っておりましたが梨の礫でしたので諦めました。其処で2年ほど予算と相談しながら気に入った物が世に出てくるのを待っておりました。そんな中で今回ご縁のございました物は現代刀であります。作者は大正から昭和初期の代表的な刀工である室蘭の堀井俊秀刀匠が鍛えた5寸一分弱の短刀です。堀井刀匠は堀井胤明氏の門人となり、その腕と人柄を評価され堀井家に養子に入り三代目と成りました。愛刀家には三笠刀で知られる当時を代表する名工です。

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全体像


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銘 (改名する前の銘です)


三笠刀の由来は東郷平八郎元帥の指揮の下で当時世界最強バルチック艦隊日本海海戦に於いて見事撃破した連合艦隊の旗艦で三笠という戦艦が御座います。連合艦隊日本海海戦の少し前にロシア旅順艦隊と戦いました。此の旅順艦隊を撃破しないとバルチック艦隊と旅順艦隊で日本連合艦隊は挟み撃ちにされ、日本は負けるという瀬戸際だったのです。此の旅順艦隊との海戦を黄海海戦と言います。此の戦いで旗艦三笠は後部の主砲の一門を敵砲弾で破壊されました。その破壊された砲の残鉄を利用し堀井刀匠が玉鋼と混ぜて鍛え上げ、当時の水交社を通して世に出した刀剣類が三笠刀です。『皇国興廃在此一戦』の彫物が施された物も御座います。刀剣は勿論武器ですが古から高い精神性が同時に備わり、武器としての有用性と同じくらいか、或いは其れ以上に高い精神性を尊重されております。此の短刀は列位が上の新刀や古刀における著名刀工と比べたら美術的価値は格段に低いですが堀井刀匠の『人としての高潔さ』が強く感じられました。今回の短刀は三笠刀ではありませんが、間違いなく堀井俊秀刀匠(茎に切られている銘は前銘の秀明です)が鍛えた物と考えます。

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帽子


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保存刀剣鑑定書

専門用語だと次の様になります。平造り 庵棟 小板目肌詰んで柾に流れる 刃文は直刃 帽子は丸く品良く返る 刃縁に小沸付いて匂い口明るく冴える 表に腰樋を脛巾下まで掻き流し裏に護摩箸を彫る 茎は生 化粧に筋違い鑢で栗尻......此の事を娘に教えるのに時間がかかりそうです。

此の寸なら小柄な娘達の帯に挿してもサイズ的に問題ないと思います。その時が来るまで手入れを繰り返し、大事に保管してまいります。何れ拵えを制作しようと考えております。どの様な様式にするか? 金具類を探して小柄を付けるか? 出鮫の匕首拵えにするか? 楽しみが増えました。

正直に言うと此の様な形では無くて現金の方が娘は喜ぶに決まってますが、昔から続いた習慣ですので私が当主の内は伝統を引き継ごうと思います。愚痴になりますが当家では此の様な事も私で最後かもしれません。

台風19号

尊い命を失った方々のご冥福を心からお祈りすると共に被災者の皆様のご健康回復と一日も早い復興をお祈り致します。こうしている間も愛する郷里の皆様や他県の被災者の皆様が避難所で不自由な生活をおくる環境の中、心配な時間を過ごしていると思うと胸が痛みます。

10月11日から12日の台風19号は全く前代未聞の威力で関東甲信越から北陸を襲いました。 八王子に近い町田市に住んでる私も会社から戻ってから犬小屋など家の周りの物を全て玄関に仕舞いました。娘2人に着替えと大事なものを纏めて1つのバックに入れてリビングのテーブルの上に置くように指示して、ご飯を沢山炊いてオニギリを大量に作りました。お水とトイレットペーパーも押し込んで準備致しました。雨と風の中で外に何となく違和感を感じカッパを着て出てみると家の前の道路に泥と石ころが流れてました。なんだ?と思って家の前の坂を登ってみると家の上で土砂崩れが起きてました。

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夜中の崩落でした。


コレはエライ事だと娘2人を起こして直ぐに車に乗れる様にしておく事を指示致しました。外に消防の方が土砂を片づけておりましたので、話を聞いてみますと、水道管が壊れて土砂を巻き込んで大量の水が流れたが、今は水道管を止めたので雨の降る量しか流れてないとの事。その後雨足と狂風が継続してましたが、大きなサイレンの音がしたので再度外に出てみると上の現場が大きく崩落したと消防の方から伺いました。重機が上で動いているのは分かりましたが、現場がどうなったかは分かりません。雨と風が止んだので少し安心してソファーでうたた寝をして気が付いたら朝方でした。気になって行ってみると公民館上に通る道路がガードレール毎崩落しておりました。余りの出来事に唖然としておりましたが、作業を続けていた方々が泥だらけで必死の作業をしていおりましたので寝てしまった私が恥ずかしくなりました。地域の災害をこれ以上広げない為に頑張って頂いた皆様に心から御礼申し上げました。

