みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 その後 9

お詫び
先週は寝る前に布団の上に置いた携帯を思いっきり踏んづけてしまい、携帯が微塵に砕けアップ出来ませんでした。お許し下さい。

さて、今回ご案内したいのは物部守屋大連が打たれた後の話です。元々物部連氏の祖先は饒速日命長髄彦の妹の間に生まれた宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)から連なる家系の事です。饒速日命がカムヤマトイワレビコに服属した後に、義理の兄にあたる長髄彦饒速日命に殺されたとも、北へ逃げたとも言われておりますが、其の後の系譜も極簡単に御伝えしようと思います。

此方が守屋大連の墓と言われております。

玉垣に刻まれた名跡を見ると全国の有名神社が寄進しているのが分かります。物部氏は軍事的な特色が強い反面、天の神と地の神を奉斎する神祇を司る一族でもある事が起因していると思います。物部連氏一族は日本神道の為に命を賭した尊い人物なのです。寄進しているのは石上神宮を始め春日大社住吉大社諏訪大社宗像大社、木曽の御岳神社、伊勢の猿田彦神社など凄い顔ぶれです。近くには秦氏の棟梁である秦河勝が守屋大連の御首を洗った池も存在しております。

此のお墓は江戸時代の絵図では小さい丘の上に松がボツん立って居ただけだったみたいですが、明治期に新政府下の堺県知事である小河一敏さんという方が、『物部守屋大連墳』の碑を建て、其の周囲に玉垣を巡らし石鳥居を建てました。

小河一敏翁です。幕末に討幕に尽力し維新後には初代堺県知事として活躍した方です。丁未の乱から約1300年経過した後に守屋大連の御霊を鎮めてくれた方とも言えますね。

日本書紀の記述によると物部守屋大連が打たれた事は恐らく間違いないと思います。しかし記紀には其の後『大連の児息と眷属、葦原に逃げかくれて、姓を改め名をかえる者あり』と有ります。元々物部氏は全国の物部を統治する立場であったので氏族が多かったと思われます。しかし自分の立場に置いたらどうでしょう、同じ物部を名乗る者でも寝返っている者も少なからず居たと私なら思います。

因みに記紀の記述に有る葦原とは葦の野原の事では無く、日本全体の事をさしております。日本は古くから豊葦原之瑞穂国(トヨアシハラノミズホノクニ)と言われており、古代より葦原が広がっていたのです。また海洋民族の日本人は其の豊富な葦を利用し葦船を造り世界に進出しておりました。

日本葦船協会会長の石川仁さんの葦船です。コレで倭人たちは遥か南米西海岸のエクアドルまで到達してインカ帝国を築いたのです。間違いなく当時最先端の航海技術だったと思います。

話を戻します。守屋大連の子は私の知るところによると子供が3人おりました。一番の長兄は吉備氏に預けられ、其処で生涯を全うしたと伝わります。次兄は信州諏訪に縄文時代から続く洩矢氏(守屋氏)を頼りました。其の次兄の名は武麿君と言います。三男は秋田に逃げて現在まで続く秋田物部氏となっております。三男の名は那加世(ナカヨ)と言います。

此処て少し洩矢(モリヤ)一族についてご案内します。諏訪のシャーマンである洩矢一族はミシャグジ様と言う神を奉斎しておりました。洩矢一族はミシャグジ様を降ろす霊力を持っていたのです。其の一族が朝晩と必ず祈りを捧げたのが守屋山中腹に鎮座する高さ11mもある巨大な小袋石と言う磐座です。磐座とは神が降臨する石の事を言います。

此方が諏訪の小袋石です。驚くべき事に此の磐座の下には3つのプレートが重なっております。北米プレートとユーラシアプレートが攻めぎ合う接点にフィリピン海プレートが潜り込んでおり、地質学的にも奇跡に近いピンポイントなのです。小袋石は世界に10枚しかない大陸プレートのうちの3つの接点に鎮座しているのです。洩矢一族が何千年も奉斎しているおかげで日本の国土は此の磐座によって守られております。また諏訪は九州から続く中央構造線フォッサマグナの接点でも有るのです。フォッサマグナとは約6000mの深度を持つ日本の割れ目です。

ブレートの位置は図的にこんな感じです。フィリピン海プレートが細くなって潜り込んでいるのが分かりますね。つくば産業技術総合研究所 地質調査総合センター様より

磐座の上はこんな感じで中央構造線が地上からも見る事が出来ます。実際に此の光景を見ると少し冷たいモノを背中に感じます。

此の磐座から諏訪湖を挟んで反対側の八ヶ岳山麓からは国宝縄文のビーナスや国宝の仮面のビーナスが発掘されてます。つまりそれだけ古くら人々が暮らしていた事になりますね。此の様な日本における要の土地に根付く洩矢一族と『神祇を司る物部氏』とは何らかの繋がりが有っても不思議では有りません。守屋大連も洩矢一族も読み方は同じ『モリヤ』なのです。

まずは此の洩矢一族の系譜をご覧下さい。

洩矢神から76代継続する洩矢一族の現当主は守屋早苗さんです。写真の右から数えて三行目の上から六人目の当主に武麿君(弟君)と記された名前が有りますが、此の代27代の当主の武麿君こそ守屋大連の2番目の息子さんなのです。此の秘事は神長官洩矢一族の伝承に残っていると聞きます。

恐らくはボロボロになりながら長旅をして来た事だと思います。先にも書きましたが、丁未の乱で偉大な父を失った武麿君と其の眷属達は信頼出来る知り合い以外は間違っても頼らないと思いますので、やはり物部本家と洩矢一族は何らかのつながりが有ったのでしょう。諏訪信仰の事は私のブログで2023年2月23日から3回シリーズで綴りましたので興味のある方はご覧下さい。

武麿君と一緒に来た一族が創建したと言われる守屋神社は茅野市伊那市をつなぐ国道152号線沿いに鎮座しております。此の里宮ち対し、守屋山の山頂にも守屋神社奥社があります。


