大東亜戦争末期に極秘裏に進められ、驚くような巨費と多大な労力を注ぎ込んで造られた日本最大規模の戦争遺構が真田十万石の城下町にございます。なんと日本の行く先を決める大本営を丸ごと移動させる計画でした。後で説明致しますが、移動する予定だったのは大本営だけではなく、更に驚くべき移動もございました。此の施設は三つ山をまたがって構成さており、象山地下壕、舞鶴山地下壕、お隣りの皆神山には食糧庫が造られました。全国に特殊な地下壕は結構多く建設されたが、其の多くは埋め立てや破壊などで姿を消しております。奇跡的に残った此の『松代大本営跡』は現在長野市が管理しており、一般的には『象山地下壕跡』の名前で公開されております。
大本営は日清、日露と大東亜戦争の期間に設けられた天皇陛下を御前に開かれる最高の統帥部の事で有ります。もっと分かり易く言うと大日本帝国の最高意思決定機関となります。 Wikiより
松代と言えば松代藩10万石の真田家宝物館や甲斐の山本勘助が縄張りをして築城した海津城などが余りにも有名ですが、何十年も隠された日本最大級の戦争遺構が今回の主題となります。一般に公開されたのは昭和が終わった平成元年となり、実際に公開されているのは3つの施設のうち、象山にある遺構のほんの一部だけとなります。
遺構を外から見ると3つの山々から構成されてます。上から見たらこんな図になります。象山(ぞうざん)、舞鶴山、皆神山(みなかみやま)は此のような配置です。幕末の英雄である佐久間象山は此の象山から名を取りました。皆神山は信濃に古くから伝わる神聖な霊山の一つです。『古代より神界でむすぶ唯一の聖地』と刻まれた碑文が有ります。
此方が皆神山です。皆神神社さまのHPより
昭和40年から5年間も続いた松代群発地震(最大震度は震度5)は、皆神山の地下数メートルが震源で有り、現在も其の原因が地質学上の謎となっております。関係ありませんが、私は皆神山が震源の松代群発地震が治った昭和45年3月に生まれました。
巨大な松代大本営が何故急に造られる事になったのかの経緯も話しておかないとダメだと考えますので少しお付き合い下さい。
途中からの話となりますが、日本軍はマリアナ沖海戦で敗北し、サイパン島、テニアン、グアムを奪われ、同時に沢山の艦船と艦載機を失い、実質的な絶対国防ラインを突破されてしまいました。大本営はフィリピンだけは死守しないと戦争の継続さえも危うい(油田から油が運べない)と判断し、『捷一号作戦』を敢行したのです。(内容は誌面の都合で省略します)
日本は大艦隊をもって出撃しました。此の一連の海戦は一般的にレイテ沖開戦と言われております。日本が誇る強力な艦隊でしたが艦載機の多くはマリアナ沖海戦で失っており、空母を伴う機動部隊としての強みは既に失われておりました。
レイテ沖周辺で行われた海戦は人類史上最大規模の海戦でした。此の戦いに負けた事で帝国海軍は壊滅状態となったのです。同時に島々の防衛に当たっていた帝国陸軍の多くの兵卒も靖国の英霊となりました。人も火力も艦船の数も航空機も桁違いの米軍に対し、日本軍は本当に善戦致しましたが、残念ながら敗れてしまったのです。
今回の話に直接関係有りませんが、レイテ沖海戦の話をすると我が叔父(父の兄)も此の海戦で戦死しております。叔父は航空母艦千代田に乗艦しておりました。叔父は志願兵(当時は中学生)として乗艦し、通信兵として任務にあたっていたと父から聞いております。千代田は艦載機の猛攻撃を受けて航行不能となり、その後にアメリカ海軍第38任務部隊から分かれて追撃して来たデュポーズ隊に攻撃され、1944年10月25日16時55分に左に転覆して後沈没しました。千代田は艦長の城英一郎大佐もろとも総員が冷たい海に沈み、靖国の英霊となっております。最後に叔父が打った電信の内容は如何なるものだったのかは知る由も有りません。戦とは言え米軍は動けなくなった相手を捕獲するのは面倒なので海の藻屑とさせたのです。此の事を思うと私は現在でも体中の血が泡立ちます。
航空母艦に改造される前の水上機母艦千代田です。我が叔父の魂魄と一緒にレイテ島沖の海中に沈んでおります。いつか叔父に祈りを捧げる慰問旅行に行きたいと考えております。
千代田艦長の城英一郎少将です。お墓は横浜市瀬谷区の観正寺にございます。横浜の営業所にいる間にお参りに行きたいと思います。