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左側は水楢や小楢があり大丈夫でした。

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木の生えてない場所は無残な結果です。


私が産湯をつかった千曲川でも堤防が穂保地区で決壊し、濁流が住宅街に流れ込んでる映像がテレビで見ました。腸が口から出そうなくらい辛い映像です。穂保と言えば有名なアップルラインという通りがありますが、左右は林檎畑が存在し、千曲川は其の横の辺りです。どうか高い場所に逃れ無事であって欲しいと心から願いました。10月第1週に旅行に行った松城地域も冠水したとの事です。地域の皆様の心痛が伝わり、大自然に対して人間の無力を思い知らされております。だから往古の人々は大自然を神として崇めて来たのです。

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画像にある白い建物は松城ロイヤルホテルです。

私達渓流釣り師は他の人々より自然を理解している事が多いので、何か出来る事はないか?と自問自答しております。今後は急速に進む温暖化で今回よりも壊滅的な自然災害が来ると思います。今後は普段からの防災意識が必要不可欠ですね。

信濃国探索の旅 オマケ

誰が床几に座る信玄公を救ったのか?

三太刀七太刀の像についてですが、『甲陽軍鑑』と言う書物に出ている内容を基に此の像は造られております。実際にこれだけ大軍の将が一騎打ちとは考え難いのですが『甲陽軍鑑』は後世の規範と成った有名過ぎる程に有名なな軍学書であります。

甲陽軍鑑』によれば第4次川中島合戦において上杉謙信公と武田信玄公が一騎打ちと成り、白布で頭を包み月毛の馬にまたがった騎馬武者が床机にに座っていた信玄公を切りつけ、この斬撃を信玄公は軍配で受けた。横目衆である『原大隅守」は槍で馬を突いて危機を救ったと有ります。原大隅守は原虎吉と言い信玄公より感状を18枚も貰ってる大忠臣です。武功により信玄公より大隅守の官職を与えられております。横目衆とは家臣全体を監視したり、他国の事情を偵察したりする役目です。それだけ信玄公に信頼されていたと言う事ですね。さて此の原大隅守虎吉の執念の石なる大石が古戦場に存在しております。

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信玄公を守るために槍を振るった内容が書かれてます。


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謙信公をうち取れなくて悔し紛れに突き通した大岩です。


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一番右側にいる武将が原大隅守です。


真贋は別として『一念岩をも通す』と諺に御座いますが、正に具現化された歴史遺物です。岩の向こう側の景色が見えますね!此の穴の形状だと大隅守が振るった槍の形状は平三角槍でしょうか。


武田家の武将は個性的な人物が多く其々が独立的な意識が強かったと聞き及んでおります。信玄公のお骨折りは如何程のものか?と想像致します。戦国最強軍団がその集大成を迎えたのは三方ヶ原合戦であると大方の史家が伝えております。武将一人ひとりが知れば知るほど面白い内容ですね!

武田家には原性を名乗る武将がもう2人存在しております。その内の1人は鬼美濃こと原美濃守虎胤です。出自は桓武平氏である千葉氏の一族で父親と2人で武田信虎を頼って甲斐に入国し召し抱えられた経緯を持ちます。激戦の中で敵将を討ち取るなどの武功を積み重ねて美濃守の官職を与えられるなど大活躍致しました。合戦時においては敵方に鬼美濃の名で知れ渡っておりました。然し一度甲州法度に背き追放され、北条氏康を頼った事も有りました。しばらくして信玄公よりの復帰要請を受け甲州に戻った経緯も有るなど破天荒な一面も持ち合わせております。敵に恐れられた鬼美濃ですが、反面情に厚く、北条方に居た時の話で、虎胤が敵方の小荷台隊を襲撃し戦功を立てました。その襲撃で重傷を負って動けない敵兵がおりました。その者に対して虎胤は補給路を断つという本来の目的が叶った為に無駄な殺生は行わず、立ち去る事を強要したところ、相手は傷が深くて歩けないとの事でした。其処で虎胤は重傷の敵を担い、敵陣まで送り届け『また戦場で合間見えよう』と言い放ち自陣まで戻ったとの事です。此の事は敵方はおろか味方まで賞賛したとの逸話が残ってます。なんて豪胆な、なんて男らしい、なんと武人らしい、なんて華の有る話でしょうか! 私は此の武将が大好きです。