守屋神社里宮です。守屋大連は河内より遥か離れた信濃の地で神となっているのです。Skima信州ー長野県のローカルメディアさまから

守屋神社奥宮です。小さい祠が有ります。大ファンである八ヶ岳原人さまのHPより 

武麿君を連れて逃げて来た物部の縁者達が何も無いのに神社を建てる筈も無く、また物部守屋大連の本拠地と遠く離れた信州には本来は何も関係ない筈です。一族の長を祀る社を建てたのも武麿君が洩矢一族の養子に入ったからだと考えている次第です。信州でも此の辺りは古くから馬刺しを食べる文化が有るのですが、此の事はどうも怨敵である蘇我馬子につながるような気がしております。もっとも古代の信濃は朝廷の御牧が多く点在していた事も有りますね。

美味しそうな馬刺しです。Wikiより

大阪の八尾市から諏訪市迄の距離は高速道路を使って約365kmですが、当時はそんな便利なものは無く、山々も迂回するしかなく大変だったと思います。氏族の助けを借り、海路を通っても諏訪は内陸なので途方もない距離になります。ましてや親を亡くし落ち延びた武麿君と其の配下の者達は何の準備もされていなかった事を思うと切なくなりますね。

また秋田へ逃げた物部那加世の方ですが、現在も脈々と其の系譜を繋いでおります。物部守屋大連の子である物部那加世は臣下である捕鳥男速(トトリノオハヤ)に助けられ、長い間各所に隠れ住みながら秋田まで落ち延びました。其の子孫は唐松神社の宮司となっております。此処には秋田物部文章書と言う古文書が伝わっておりますが、此処での詳しい紹介はやめておきます。唐松神社とは神功皇后物部胆咋が創建し、韓(カラノクニ)を服(マツ)ろわせた三韓征伐が語源であるとの事です。神宮皇后は応神天皇をお腹に宿しておりましたが、其のお腹に巻いた腹帯を奉納したと伝わります。

秋田大仙市に鎮座する唐松神社です。

秋田物部氏に伝わる古文書は、唐松神社名誉宮司であった物部長照氏の決断により一部公開され、新藤孝一氏が『秋田 物部文書 伝承』と言う本を出版されました。私も恩師から借り受けて一晩で読んだ記憶がございます。内容をご案内すると長くなるので省略しますが、簡単に説明すると、物部連氏の祖神である饒速日命の降臨は鳥海山が最初で有り、日の宮と言う社を建て十種神宝と天神地祇を祀ったとあります。また、其の後に大和に移ったと有ります。

最後にイワレビコとの戦いで、饒速日命イワレビコとの和解の後に殺されたとも、北に逃げたとも言われている長髄彦のその後をご案内します。

ずっと後世の話となりますが、作者と成立年ともに不詳の軍記物に『蘇我物語』が有ります。最初は盲目の僧侶等による口伝えで有り、それが発展していったものだと伝わります。主題は鎌倉時代における蘇我兄弟の仇討ちなのですが、其処に面白いくだりがあるのです。

長髄彦には兄がおり、其の名は安日彦と言われておりました。戦いの後に遠く青森まで逃げて蝦夷の祖となったと有ります。蘇我物語には『鬼王安日』と有ります。前九年の役源義家率いる朝廷軍に敗れた安倍貞任は鬼王安日の末裔なのです。此れは津軽の名族に安日彦を祖とする系図が伝わっている事からも明らかです。また安倍氏は現代にも連なっております。朝廷軍により安倍貞任は打たれましたが、弟である安倍宗任は生き延びて伊予国へ配流され、其の系譜は続きました。更に末裔は『松浦水軍』となって壇ノ浦の合戦に参戦しましたが、平家が敗れてしまい、その後は長門の国先大津後畑と言う集落に移り、やがて明治になって山口に移り、其の一族から故安倍晋三内閣総理大臣を輩出したのです。

安倍宗任  Wikiより
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安倍晋三元総理は安倍宗任を祖とし44代目の末裔であるとしております。我々は知らないうちに長髄彦の血縁となる子孫を見ていた事になりますね。長髄彦は皇室の祖先に敗れたとはいえ、其の後に子孫が2回も総理大臣になるとは凄い話しです。

持田大輔氏の描いた長髄彦です。悲劇の忠臣である長髄彦の系譜が現代に伝わっていると思うと実に感慨深いモノがあります。
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今回は英傑達の其の後をお伝えいたしましたが、次回は日本が神仏習合に至った理由をお伝えし、此のシリーズを終わりたいと思います。


追記
物部氏善光寺如来を巡って蘇我氏と争い、次の子の代で大王家を巻き込む大戦となって物部の棟梁である物部守屋大連が滅ぼされてしまった訳ですが、其の元となった秘仏善光寺如来を本尊とする善光寺には本堂の一番最奥の最も格式が高い内々陣という場所に守屋柱と言う柱が有ります。創建から約1400年もの歴史を持ち、現在でも年間600万人もの人々がお参りにまいりますが、其の参拝者は知らずのうちに物部守屋大連の御霊にも手を合わせているのです。

捕鳥部について

申し訳有りません。2月2日にアップした記事に対して注釈を入れるのを失念しておりました。捕鳥部万(トトリベノヨロズ) の出自についての話です。

 

捕鳥部の始祖は天湯河板挙(アマノユカワタ)と言う豪族です。垂仁天皇の皇子である誉津別皇子(ホムツワケノミコ)は30歳になり鬚が生えても物を喋らずに子供のように泣いてばかりいたと言われております。ところが誉津別皇子が鵠(クグヒ)を見て『あれは何だ?』と言葉を発したそうです。垂仁天皇は皇子が初めて言葉を喋る事が出来たと大変喜びました。

 

そして天湯河板挙に鵠(クグヒ)を捕まえるように勅命を発したのです。天湯河板挙は出雲まで追いかけて捕獲しました。その後。天湯河板挙は捕獲した鵠(クグヒ)を垂仁天皇に献上したのです。

 

誉津別皇子は其の鵠(クグヒ)と戯れていると、やがて言葉を話す事が出来るようになりました。此れに感謝した垂仁天皇は天湯河板挙に姓(カバネ)を与えられました。こうして天湯河板挙は鳥取部を名乗ったのです。捕鳥部万(トトリベノヨロズ) は此の一族であると言われております。

 

宍道湖の白鳥です。昔から動物セラピーは有ったのですね。山陰中央情報デジタルさまより
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因みに鵠(クグヒ)とは白鳥の古名となり、現在でも鵠沼とかに其の名残がありますね。