大きく脱線してしまいました。大変申し訳有りません。いよいよ本土決戦が遠く無い未来になって来た頃、松代大本営の建設が始まったのです。当初は東京都の八王子に移すと言う話も有ったそうですが、建設地は松代と決まりました。同時に大本営は日本の国体護持の為に天皇陛下も一緒にも御移り頂く事になりました。
松代大本営の着工は昭和19年11月11日です。工事は現在の鹿島建設と西松建設が請け負いました。実際の工事期間は昭和19年11月11日から昭和20年8月15日の僅か9ヶ月です。内部の各部屋の建設と併せて約8割まで完済していたと伝わります。工事に参加したのは国を憂うる日本人と朝鮮人鉱夫などでした。始まった日付には、日本が此の窮地から躍進して『行く』年で有り、『良い』が2回も続くからだと解説員の方は話しておりました。此の後に米軍は沖縄に上陸します。
朝鮮人鉱夫の慰霊碑が有りました。新しいので恐らくは近隣諸国条項によって制作されたものだと推察致します。
碑文の解説と経緯が記されております。
当時の資料は無いので実際には分からないのですが、推察されている犠牲者は推定で100人〜300人ほど出たと言われております。着工以降は突貫工事で延べ 7,000人〜8,000人以上の労働者が働いていたと伝わります。
入り口付近に設置されている鳥瞰図(ちょうかんず)です。山々を幾つも連ねており、規模の大きさが御理解頂けると思います。
鳥瞰図の下にある長野市による説明文です。
そして此の図が象山地下壕の内部構造となりす。赤い部分が現在公開されている場所です。3つの山に掘られた地下壕は『総延長が何と10km』にも及び、象山地下壕だけで6km弱の長さがございます。また横と縦の長さが概ね同じ寸法で掘らているのです。此れを見ると『硬い岩盤の中に街が一つ造られた』事になりますね。最先端の掘削機とかは当然ですが存在致しません。昼夜突貫工事であったみたいですが大変な労力です。
此の地下壕に入る組織は大本営は当たり前として、政府機関、日本放送局、中央電話局が入り、横の舞鶴山には天皇皇后両陛下が入り、皆神山には食糧庫が造られておりました。当初の計画では皆神山に陛下が御入りになる場所を作る予定でしたが、皆神山だけは岩石が脆く、計画を変更したと言われております。収容予定人数は何と1万人でした。
此処の地下壕には、国の中枢が全て入る予定だったのです。計画が極秘性を極めた事は想像に難く有りませんが、実際に働いた方々も何を造っているのか知らなかったと思います。皆には『倉庫』を造っていると触れ回っていた模様ですが、舞鶴山の倉庫に十六葉菊紋が付いた品を入れる訳は無いので、恐らくはバレていたと思います。
地下壕見学の後に入った資料館で何故に松城に決まったかを伺ったところ、恐らく同じ質問を多く受けけているらしく、回答がパネルになってました(掲載パネルは撮影禁止)。
① 信州は日本の真ん中に存在しており、海から離れている事。古から信州は『神州』に通じている事。
⓶ 岩盤が硬く空からの爆撃に強いと思われ、10t爆弾にも耐え得る強さである事。
⓷ 近くに飛行場がある事(長野飛行場)。
⓸ 稀代の英傑である信玄公と謙信公が戦った聖地であり、土地柄に高い品格を持つ事。
⓹ 長野県の人は皆朴訥であり、重要な国家秘密を守ってくれる。
此の説明の内容には個人的に大いに肯定出来ると考えました。東京都は海から近くて本土決戦になったら著しく不利だと思われます。信州は高い山々が地域を守る天然の要害のようなもので、戦国時代には狭い平野に領土を持つ国衆が此の地形を武器に戦っておりました。また松城の山々は千変万化した千曲川と犀川の激流を気の遠くなるあいだ受け止めて来た歴史がございます。そして其の硬い山々は古からの神々が住まう山なのです。
ご覧のように日本海側には北アルプスが存在し、太平洋側には南アルプスが有ります。当時は誘導ミサイルなんて無い時代ですので爆弾は目視で投下しておりました。標高の高い山々にぶつかる気流は彼方此方で渦巻いており、航空機には嫌な場所だったと思います。仮に防御の壁をすり抜けて松城に到達しても10t爆弾にも耐え得る岩盤質の山々なのです。陸地からだと精強を誇る帝国陸軍が迎え打ったと思います。正に大本営の決断は的を得ておりました。
日本には使わなかったと思いますが、イギリス空軍が用いた正真正銘の10t爆弾です。其の名はグランドスラムと名付けられてます。現在は地下基地を破壊するランカーバスターが有りまね。 Wikiより
大東亜戦争の話は初めて綴りますが、どうも長くなってしまいます。次回は地下壕内部のご紹介をさせて頂きます。