もう1人の原さんは長篠の戦いまで生き残った原昌胤です。美濃土岐氏の流れを組む武将で陣馬奉行を務めて功を上げ隼人佐の官位を拝領しております。信玄公と勝頼公に仕え長篠で散った英傑です。私の知る処では高名な原性を名乗る武田家の武将は前述の三人です。

原虎吉の横目付、原虎胤足軽大将、原昌胤の戦奉行。自軍の内情と他国の情勢の把握、一番に敵と戦う荒くれ傭兵部隊の統率、戦さ場での巧みな戦術的人員配置と退路の確保などは考えてみたら此の三武将でかなりの仕事をしていた事が窺い知れます。余計な内容だと思いますが好きな内容だけに綴ってみました。

信濃国探索の旅 その4

本日の宿に着きました。近隣には亀の湯や鶴の湯など大好きな日帰り温泉が有りますが、実家から近いだけにこの辺の温泉宿には泊まった事がほぼ無いのです。今回は三つの家の守り刀を其々拵えに入れて持参致しました。刀掛けに掛けて日頃お守り頂いている御礼の意味も込めてお神酒を捧げました。

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刀袋に入れた短刀と脇差


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拵えを装着した三口


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手入れ前の油を拭った刀身


お風呂も内から温まり疲れを癒してくれます。夕食はビールとそ焼酎で乾杯です。お料理の内容も濃く美味しく頂き、後はゴロンとして直ぐに夢の中でした。

翌朝は金融マンの性分なのか?皆早起きです。早めに目が覚めたので朝風呂を頂きましたが朝の温泉は本当に気持ちが良いものですね。やがて皆が起きて其々朝風呂に入り、少ししたら朝ごはんの時間となりました。朝ご飯に豆腐の上に醤油豆という郷土料理を乗せた小皿が出てまいりました。黒豆麹で作られる醤油豆は信州独特です。今回久しぶりに醤油豆を食べましたが懐かしい味でした。

着替を済ませ、床の間の刀掛けに掛けてあった短刀に一礼して刀袋に仕舞い、房紐を結んで桐箱に収めます。そうこうしている内に皆の準備が整いましたので本日の旅に出発です。


今日の最初は科野における古墳時代の国王に逢いにまいります。目指す場所は森将軍塚古墳です。『森』と言うのは地名です。色々説明するより、此処だけは百聞は一見にしかずです。正直あまりのスケールに圧倒されてしまいます。山の上にある為、受付で往復の切符を購入し送迎車で山の上まで車に乗せてもらいます。

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墳墓を少し上から見た景色です


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古墳上から見た科野の風景


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圧倒的な大きさです


此処だけでなく、近くには沢山の古墳が点在致します。資料館には沢山の出土品も展示されており、ヤマト王権との繋がりを示す三角縁神獣鏡も御座いました。墳墓の建設には当時高価な鉄器を使用し岩を割り、玉石などは千曲川から運んだと説明書きにございましたが、人口の少ない古墳時代に此れだけの墳墓を作るのは高度な技術と途方も無い人の手が必要だったと偲ばれます。墳墓の主人につきましては、今の処はどの様な人物だったかは分からないみたいですが間違いなく科野を治めた人物だと思います。

すぐ近くには縄文の竪穴式住居の再現された集落が建設されており、当日は子供達が大人同伴で縄文式土器を焼いておりました。子供の頃から地域の歴史に興味を持てる様な行事は素晴らしいですね。前記致しましたが私は父親の話で郷土の歴史に興味を持ちました。その後に大学入学で東京に出てから郷土愛が更に強まりました。

趣味の刀剣は時代毎の姿と鉄味などで制作年代の見当を付けますが、例えば応永備前(約600年前の応永という年号に備前国で制作された刀剣類)なら、応永には日本の中で何があったかを大体知らなければ刀の背景が分かりませんので調べる事となります。その過程で当然郷里での出来事も重大な関心事項となります。好きな事なので致し方ないのですが、渓流釣りオフシーズンでも時間がいくら有っても足りません。