別系統の神器 十種神宝 丁未の乱後編 8

こうして蘇我馬子は人事を尽くして物部守屋に戦いを挑みました。用明天皇2年(西暦587年)に豪族の頂点同士が争う『丁未の乱』が始まります。此の日時は今から1436何前となります。以下は両軍の陣容です。

※ 大臣の蘇我馬子
蘇我馬子
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厩戸皇子 聖徳太子の事です。
秦河勝 上宮聖徳太子伝補闕記によると丁未の乱厩戸皇子の配下として参戦している。
泊瀬部皇子 馬子が守屋を窮地に追い込む為に擁立した皇子、後の崇峻天皇、馬子の命を受けた『駒』と言う渡来人に暗殺される。
竹田皇子 敏達天皇の子
難波皇子 敏達天皇の子で恐らくは乱で戦死。
春日皇子 敏達天皇の子で春日臣と共に参陣。
迹見赤檮(トミノイチイ) 舎人の役職の武人、守屋大連を射殺す。姓は首(オビト)。
膳傾子 (カシワデノカタブコ) 食膳を司る一族。
巨勢比良夫(コセノヒラブ) 武内宿禰系。
紀男麻呂(キノオマロ)新羅に大将軍として派遣された程の武人。
平群神手(ヘグリノカムテ)武人達を率いて現地に直接参陣
坂本糠手(サカモトノアラテ)百済に派遣された事情通の役人
大伴咋(オオトモノクイ)任那救援で2万の軍勢を率いる予定だった大将軍。
葛城烏那羅(カツラギノオナラ)新羅討伐時の大将軍の一人。
安倍人(アベノヒト)

此の様に蘇我馬子側は皇子が多数と歴戦の武人と大将軍クラスが多く参戦したのです。其々に配下を率いる訳ですから当時は途方も無い大軍団です。戦いは始まる前の時点で大勢は決まっていると言いますが、この例などを思うと本当にそう思います。

※ 大連の物部守屋
物部守屋
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物部連氏一族 古来からの神祇を司り、軍事を司る最強一族。饒速日命の末裔。
捕鳥部万(トトリベノヨロズ) 鳥を獲る事を職業とした品部の出自で有り、物部氏の忠臣。秋田物部文書に捕鳥男速(トトリノオハヤ)なる人物が出てくるので捕鳥部の一族は守屋大連の家人の様に思えます。
物部八坂(モノノベノオサカ) 同族だか戦闘に参加したかは不明。
漆部兄(ヌリベノアニ) 同じく戦いに参加したかは不明。


実質的に物部本家と捕鳥部万(トトリベノヨロズ) の軍が主力ですね。丁未の乱の陣容はザッとこんな感じになります。物部連氏ほどの大豪族でも朝廷に味方してくれる皇子が居ないと此処まで差がつくのかと思います。記紀には稲城という城を築き守りを固めたとあります。

後世に描かれた稲城です。全体を俯瞰した図は残されておりません。
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大阪府八尾市に有る稲城跡の石碑です。大阪再発見さまのHPより
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両軍は物部守屋の館で激突致します(諸説有り)。何倍もの連合軍を相手に戦闘部族の物部軍は強く、三度に渡り馬子軍を蹴散らしました。両軍の激しい戦いにより河内の野辺と石川の河原は血で赤く染まったと伝わります。此の戦いが行われた季節は田んぼの稲穂が黄金色に色づいた季節だったと言われております。

写真の上から2枚目に物部守屋の傍に立つ衛士が携えている矛は鉤付きの矛(ホコ)と言って、此の鉤で馬上の武人を引っ掛けて引き摺りおろし、落ちたところを矛先で仕留める為の武器です。正倉院に納めされている数種類の矛の一つです。何とまあ恐ろしい武器でしょうか。後世には矛から槍や薙刀に改良されて行きました。
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物部守屋大連は自身も弓の名手でもあり、屋敷内に有る塀を超える朴の木に登り、敵将を狙い撃ちしました。百発百中で敵兵は射殺されたと伝わります。物部守屋軍の猛攻を受け、流石の連合軍の猛者達も怖気付き退却を余儀なくされたと伝わります。此の時代の弓は丸木弓と言って弾力のある梓の木や檀(マユミ)の木を利用しておりました。

此処で大活躍をしたのが兵100人を率いて物部守屋邸の守りを固めていた捕鳥部万(トトリベノヨロズ)です。主人不在の間に館を守っていたので後世の城代のような存在だったと思われます。先にもご紹介したように『鳥を獲る事を生業とした一族』の中で一番の剛の者でした。(注1)

四方から飛んでくる敵の矢を捕鳥部万(トトリベノヨロズ)が剣で打ち払う姿が描かれております。物部守屋大連も木の上から万の勇姿を見て頼もしく思っていた事でしょう。ただ此の後に守屋大連は弓の名手だった事が仇になります。
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NHKのドラマスべシャルだった聖徳太子では本木さんが主演されておりました。此の写真は丁度守屋大連の稲城に攻め込んでいる時の画像です。NHKアーカイブより
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蘇我馬子の軍勢には若き日の聖徳太子(厩戸皇子)がおりました。厩戸皇子は此の形勢の不利に対して椋の木から四天王像を彫り出して額に巻き、此の戦いに勝利した暁には四天王を安置する大寺院を建立する事を誓い、寄手の皆を鼓舞したのです。宗教がかった集団は強くなるのは昨今の戦争の経緯を見てもご理解頂けると思います。果敢に攻め込む連合軍と物部守屋軍の激しい戦いが繰り広げられました。

そんな最中に厩戸皇子の舎人である迹見赤檮(トミノイチイ)が物部守屋の登っている大木の下に忍び寄り守屋大連を射落としたのです。権勢を誇った物部守屋大連は迹見赤檮(トミノイチイ)の一矢によって落命致しました。

此の写真の左側中央辺りに矢が当たった物部守屋大連の姿が描かれております。握っている弓も自然素材である事が分かりますね。しかし此の絵についてですが、挂甲も何も付けてないまま戦いに挑む事は有りませんね。
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此方は日本服飾史さんのHPにのる古代の挂甲を帯びている武人です。国宝の埴輪にも挂甲武人の完全体がございますね。
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群馬県太田市飯塚町出土の国宝挂甲武人埴輪です。恐らく大半の方は御記憶があろうかと思います。
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此の古事は迹見赤檮が物部守屋を射た矢を埋めたとされる鏑矢塚が存在し、少し南西に進んだところに弓を埋めたとされる弓代塚が存在している事により間違いないと思われます。

