みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃国探索の旅 オマケ

誰が床几に座る信玄公を救ったのか?

三太刀七太刀の像についてですが、『甲陽軍鑑』と言う書物に出ている内容を基に此の像は造られております。実際にこれだけ大軍の将が一騎打ちとは考え難いのですが『甲陽軍鑑』は後世の規範と成った有名過ぎる程に有名なな軍学書であります。

甲陽軍鑑』によれば第4次川中島合戦において上杉謙信公と武田信玄公が一騎打ちと成り、白布で頭を包み月毛の馬にまたがった騎馬武者が床机にに座っていた信玄公を切りつけ、この斬撃を信玄公は軍配で受けた。横目衆である『原大隅守」は槍で馬を突いて危機を救ったと有ります。原大隅守は原虎吉と言い信玄公より感状を18枚も貰ってる大忠臣です。武功により信玄公より大隅守の官職を与えられております。横目衆とは家臣全体を監視したり、他国の事情を偵察したりする役目です。それだけ信玄公に信頼されていたと言う事ですね。さて此の原大隅守虎吉の執念の石なる大石が古戦場に存在しております。

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信玄公を守るために槍を振るった内容が書かれてます。


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謙信公をうち取れなくて悔し紛れに突き通した大岩です。


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一番右側にいる武将が原大隅守です。


真贋は別として『一念岩をも通す』と諺に御座いますが、正に具現化された歴史遺物です。岩の向こう側の景色が見えますね!此の穴の形状だと大隅守が振るった槍の形状は平三角槍でしょうか。


武田家の武将は個性的な人物が多く其々が独立的な意識が強かったと聞き及んでおります。信玄公のお骨折りは如何程のものか?と想像致します。戦国最強軍団がその集大成を迎えたのは三方ヶ原合戦であると大方の史家が伝えております。武将一人ひとりが知れば知るほど面白い内容ですね!

武田家には原性を名乗る武将がもう2人存在しております。その内の1人は鬼美濃こと原美濃守虎胤です。出自は桓武平氏である千葉氏の一族で父親と2人で武田信虎を頼って甲斐に入国し召し抱えられた経緯を持ちます。激戦の中で敵将を討ち取るなどの武功を積み重ねて美濃守の官職を与えられるなど大活躍致しました。合戦時においては敵方に鬼美濃の名で知れ渡っておりました。然し一度甲州法度に背き追放され、北条氏康を頼った事も有りました。しばらくして信玄公よりの復帰要請を受け甲州に戻った経緯も有るなど破天荒な一面も持ち合わせております。敵に恐れられた鬼美濃ですが、反面情に厚く、北条方に居た時の話で、虎胤が敵方の小荷台隊を襲撃し戦功を立てました。その襲撃で重傷を負って動けない敵兵がおりました。その者に対して虎胤は補給路を断つという本来の目的が叶った為に無駄な殺生は行わず、立ち去る事を強要したところ、相手は傷が深くて歩けないとの事でした。其処で虎胤は重傷の敵を担い、敵陣まで送り届け『また戦場で合間見えよう』と言い放ち自陣まで戻ったとの事です。此の事は敵方はおろか味方まで賞賛したとの逸話が残ってます。なんて豪胆な、なんて男らしい、なんと武人らしい、なんて華の有る話でしょうか! 私は此の武将が大好きです。

もう1人の原さんは長篠の戦いまで生き残った原昌胤です。美濃土岐氏の流れを組む武将で陣馬奉行を務めて功を上げ隼人佐の官位を拝領しております。信玄公と勝頼公に仕え長篠で散った英傑です。私の知る処では高名な原性を名乗る武田家の武将は前述の三人です。

原虎吉の横目付、原虎胤足軽大将、原昌胤の戦奉行。自軍の内情と他国の情勢の把握、一番に敵と戦う荒くれ傭兵部隊の統率、戦さ場での巧みな戦術的人員配置と退路の確保などは考えてみたら此の三武将でかなりの仕事をしていた事が窺い知れます。余計な内容だと思いますが好きな内容だけに綴ってみました。