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森将軍塚古墳資料館


坂城町 鉄の展示館

最後の訪問地は坂城町が生んだ天才刀匠の人間国宝 故 宮入昭平刀匠生誕の地に創設された『鉄の展示館』です。今回は特別展、高山一之先生の『拵え.刀装の美』が開催されております。私の祖父は刀剣商で、母方の叔父も刀剣商なので幼少より刀剣には親しんでまいりました。拵えや刀装具は全てに注文主の願いが込められております。刀身彫刻も含め、全ての刀装具には願いを込めた意匠に意味が有ると教えられました。これをじっくり見て理解するのが楽しみです。最も理解できるのは極端に少ないので現在も勉強中です。頭、縁、鍔などに一連の意匠を凝らした一作拵えは超絶技巧で掘られており、抜いたら最後の刀の拵えに贅沢に使用され、鞘と柄との絶妙なバランスで全体的に調和しております。現代作に於いても掟に忠実な名作の数々は眼福の極みでした。肝心の鞘の塗りに関しても呂塗り、潤み塗り、複雑な変わり塗り、梨地塗り、蒔絵、沈金など気の遠くなる様な手間が垣間見れました。鞘作りの各工程の説明も写真付きで表示されており、とても勉強に成りました。中でも出鮫の匕首拵えで目貫が蝙蝠、鞘には大きな御月様と闇夜に飛翔する蝙蝠の蒔絵を銀粉で施した名品には感動して暫く魅入って仕舞いました。真剣に観たら丸一日かかりますので時間的に諦め、図録を購入致しました。

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展示会の図録です


これで全日程が終了しましたので帰路に着きました。今回はほんの一部ですが、信州にはまだまだ数多くの名所が御座いますので今後も紹介してまいります。

信濃国探索の旅 その3

海津城(松代城)

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海図内にある石碑


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海津城の門


武田軍軍師である山本勘助が北信に住していた村上氏の一族である清野氏の館を分捕って築城致しました。その後は田丸氏、森氏、真田氏と遍歴が有ります。築城に通じた山本勘助が縄張りしただけに甲州流築城術の特徴である丸馬出し、三日月掘りが有ります。周辺には地元の土豪であった東条氏の居城であった尼飾城、村上義清公の一族である清野氏が居城とした鞍骨城などか有ります。因みに尼飾城は尼飾山の上に築城された堅固な山城で武田家滅亡後は上杉方の城と成り、時代を経て関ヶ原の合戦に勝利した徳川から上杉景勝公が会津への転封を言い渡された時に破却されたと伝わります。此の山の麓にその後に此の地を守る任を与えられた武門の誉れの一族が居ります。現在でも尼飾城に登るのは此の家の敷地を通るしか有りません。名前は伏せますが私の刎頚の友の実家です。近年はお城フリークが急増し見学に来る人が多いと聞いております。真田家に攻められ越後へ逃れた東条兵の中には討ち死にした者も多く居た事でしょうから、勇者の御霊も賑やかで喜んでいる事でしょう。

女山
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女山からの眺め


此処に上杉謙信公が本陣を構えたのです。(実際は分かりませんが、本当の上杉本陣が造られた場所は更に奥にある斎場山であると地元では伝わってます)とても感慨深いもモノが有ります。正に眼下を一望出来ます。それにしで低山とは言え、此の急峻な山を良くぞ登り降りしたと思います。 此処には上杉謙信公の槍尻之泉という霊水があって毘沙門天の化身てある謙信公が槍尻で突いたら泉が湧いたと言われております。古より万病に効くと言われており、現在でも湧き出ております。(現在は飲用不可)

松代焼 松井窯

江戸時代には寺尾焼や代官町焼きなど町名の付いた窯が数カ所あったようです。藩の御用窯として陶器を焼いてましたが大正末期から明治初期に全て廃窯となり、再び昭和47年に復興されました。松代焼は後に付けられた総称です。青味が効いた焼肌に緑色の釉薬が流れ、悠久の千曲川の流れに存在する深淵を思わせる様な何とも言えない素敵な色合いです。此処で今晩使用するぐい呑を皆で購入致しました。

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松代焼のぐい呑


故郷の更科について

宿へ向かう途中に姨捨山方面に夜景を見に参りました。

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夜景ですが写真が下手糞ですいません



『更科』と言う地名は皆様も一度は聞き覚えが有ると思います。今から遡る事千年ほど前に編集された『古今和歌集』に始めて『さらしな』という名前が出てまいります。更科の月は千年以上前である平安時代から都の公家達の憧れの対象でした。その後の古典に『更科日記』か存在するのもその為です。更科日記は菅原道真公の玄孫(やしゃまご)である菅原孝標の娘として生まれた菅原孝標女(当時の女の人は名前を文献に残していない)と言う都人が記した回想録ですが、実際に菅原孝標女が更科を訪れた訳ではなく、父親が赴任していた上総から京の都に帰る道すがらを長期にわたり記したものです。ではなぜ更科か?というと作中に出てくる彼女の心を読んだ歌が古今和歌集の更科と姨捨の月を読んだ歌の本歌取りをしている事に由来するという話です。それだけ当時から更科と姨捨の月は有名で有り、ロマンチックな場所だったとう事だと考えられます。姨捨の月と言えば、田毎の月と言いまして、姨捨の棚田に水を張る時期に各田んぼの水面に其々月が映し出されるという幻想的な風景の事です。現在は長楽寺というお寺があり観音堂は一見の価値があります。長楽寺についてですが、元々は千曲川市八幡にある武水分神社八幡宮廃仏毀釈前の武水分神社八幡宮寺(最後に寺が付いてました)で有った時の別院であったとの事です。廃仏毀釈後に分離され長楽寺と成ったと伝えられてます。