八尾市観光データベースさまより
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八尾市観光データベースさまより
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旗印である守屋大連を失った物部軍はその後総崩れとなり、勢い付いた馬子軍に打たれる者甚だ多く、逃げ出した者も有れば捕虜として捕縛される者もおりました。

主人であった守屋大連の戦死を聞いた捕鳥部万(トトリベノヨロズ) は、その場で自軍を解散し配下には何とか逃げるように説き伏せたと伝わります。自らは馬にに跨り、茅渟県(チヌノアガタ)の有真香村(アリマカムラ)に向かいました。此の村には万(ヨロズ)が心を寄せた女性が居たからです。なんともロマンチックな捕鳥部万さんです。そして一夜を過ごした後に山に入ったのです。捕鳥部万は愛犬の白犬と共に此処で死ぬつもりでした。

山に入る前に一夜を過ごした女性に自分は此処にいると役人に伝えるように言っておりました。女性は泣く泣く承知したそうです。早速河内の国司は数百人のの兵士を送って山を取り囲みました。しかし捕鳥部万(トトリベノヨロズ) の凄いところは此処からです。

国司の送った兵士たちは雄たけびをあげて殺到しました。万(ヨロズ)は矢を放ち応戦しました。万(ヨロズ)の一族は鳥を捕る事に長けた一族で有り、当然弓の腕も一流だったと思われます。万(ヨロズ)の放ったいずれの矢も兵士の突進を止めたと伝わります。しかし万(ヨロズ)も満身に傷を負っておりました。そして矢が尽きた万(ヨロズ)は弓を折り、剣を抜いて尚も戦ったのです。先に紹介した万(ヨロズ)の絵は恐らく其の時のものだと思います。

愛犬と一緒に戦う万(ヨロズ)。岸和田市のHPより
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やがて力尽きた万(ヨロズ)は叫びました。『お前達、よく聞け、俺は大連(おおむらじ)の従者として今まで大王(オオキミ)のためには身を粉にして働いて来たのだ。それを、悪臣、逆臣とは何なのだ、誰が逆臣だ』 此れは稀代の忠臣捕鳥部万(トトリベノヨロズ)だから出た言葉であり、捕鳥部万だから後世まで残った言葉だと思います。恐らくは万(ヨロズ)の奮闘ぶりに敬意を抱いた将卒も多かったと思います。潔く最後まで戦い抜き力尽きた万(ヨロズ)は剣を折り、そして自らの喉を切り裂き息絶えました。見事なり捕鳥部万(トトリベノヨロズ)。

役人は命令により鬼のように強かった万(ヨロズ)の体を8つに切り裂きました。此の行為は現代の常識に例えると頭がおかしいと思えるかも知れませんが、鬼のように強い者は必ず復活してしまうから、復活しても体が何処に有るのか分からないように行なう古代のやり方なのです。それだけ捕鳥部万(トトリベノヨロズ)の強さを認めていた事にもなります。

何処からともなく万(ヨロズ)に寄り添っていたの白犬が現れ、晒し場から万(ヨロズ)の頭を咥えて去って行きました。そして主人の首を古塚に埋めたそうです。万の愛犬はその場で臥して横たわり、やがて飢死したと伝わります。

やがて此の事は朝廷の知るところとなりましま。朝廷は万(ヨロズ)と其の愛犬を哀れに思い、万(ヨロズ)の同族の者に命じ、万(ヨロズ)と白犬の墓を有真香邑に並べて作らせたのです。この墓は岸和田市に今も残る天神山古墳です。一号古墳が犬の墓、2号古墳が万(ヨロズ)の墓と伝わります。此の話は学生の頃に先生に教えてもらいました。先生が身振り手振りを交えて話された捕鳥部万(トトリベノヨロズ)の話に大きく心動いた事を覚えております。

さて物部守屋大連を失った物部の一族は葦原に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなったのです。厩戸皇子は誓い通り四天王寺を創建しました。物部連氏の領国は蘇我馬子の妻が物部守屋大連の妹だった事から相続権を主張して半分は蘇我氏(ナンデ?)、もう半分は四天王寺に寄進さました。捉えられた一族の多くは四天王寺の奴婢となったと伝わります。簡単に言ったら馬子と厩戸皇子で山分けとなったのです。そして伝わった仏教は日本に飛鳥文化をもたらせました。

復元された玉虫厨子です。本物は法隆寺に有り国宝に指定さらております。国立科学博物館さまのHPより
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此の結末ををお読み頂き、不思議に思った方もいらっしゃると思いますが、では何故に日本が仏教一本になっていないのか、此処までの大乱を後に導き出した日本人の結論とは何かを『詔』を介して次回ご案内致します。

物部守屋大連の子供が信濃の名族を頼りました。またもう一人の子は各地を転々として秋田に落ち延びました。この辺りも系譜を交えてご案内致します。

別系統の神器 十種神宝 丁未の乱前編  7

今回は物部連氏の動向と言うより、物部連氏の怨敵となる蘇我氏について簡単にご案内し、丁未の乱までの経緯を私の知り得る範囲で極簡単にご案内させて頂きます。

馬堀喜孝画伯の欽明天皇です。f:id:rcenci:20240127204933j:image

時代は第29代欽明天皇の御代となり、物部連氏は絶頂期を向かえておりました。此の時期における物部連氏の棟梁は大連の物部尾輿(モノノベノオコシ)です。
此方が物部尾輿さんです。Wikiより
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此の時には先の大連だった大伴氏は当時朝鮮に有った任那日本府の一部を百済から賄賂を貰って割譲した売国の咎で失脚しておりました。その代わりに大臣(オオオミ)として蘇我氏が台頭していたのです。此の蘇我氏は古代豪族で一番の権勢を誇った葛城氏から連なる一族でした。蘇我稲目の奥さんは葛城氏の出自です。稲目の子である蘇我馬子は巨大な勢力を持っていた葛城氏と蘇我氏の間に生まれた超プリンスなのでした。