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長楽寺観音堂を下から見た図



姨捨の月を心から愛した俳人に有名な松尾芭蕉がおりす。芭蕉が江戸中期の俳諧紀行文である『更科紀行』編纂の旅で更科地域を訪れた時に読んだ有名な句があるのでご紹介致します。『俤や姨ひとりなく月の夜』 (おもかげや うばひとりなく つきのよる) 芭蕉は少し前に他界した亡き母を思い姨捨の月を感慨深く見つめた事だと思います。切ない中に心静かな芭蕉気持ち伝わる名句ですね。今でも此の更科の地で俳句大会が行われており、往時を偲ばせます。

姨捨山の地名についてですが様々な説があります。私が一番面白いと思ったのが次の説です。姨捨スマートインターから長野道に乗って諏訪方面に向かうと次のインターに麻績(オミ)と言う場所があります。読んで字の如く麻の産地で、大和王権が高麗から招いた職人集団により朝を紡ぐ技術を伝えたとの事です。麻を栽培し収穫する時には要らない部分が出ます。此のゴミの事を『オハ』と表現していたとの事です。『オハ』を捨てていたのでオハステと成ったという説です。実際に麻績村が残っているだけに説得力が有りますね。姨捨を含む冠着山の古称は小長谷山と書きオハツセヤマと読み、姨捨山は冠着山の一部なので、この読み方から来たという説もありますが実際の処は分かりませんね。それとお婆さんを捨てていたと言う俗説についてですが、私の知る限りは前記した文献や、その後に出た数々の文献の中で、老人を捨てるなどの風習が存在したという事実は何処を探しても有りません。また千年以上継続する月の名所だけに冠着山の頂上には月の神様で夜を司る月読命がお祀りされて居ります。全ての事は理由があるのですね!



次に続きます

信濃国探索の旅 その2

戸隠山を後にして、木漏れ日の中を通り過ぎると長野市を一望できる処まで降りて参りました。余りにも凄すぎるパワースポットなので此処まで皆無口でしたよ。

気分を神代から戦国時代に一気に変えます。今度は戦国最強の名将二人が覇権を争った川中島古戦場に向かいます。川中島とは甲武信岳から流れ出す鮮烈な清水が各支流を合わせ千回曲がって流れ下る千曲川と、槍ヶ岳から上高地を経由し奈良井川を合わせ長大な大河となる犀川が合流する手前にある三角地帯です。とても肥沃な土地で常に川が良い土を運びます。

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我家の三太刀七太刀の図


戦国時代の川中島はとても重要な場所であり、肥沃な土壌から産出されるお米の生産量は当時の越後一國を超えていたと言われております。麦の栽培も行われるなど、まるで食料庫並みの重要な場所でした。更に千曲川犀川が合流した信濃の川河口からは日本海より遡上する鮭やサクラマスなどの魚族資源も豊富に取れました。祖父から聞いた話では飯山にダムが出来るまでは鮭が大量に遡ったのとこ事です。私が幼少の頃には各家の物置にサケ取り用の大網がまだ置かれていたのを記憶しております。更に川中島一帯は当時から交通の要衝で、戦略上の価値は両国に取って計り知れない場所であった事は間違いないと思います。

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川中島古戦場八幡社


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三太刀七太刀の像


有名な川中島の戦いは合計で5回行われたと言われてます。(回数は諸説有ります)

第一回 1553年 布施の戦い

第二回 1555年 犀川の戦い

第三回 1557年 上野原の戦い

第四回 1561年 八幡原の戦い(一番の激戦)

第五回 1564年 塩崎の退陣

武田信玄公は三方ヶ原で徳川家康公をウンチを漏らす迄コッテンスッバンにやっつけました。上杉謙信公は手取川の戦いで織田軍(鬼柴田を大将として滝川、丹羽、羽柴、佐々、前田)最強軍団合計4万を半分以下の軍勢で立ち直れない程ボッコボコに負かしました。ただ惜しむらくかな両雄は志半ばで没してしまいました。川中島の地は戦国史上最強の二将が絶頂の時に激突し、未曾有の戦死者を出した大合戦が行われた場所です。長野に住んでいた私は、よく分かる事ですが、新潟県と長野県の県境を越すと、新潟はお米どころと言うのがよく理解出来ます。昔は高速が無かったので県道を通り野尻湖を越してしばらく進むと一面田んぼと成り、長閑な田園風景が広がります。一方甲斐は山国なのでお米を耕作できる場所が限られ、他国を侵略するしか国が栄える方法は無かったのでしょう。『義の上杉』と純粋に『甲斐に栄えあれ』と国を富ませようとした武田の思惑がこの地で激突したのです。武田信玄公を上田原の戦い(重臣板垣信方甘利虎泰など有力武将が討死)と砥石城の戦い(有名な砥石崩れ)において二度撃退した北信の雄である葛尾城主村上義清公が真田昌幸の巧みな調略によって敗れ、越後に逃れました。越後に近い北信を武田方に取られた上杉謙信はやがて来るであろう武田方の越後進出を憂慮していた事も有るでしょうし、自分を頼って落ち延びた者へ義を通す事、足利将軍家から守護の証でも有る白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許可された関東管領として、他国侵略を繰り返す武田信玄公への討伐の意味合いも有ったと思われます。両将の出自は何方も名門中の名門です。上杉謙信公が上杉の名跡を継ぐ前は長尾景虎と言い、長尾家は桓武平氏である鎌倉氏の一族です。武田信玄公は戦神(いくさがみ)と称された八幡太郎義家公の弟である新羅三郎義光公から続く甲斐源氏嫡流です。上杉家自体は公家筆頭格の藤原北家の出自である藤原重房が上杉重房と名のり、鎌倉幕府第6代将軍として招かれた宗尊親王と共に鎌倉へ下向した事から始まります。そして重房の孫である清子(せいし)が足利尊氏、直義を生んだ事で世に出た稀有の名族です。

第四時の川中島合戦を簡単に説明致しますと、進軍して来た武田軍2万は前線基地である海津城にまず入りました。此れに対して上杉謙信公率いる越軍1万3千は敢えて敵地深く入り、海津城躑躅ヶ崎の道を寸断した形で妻女山(本当は此の奥に有る斎場山であると地元では伝わってます)に陣を構えました。これに対して武田方は茶臼山に布陣して上杉方の退路を経ちました。暫くは睨み合いが続きます。両軍共動かない状況で武田軍は再び海津城に戻りました。やがて武田軍の軍師山本勘助による啄木鳥戦法が軍議で採用されました。内容は武田軍別動隊が夜半に妻女山の上杉軍に夜襲をかけ、動揺した上杉軍は千曲川を渡り八幡原に降りてまいります。其処に武田本軍が待ち構え挟撃する作戦です。然し、いざ実行の前の夜に妻女山に居た上杉謙信公に此の動きは見破られてました。軍隊が動く場合はご飯を沢山炊いて数日間の行動食と致しますが、夜襲前夜に海津城から立ち上る炊煙の数が常ではない事を見破られていたのです。上杉軍は夜陰に紛れ山を降り、雨の宮の渡しを通り八幡原に布陣致しました。川中島特有の濃い霧が辺りを覆い隠し始めておりました。そうとは知らず武田軍別動隊1万2千は灯りを灯さず、険しい道筋を妻女山上杉本陣に向かって進軍致しました。朝方となって先に待ち構えていた武田軍本軍8千は深い霧が晴れた八幡原に居ないはずの上杉軍1万3千が布陣しており、恐らくかなり動揺致した事と思います。此処で上杉軍の法螺貝が鳴り、勇猛な越軍が怒涛の様に攻めてまいりました。こんな展開でも流石は武田軍で鶴翼の陣形に乱れは無かったと言われております。対する上杉軍は攻め重視である車懸かりの陣形で攻めてまいりました。此の猛攻で信玄公の弟の武田典厩信繁、信繁公の養育係で百千錬磨の両角豊後守、軍師山本勘助など有力武将が討ち死にしてしまいました。此処までは上杉軍が優勢と思えた展開でしたが、武田軍の妻女山別動隊1万2千が山から下山し八幡原に駆けつけてまいりました。此処からは一気に武田軍の巻き返しが優勢となり、上杉軍を強烈に押し返します。


結局は善光寺まで越軍を後退させました。此の戦いは結局引き分けと成り、此の激戦でも両雄の決着は付きませんでした。此処に第四時川中島合戦八幡原の戦いは終結致しました。( すいません、簡単な説明で長文になってしまいました)