蘇我馬子さんです。
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余りにも有名な石舞台古墳は馬子の墓と言われております。
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また蘇我氏は品部の一族であり、新撰姓氏録によると武内宿禰系となり皇別と表記されております。品部(シナベ)とは物を造るとか、鳥を取るとか多岐に渡りますが、一般的には物を造り出す人的集団の事です。蘇我氏は金工技術を使い宮廷で用いる奢侈な品々や色々な小物を生産する事を得意としていたと伝わります。

古代において大王(オオキミ)家と肩を並べるほどに強大な勢力を持っていた葛城氏の地盤を引き継いだ蘇我氏は登場した時点で既に大きな力を持っていた事になります。強みは葛城氏が育んできた渡来系移民の技術や武力です。更に仏教が伝わり出し、蘇我氏は品部として飾りなどの様々な小物を造る一族だった関係で大きな財力を得ていったのです。なぜかと言うとお寺の本堂には天井から煌びやかな天蓋が吊されていたりしておりますが、此の様な小物の需要が物凄く増したのです。

此方が天蓋です。他にも法具やお鈴など実に多くの小物を仏事には使います。今ならAmazonで直ぐに買えますが、昔は一つ一つ造り出さないと揃えられなかったのです。
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此の時代は貨幣で無く『土地』や『米』が財産となります。蘇我氏は基盤と財力にモノを言わせて中央に躍り出てまいりました。また後に倭漢氏(ヤマトアヤウジ)と総称される渡来人集団を継承しておりました。彼等は土木、機織り、武器などを造る技術集団で有り、特に武芸に秀でた者が多かったと伝わります。蘇我氏は彼等に門衛や宮廷の警護などもさせておりました。蘇我氏自体の武力は大した事は有りませんが、本当に怖いのは日本古来の道徳を知らない此の渡来人集団だったのです。

応神天皇の時代に日本に来た倭漢氏の祖といわれている祖阿知使主(アチノウミ)です。優しそうなオジさんに見えますね。
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いつの時代も金持ちで武力のある組織は強いのは当たり前ですね。また先進的な武具や生活様式を持っていた渡来系一族を巻き込んいた為に一大勢力となっていたのです。

正倉院に有る手矛です。信濃人間国宝であった宮入行平刀匠の一番弟子に当たる方が再現しておりましたが強力な武器に感じました。
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蘇我氏の出自については、まだまだ多くの説がございます。倭朝廷の中枢に突如現れてから100年にわたって権勢を誇った蘇我氏四代の事はとても簡単に語り尽くせない深く複雑な経緯がございます。

蘇我氏の邸宅が有ったと言われる甘樫丘(アマカシノオカ)東麓遺跡のポスターです。この遺跡は乙巳の変以後に造成された建物跡と言われております。最初に聞いた時は驚きましたが、何と水洗トイレの後も確認されているみたいです。
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蘇我氏で有名なのは稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代です。稲目の文字は稲作中心の倭朝廷なので理解できます。しかし馬子?エミシ?イルカ?などの名前を付ける事を躊躇わないのは、日本の一般的な文化を理解していなかった可能性があります。蝦夷とは当時朝廷の文化が伝わってない北方に暮らす人達をさす言葉ですし、馬もイルカも人より格下の生き物です。日本に元から住んでいた一族なら躊躇うはずですね。

一光三尊形式の仏像です。
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そんな最中、百済国の聖明王から一光三尊形式の阿弥陀如来像が経典と一緒に送られて来ました。百済新羅と争っており、日本を頼っていたのです。欽明天皇は大臣の蘇我稲目と大連の物部尾輿を召し出し、仏教を我が国に受け入れるか否かを問いました。蘇我稲目は仏教を取り入れた国は先進的な文化も同時に取り入れる事が出来るので是非取り入れた方が良いと奏上しました。其れに対して大連である物部尾輿と列席していた中臣鎌子は日本には古来の神々の信仰が既に有りますので、違う神を取り入れると元々の神々を怒らせてしまうと主張したのです。

私は神々が怒ると言うと、何時も此の憤怒の形相を連想してしまいます。子供の頃は普通に怖い顔だなと思っていましたが、小札の鎧の胸にはアイヌのモレウの紋様、腰には蕨手刀を携えており、何をモデルにしたのか色々考えさせられる大魔神さまです。
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話を戻します。側近2人の意見が分かれてしまった欽明天皇は、物部尾輿は今まで通り神道を全うし、蘇我稲目は試しに仏教を信じてみたらどうかと言う曖昧とも思える言葉を発し、蘇我稲目に此の如来像をお預けになりました。蘇我稲目は我が家に仏像を持ち帰り、向原(ムクハラ)に有る家を寺に改め、仏様を其処に安置し奉斎したのです。これが日本で最初の仏教寺院で有り、名前を向原寺(コウゲンジ)といいます。

向原寺
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しばらくは其のままでしたが、やがて国内に深刻な疫病が蔓延してまいりました。此れを見て物部尾輿中臣鎌子は仏像を祀った事で日本の神々が怒り、其の神罰が降ったと考えたのです。

そして物部尾輿と中臣鎌は軍を率いて寺を焼き払い、僧と尼を裸にし棒で打ち据えて追放しました。そして仏像を壊そうとしたのですが、壊すどころか傷一つ付かなかったので難波の堀江に投げ捨ててしまいました。

仏像を海に投げ捨てる物部の配下達。
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その後に信濃国国司が都に用事で赴いた際に本田善光という人物が国司と一緒に来ておりました。本田善光が難波の堀江を通った時に、打ち捨てられた仏像が自らを東国に連れて行く様にと言って本田善光の背中に乗ったと伝わります。本田善光は故郷の信濃に到着すると早速御堂を建てて仏像を安置したのです。此れが日本で唯一全ての宗派に属してない大寺院で有る善光寺の始まりです。本田義光の義光をそのまま名前にしたのです。

善光寺如来をおんぶする本田義光さんです。素材は閻浮檀金(エンブダゴン)と言って閻浮提と言う大木の下にある金塊で造られていると言う伝説です。長くなるので善光寺の事は此処までにしておきます。
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蘇我稲目は娘を2人欽明天皇に嫁がせておりました関係で大王(オオキミ)家にとって大きな影響力を持っておりました。時が経過し欽明天皇天皇崩御物部尾輿蘇我稲目も没しました。新しい天皇には第30代の敏達天皇が即位し、蘇我氏は子供の馬子の時代となり、物部連氏は物部守屋が引き継ぎました。