以前『上杉家の名刀と三十五腰』と言う愛刀家垂涎の展示会が埼玉で開催され、恥ずかしながら二回足を運びました。名刀中の名刀ばかりでしたが一番印象に残ったのは武田信玄公から上杉謙信公に『塩止め』を行わなかった御礼として送られたと伝承が残る備前国一文字派の太刀で銘は弘と切られた一口です。これは『塩止め』の他に以下の事に対する返礼とも言われております。海津城城代であった武田四天王の一人の高坂弾正川中島の合戦後で死屍累々とした惨状を憂い、敵味方の区別なく戦死者の遺体を丁重に埋葬致しました。驚くべき事に敵方の武具に至るまで洗い清めて敵方に引渡しました。此の事を知った上杉謙信高坂弾正を万座の中で褒めちぎったそうです。

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高坂弾正による首塚


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武田と上杉の武将配置図


越後より甲斐にに塩を送った事(実際には送ったのではなく、塩止めをしなかっただけという説もある)は、義に厚い上杉謙信が、高坂弾正が行った事に対する返礼の意味も有ったと伝えられております。

備前国一文字派鎌倉時代備前国古備前派の次に出現した刀工群です。此の太刀は謙信公から景勝公に継承され、景勝公御手撰三五腰にも数えられており、現在は国の重要文化財となっております。甲斐は山国であり、隣国の駿河と相模が塩止めすると領民は苦しみ国は絶えます。上杉謙信は武田家は敵だが甲斐の領民は関係なく、無慈悲な事はしないと塩を止めなかったとの話です。流石に毘沙門天の化身の上杉謙信ですね!因みに此の事は452年前の永禄10(1567)年頃の話です。私が展示会で慧眼した此の一文字の太刀はその時の歴史を具現化しております。武家に伝わる宝物の面白い処は、此の様に歴史的事実が現在実在しているモノに秘められている事てすね。 つまり此の場合だと此の太刀自体が歴史そのものなのです!



近くには信玄公の弟である武田典厩信繁公の御霊が眠る典厩寺、典厩信繁公の養育係で歴戦の強者である諸角豊後守の墓、軍師山本勘助の墓など川中島の露と消えた勇将のお墓が点在しております。

信玄公の名言で『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』というものがあります。私は此の言葉が大好きで行動の規範にしております。どんなに堅固な城を持っても人の心が離れたら意味がない、人を大事にして情を持って接っし確り育成すれば、人の力はどんな堅固な城にも勝る.....との意味です。数百年前の甲斐国主の言葉ですが現在にも十分過ぎるほど通じ、眩く光る言葉だと考えます。


ごめんなさい、また次に続きます!

信濃国探索の旅 その1

渓流釣りの季節が終わると刀剣鑑賞の仲間と勉強の為に、史跡探索及び刀剣が展示されている施設を巡ります。刀身を置く刀枕の色を若草色で統一してある為に若草会と名付けてます。

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今回は長野県千曲市に有る戸倉上山田温泉に一泊しました。此処の温泉は単純硫黄泉という種類の泉質でとても温まりますよ。千曲市は別名『あんずの里』と申しまして、伊予宇和島藩の伊達家より松代藩主に嫁いだ姫が、郷里に育った杏子の種を持参したのが始まりとされております。松代藩でも咳や喘息などの妙薬として栽培を推奨し、沢山の杏の木が栽培されました。それが現在の『あんずの里』の元となったと伝承されております。

また宿泊先の戸倉上山田温泉周辺には山城が多く存在します。城の名前も凄いんです! 例えば村上義清公の狐落城なんて、狐でさえ落ちると書くんですよ!狐落城跡は数年前に登りましたが半端な山城では無く、登るのに苦労致しました。野生のキツネさんが落ちるのも頷けます。

私の故郷の千曲市埴科郡と更級郡が合併し更埴市と成り、平成に千曲市と再度名前を変えております。私の実家は商売をしておりましたので食事は必ず家族全員で囲み、観世流能楽師範でもあった父はとても歴史好きで、話は何時も周辺の歴史の話でしたので嫌でも覚えてしまいました。今回の旅行は会の仲間4人での旅となります。

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諏訪湖インターからの眺め


最初に向かったのは戸隠神社奥社です。長野インターで降りて飯綱高原の玄関口である大座法師池を過ぎて戸隠山に向かいます。大座法師池は飯綱高原の玄関口です。因みに此処には飯綱信仰の聖地である飯綱大権現が鎮座する飯綱山があります。武田信玄公や上杉謙信公など沢山の武将が熱心に崇敬致しました。謙信公の兜の前立は飯綱大権現です。東京に住む我々に親しみがある高尾山薬王院も飯綱大権現が御本尊なんです。飯綱の語源は『飯砂』につながります。食べられる砂??とも思われると思いますが、正体は『天狗の麦飯』と言われている本当に食べられる微生物の塊状と成った砂が周辺に自生している事が由縁なのです。大昔の事らしいですが飢饉の時に実際に食べたと地元の方に話を伺った事があります。私は見た事は有りますが食べた事は有りません。

話を元に戻します。戸隠神社は奥社、中社、宝光社、火之御子社が鎮座しております。此の神社は『天の岩戸伝説』に功績が有った神様を祀る神社で、『天の岩戸伝説』と言うのは文献として残されている八百万神唯一の共同作戦です。

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仁王門


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千年杉通




天の岩戸伝説

(どうしても長文になります ごめんなさい)

父である伊邪那岐命(イザナギノミコト)に黄泉の国に行った母に逢いたいと泣き噦って、父から与えられた仕事を放棄した事で勘当同様に怒られた素戔嗚命(スサノオノミコト)が天界に登りました。天界の天照大御神(アマテラスオオミカミ)は素戔嗚命が天界を奪いに来たのか?考えました。天照大御神(アマテラスオオミカミ)の誤解を解くため誓約(うけい)を結ぼうと素戔嗚命が提案致しました。天照大御神はその提案を了承致しました。此の誓約の内容は御子神を生む事で心が互いの心が清い事を証明するものです。天の安河という河を挟んで二手に別れ、まず天照大御神素戔嗚命の持っていた剣を噛み砕き、吹き出した息の霧から宗像三女神を生みました。今度は素戔嗚命が、天照大御神の「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」を噛み砕いて吹き出した息の霧から五柱の男神を生んだとの事です。これにより素戔嗚命が天界を乗っ取りに来た訳ではない事が証明されました。天照大御神が噛み砕いた剣とは神代の神器である『十拳の劔』という剣で、拳(こぶし)を十個並べた柄を持つ剣の事です。拳10個だと推定で最低拳20個以上の刀身も恐らくあるでしょう。とんでもなく長大な剣である事が想像出来ます。その後許された素戔嗚命がしばらくして、生来の乱暴癖を出し始めました。生きた神馬の皮を剥いで天照大御神が住まう御殿の屋根に穴を開け、皮を剥いだ馬を投げ込んだとの事です。今で考えると猟奇的何とかというヤツですがあくまで神話の話です。その時に天照大御神の機織巫女が死んでしまい、その事で天照大御神は天の岩戸にお隠れになりました。さあ大変、世の中は多くの災い続きとなりました。そこで八百万の神々が集まり一番の知恵者である天八意思兼命(あまのおもいかねのみこと)が発案した作戦を実行致しました。最初に長泣鳥(太古の鶏か?)を集めて岩戸の前で泣かせましたが失敗に終わったとの事です。其処で別の神が鏡を作り、また別の神が勾玉を沢山作り榊の木に鏡と共に掛けたとの事です。そこで天宇受売命(あまのうずめのみこと)という女神が踊りを行い、半狂乱になった天宇受売命の衣が乱れましたが踊りを続け、その滑稽さに居並ぶ八百万の神々が笑いました。余りに外が賑やかなので天照大御神が岩戸を開けた処、天宇受売命が鏡で天照大御神の御顔を写し、貴方様より高貴な神様がおいでですと伝えたら、少し外を見てみようと天照大神ご岩戸を大きく開けました。其処で待ち構えた八百万神一番の力持ちである天手力男命天照大御神の手を引き外に出して世の中に平穏が戻ったとの内容です。岩戸は二度と同じ事が起きないように天界から落としました。その落とした岩戸を手力男命が九州の高天原から岩戸を隠せる霊山に運びました。その後に其の霊山が戸隠山と呼ばれる様になりました。手力男命は戸隠までもう少しの場所で冠を取って汗を拭い一休み致しました。腰掛けた山を冠着山と言います(祖母から聞いた伝承なので真意は不明)。

岩戸伝説の説明が長くなりました。戸隠神社の構成ですが、一番上の奥社には手力男命と在来神である九頭龍神とを一緒にお祀りしております。真ん中の中社には知恵の神様である天八意思兼命、宝光社には先の天八意思兼命御子神である天表春命、火之御子社には踊りを踊った天宇受売命が祀られております。

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漆の紅葉


奥社参道を歩く我々は荘厳な雰囲気の中で心が清やかに成り、生まれ変わる様な感覚で参拝致しました。本当は全て参拝するのが一番良いのですが、今回はスケジュールの都合上奥社のみの参拝です。

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九頭龍神を祀る九頭龍社


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天手力男命を祀る戸隠神社奥社



次に続きます。