仏教を日本に早く取り入れたい蘇我氏は他の仏像を調達して家に祀るなど地道に活動しておりましたが、当主の蘇我馬子が病に倒れたのです。馬子は此れは自分の御仏に対する信心が足りないものと判断し、更に深く仏教に帰依して行きました。

そんな最中、再び都に疫病が流行り始めたのです。此れを見た物部守屋敏達天皇に疫病が流行り始めたのは馬子が仏教を広めているせいだと上奏し、蘇我氏の寺を襲い、仏像を川に流しました。ところが今度は敏達天皇物部守屋が病にかかってしまったのです。此れを聞いた蘇我馬子は疫病が仏教のせいでは無いと確信し、再び仏像を置いて仏教を信仰しました。

そんな最中に敏達天皇が病で崩御してしまいます。次の皇位を継いだのは用明天皇です。ところが此の用明天皇も病気になってしまいました。気弱になった用明天皇蘇我氏が信仰していた仏教を頼ったのです。大王(オオキミ)自身が仏教を信仰すると言ったのです。用明天皇のお妃は穴穂部間人皇女(アナホベノハシヒノトヒメミコ)と言い、欽明天皇蘇我小姉君の娘である関係で馬子の話を信じたものと思われます。こうなると朝廷内において仏教の普及を推進している蘇我氏が断然有利になるのは火を見るより明らかです。

此の動きを見て危険をサッチした物部守屋は現在の大阪府八尾市にも領地があっとので其処に用心のために移りました。此の後に用明天皇は病が悪化し崩御してしまいます。此処で皇位継承に対する争いが起こりました。蘇我氏物部守屋を追い詰める為に皇子を次々に滅ぼし、物部守屋が擁立する事の出来る皇子が不在となる状態にしたのです。これで朝廷には物部連氏に味方する勢力は無くなった事になります。ライバルを手段を選ばす蹴落とす為とは言え、史上稀に見る極悪な所業ですね。しかし此の事は逆に言えば『物部守屋を追い詰める為だけに擁立した皇子』を生み出した事になります。

馬堀喜孝画伯の用明天皇です。此の方は厩戸皇子(聖徳太子)の父君です。厩戸皇子蘇我氏は縁戚関係がございます。
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後に記紀の編纂を死ぬ前に大急ぎで主導した藤原不比等が自身の出自である中臣鎌足の正当性を主張する為に蘇我氏を悪く書かせているのかは今となっては誰も分かりませんが、記紀にはあまり良く書かれてておりません。

此れは丁未の乱が終わった後の話しとなりますが、物部守屋を追い詰める為だけに擁立した泊瀬部皇子が即位して第32代崇峻天皇となります。しかし元々馬子が擁立しようとしていたのは堅塩姫の系統であり、小姉君系の泊瀬部皇子は物部守屋を追い詰める為だけに擁立した大王だったのです。政治の実権は馬子が握り、崇峻天皇は傀儡の様な扱いを受けたのです。

崇峻天皇は怒っていたと思われます。
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そんな馬子を崇峻天皇が憎んでいるという噂が立ちました。此れに対して馬子は何と崇峻天皇を暗殺してしまったのです。此の時の実行薬は馬子の配下である倭漢氏の『駒』と言う人物です。駒は実行後に口封じで殺されてしまいます。時が前後しますが、その後の大王(オタキミ)は馬子の姪である推古天皇です。天皇が『臣下に暗殺された』事は此れが唯一の事例です。歴史に詳しい方なら此の様に思うかもしれません。今回は物部連氏が主体なので書きませんが、乙巳の変蘇我入鹿が打たれた後に推古天皇を中心に厩戸皇子が政治を執るのですが、両人とも蘇我氏の血筋なのです。

蘇我蝦夷と馬子の邸宅跡かと言われる遺跡も見つかってます。   四国新聞より
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こうして西暦587年に蘇我氏物部守屋に戦を仕掛けたのです。此れを『丁未の乱』と言います。此の時代の大王家は力のある臣下に振り回されるておりました。物事は転写すると言います。もしかしたら皇祖神である天照大神が天岩戸にお隠れになったのは、色々問題のあった八百万の神々に対し『もう勝手にしなさい』と言う感じだったかも知れないと妄想しております。

今回は此処までと致します。来週は蘇我馬子物部守屋の全面対決となります。また物部守屋大連の他に其の戦いで散った英傑もご案内する予定です。

別系統の神器 十種神宝 物部編  6

物部連氏の統領は伊香色雄(イカシコオ)から物部十千根(モノノベノトオチネ)に移ります。此の親子のおかげで物部連氏の躍進が始まってまいります。

当時の武官はどんな衣装で宮中に参内していたのでしょうか。写真は200〜300年程時代が下った頃の武官の着ていた朝服です。朝服とは官人が朝廷に出仕するときに着用した衣服の事です。衣服の歴史も結構面白いモノが有ります。此方は刀剣ワールドさまのHPより
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大王(オオキミ)の勅命で剣を千本も創りあげた五十瓊敷命(イニシキイリヒコ)も老いには勝てず、石上神宮神宝の管掌権を妹の大中姫(オオナカツヒメ)に任せましたが、大中姫は其の重職を全うするには心許ない事から職を辞し、御神宝の管掌を伊香色雄(イカシコオ)の子供である物部十千根(モノノベノトオチネ)に任せたのです。逆に思えば重職を任せられるだけの力が有ったと思われます。

此れ以後は代々物部連氏が石上神宮の御神宝の管理を行なって行きました。十種神宝を携えて降臨した饒速日命の後裔として、石上神宮の神宝を管理する事は一族が強く願っていた事だと思われます。

時代は垂仁天皇の御代でした。此方の絵は馬堀方眼喜孝画伯の垂仁天皇です。
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垂仁天皇は更に物部十千根を五大夫(イツタリノマエツキミ)の一人としました。また、『物部連公』の賜姓を発し、更に大連(オオムラジ)に任じたのです。大連と言ってもピンと来ないと思いますが、飛鳥時代以後に左大臣と右大臣に改められますが、其の前は大臣と大連だったのです。此れは超破格の出世です。

垂仁天皇と言えば此の時代に相撲の起源となる天覧試合が行われておりました。
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戦ったのは野見宿禰(ノミノスクネ)と當麻蹶速(タイマノケハヤ)です。蹶速(ケハヤ)とはキックが得意だったのかは分かりませんが兎に角強かったみたいです。一方の野見宿禰は出雲で1番の剛の者でした。此の天覧試合は野見宿禰が勝ったそうです。此の力比べが日本の国技である相撲の始まりです。買った野見宿禰はただの力持ちでは無く、其れ迄は大王が崩御すると臣下の殉死が習わしとなっており、古墳の周囲に生き埋めにされました。しかし人間の代わりに埴輪を埋める案を出したところ、此れが大変喜ばれ、埴輪を造る役目である土師臣(はじのおみ)という姓を賜ったのです。野見宿禰の末裔である土師氏は其れ以後大王(オオキミ)の葬儀や古墳造営を司る一族となりました。土師氏から出た一族には菅原氏があり、其処から有名な菅原道真が出ております。

幕末から明治にかけて活躍した彫刻家の安本亀八が製作した『相撲生人形』です。スモウイキニンギョウと読みます。生人形とはまるで生きている様に精巧な細工をほどこした人形の事です。安本亀八翁の傑作ですね。
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力の入った野見宿禰の額には生々しい青スジが浮き出てます。
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当麻蹴速は苦しそうです。蹴速は此の死合で死にました。相撲の起源は力人による素手の死合だったのです。
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個人的に大好きな『国技である相撲』の起源だけに、かなり脱線してしまいました。申し訳ありません。本文に戻ります。

物部十千根(モノノベノトオチネ)が賜った大連(オオムラジ)とは、此の時代のヤマト朝廷における最重要職の一つで有り、大王(オオキミ)の補佐として執務を行う役目でした。大臣と比べると特に軍事面の特色が強い役職です。此の時代の大連には物部連氏と大伴氏が務めております。大連となった十千根は全国の物部達を統治する者とされました。同時期に大連だった大伴氏とは瓊瓊杵尊と一緒に降臨した天津神である天忍日命(アマノオシヒノミコト)の末裔となります。古代は神さまだらけですね!

伊香色雄(イカシコオ)と十千根(トオチネ)親子は物部連氏の中興の祖であった事は間違い有りません。ハッキリとは言えませんが、此の親子で饒速日命から数えて4代目〜6代目あたりです。

写真の武人は埼玉古墳群(サキタマコフングン)の資料館にあった古代の武人像です。
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物部十千根が活躍した時代の垂仁天皇は第11代ですが、此の像は第21代の雄略天皇の時代のモノだと思われます。伊香色雄(イカシコオ)と十千根(トオチネ)親子も此の様に勇ましく戦っていたと考えます。霊剣である布都御魂と先祖が降臨の際に天照大神から授かった十種神宝の霊力を持って『まつろわぬ者達』と戦っていたと思うと私の頭は妄想の渦が巻いてしまい治りません(笑)。

此の後十千根の子供である物部胆咋(モノノベノイクイ)は先代旧事本紀と言う文献に物部十千根大連の子として記録が有ります。胆咋は成務天皇の時代に大連となり、引き続き父の代から務める石上神宮での御神宝管掌の任に継いておりました。

時代は成務天皇から仲哀天皇となり、物部胆咋仲哀天皇熊襲討伐に四大夫として従軍しております。他は大伴氏、中臣氏、三輪氏です。思えば錚々たるメンツですね。此の仲哀天皇の父は有名な日本武尊(ヤマトタケル)です。そして子供は八幡様(応神天皇)です。何故に熊襲を征伐しないといけたかったかと言うと、無理もない事情が有るのです。

熊襲は鹿児島県を中心とした地域ですが、土壌は水が沁みて水田が造れないシラス大地が殆どなのです。従って倭朝廷の根幹である備蓄食料としてのお米が生産出来ず、代わりに人夫を出しておりました。しかし人夫が事故や戦で没してしまうと新たな人夫を出さなければ成りません。しかし兵役は16歳からなので、人夫が足りないと役人が言って来ても、人的資源は直ぐに補充が出来ないのです。頑張っても16年と十月十日かかってしまうのです。やがては此の事が元で不満がたまり.『ふざけんじゃね〜』っとなって反乱となるのです。倭朝廷は稲作を根源とした統治方法だったので仕方のない事なのですが、なんだかとっても不憫な話ですね。

日本武尊(ヤマトタケル)の子供である仲哀天皇のお妃は最強の皇后として名高く『三韓征伐』を成し遂げた『神功皇后』です。仲哀天皇熊襲征伐の為に儺県(ナガアガタ)に向かい、橿日宮(カシイノミヤ)に居た時に俄かに神功皇后に御神託が降ったのです。

橿日宮(カシイノミヤ)は福岡県福岡市東区香椎に現在も香椎宮として残っております。香椎宮のHPより
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御神託の内容として『今は熊襲を責めるのでは無く、海の向こうの光り輝く黄金の国である新羅を攻めろ』と言うものです。しかし仲哀天皇は此処まで来て熊襲を攻める事を中止するのを躊躇いました。そうしましたら、仲哀天皇は急に病に倒れてしまい、そのまま崩御されてしまったのです。その後は妃である神功皇后が御神託の通りに新羅に攻め込み、新羅だけでなく百済高句麗まで服属させたのです。愛する仲哀天皇を亡くし失意に沈む隙も無かった事だと思います。

持田大輔氏の描いた神功皇后の絵です。
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仲哀天皇の子である応神天皇をお腹に宿しながら、冷たい石を衣の下に抱いてお腹を冷やし出産を遅らせて海を渡ったのです。後にも先にも神功皇后程凄いお母さんは他には居りません。持田氏の絵にも気高さと強い意志が伺えます。鎌倉時代に元によって朝鮮半島が統一された後に起こった蒙古襲来を除けば、最強武装国家であった随や唐の時代に此処に緩衝地帯(チャイナとは違う国家)が存在するおかげで日本は助かったのです。御神託は間違い無かった事は後に判明した事になりますね。

神功皇后新羅征伐に向かう前に此の度の遠征が神意の通りであるか釣った魚で占ったという故事が有ります。其の魚は『魚』で『占』と書いて『鮎』で有り、鮎と言う文字の成り立ちになっております。
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その後の神功皇后に仕えたのは物部胆咋(モノノベノイクイ)の子である物部五十琴(モノノベノイコト)でした。五十琴も天皇本紀に神功皇后の時代に大連となったと記載があります。此の後の物部連氏は暫く文献に登場せずに第17代履中天皇の時代になって宇摩志麻遅(ウマシマジ)から十世の孫として物部伊莒弗大連(モノノベノイロフツオオムラジ)が朝廷内で執政に任官したと記載されております。この間の物部連氏の動向は謎に包まれておりますが、物部連が文献に出て来ない時代の大王(オオキミ)は応神天皇仁徳天皇で有り、比較的有名な2人なのですが、此の2人の治世下には多くの帰化人が来訪している事を思うと、物部連氏は国内の方に力を入れ、秦氏を代表とする帰化人には葛城氏などが其の任にあたっていたと考えられます。此の葛城氏は最強の一族でしたが大王家に滅ぼされてしまいました。葛城氏は渡来人の総元締め的な役割をしており、其の力を受け継いでいったのが蘇我氏となると思います。蘇我氏については後に触れます。

此の頃の大王(オオキミ)家では同族間の争いが増しており、元から物部連氏が持っていた役職である解部(ときべ)と言う裁判官のような役人が取り仕切る盟神探湯(クガタチ又はメイシンタントウ)により、多くの中央豪族が粛清されていきました。

盟神探湯(クガタチ又はメイシンタントウ)です。写真の煮えたぎる釜に手を入れているのは武内宿禰です。左の火傷されている方の顔がリアル過ぎますね。
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こうして物部連は大王家での地位を固めて行ったのです。此の後は第10代崇神天皇の時代になります。相変わらず大活躍の物部氏ですが、崇神天皇によって滅ぼされた渡来人の総元締めだった葛城氏の力を受け継いだ蘇我氏が仏教が広まる事によって力を付けていきます。此の事が後にどうなるのかは、当時の物部氏は知る由も有りません。

次回に続きます。

別系統の神器 十種神宝 物部編  5

今週は古代豪族で一番の勢力を誇った物部氏の発祥と推移をご案内させて頂きます。物部連氏の発祥は河内國の大和川下流域であったと言われております。其処に饒速日命が天ノ磐船で降臨し、此の地を治めていた長髄彦を帰順させました。長髄彦は妹である三炊屋媛 (ミカシキヤヒメ)を饒速日命の妃として差し出しましたのです。饒速日命と炊屋媛(ミカシキヤヒメ)の間に産まれたのが宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)と言います。帰順してからはヤマト朝廷を表から裏から支えてまいりました。後ほど後裔のなかで抜群の働きをした宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)の子孫を紹介してまいります。

ます、私が物部氏が好きな理由として、武士(もののふ)の語源になった事。『新撰姓氏録』では神別に分類され、謎の神である饒速日命の末裔である事、私が心から崇敬する諏訪大社のシャーマンの家系である洩矢一族に物部武麿が養子に入っている事などがごさいます。物部連氏と諏訪の洩矢一族は太古から交流が有ったのです。どの時点で養子に入ったかは次回以降に系図をご紹介させて頂きます。

久宝寺遺跡は物部氏の居館跡と考えられております。大阪府ノHPより
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奈良県大和郡山市矢田町に鎮座する矢田坐久志玉比古神社(ヤタニイマスクシタマヒコシンジャ)です。久志玉比古とは饒速日命の別名となります。饒速日命が天磐船で降臨された時に船から三本の矢を射ると此の場所に突き立ったと伝わります。それ故に此の場所に宮を造ったとされてます。住宅街の中にボツッとある神社だと写真を撮影した近隣に住む部下が言っておりました。
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饒速日命の天磐船は飛行機を連想させ、航空祖神として崇敬さらておりました。陸軍で実際に運用された九一式戦闘機のプロペラが奉納されております。
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話は戻りますが、此処でお含み頂きたい事として『物部』とは役職の名前で有り、どの部族にも物部の役割をする者が居たのです。全国に存在する物部と後に大連(オオムラジ)の役職となる物部連氏は違うという事になります。今回ご案内させて頂くのは饒速日命と其の息子の宇摩志麻遅命を始祖とする物部連氏の事となります。

此の饒速日命の子孫が物部連氏です。此方の絵も持田大輔氏の描いたものです。記紀を正確に反芻し脳裏で何度も想像しないと此のような絵は描けません。
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イワレビコに帰順した後の物部連氏は伴造(トモノミヤツコ)として部民の中の物部達を束ねておりました。伴造とは大和朝廷の中のただの首長となります。部民とは大化の改新前までの一族集団の事です。物部連氏は同時に解部(トキベ)という役職を持ってました。解部とは簡単に表現すると裁判官です。

つまり物部連はヤマト朝廷支配地域内におけふ警察権を持ち、同時に裁判官のような司法権も持ち合わせていたと言う事になります。裁判と言っても荒っぽいもので盟神探湯(クガタチ又はメイシンタントウ)というやり方で有罪か無罪か判断してました。

此方が盟神探湯です。煮えたぎる熱湯の中に手を入れて火傷しなければ神仏の加護が有るので無罪、火傷したら有罪となる強烈な証明の仕方です。左の方は腕が真っ赤なので火傷されてますね。また、毒蛇を入れた唾の中に手を入れるというやり方もあったそうです。だだ毒の無い蛇をいれて有るとか、熱くないぬるま湯を入れるかは解部(ときべ)を統率する物部連氏の胸の内ひとつとなる訳です。誰も逆らえませんね!
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そんな物部連氏から伊香色雄(イカシコオ)と言う人物が出て来ます。伊香色雄は有名な崇神天皇に仕えておりました。この崇神天皇は力の有る豪族を次々に滅ぼして中央集権国家の屋台骨を造られた凄い大王(オオキミ)なのです。伊香色雄の色雄(シコオ)とはブ男の意味では無く、強く頑健な偉丈夫な男と言う意味です。従って伊香色雄とは伊香に住んでる屈強な男という意味だと思います。

崇神天皇 Wikiより
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この暴れん坊だった崇神天皇に伊香色雄(イカシコオ)が献身的に仕えた事で重用される様になりました。此の時代は国中に疫病が蔓延し人口の半分が死亡する事態となり、困り果てた崇神天皇の夢に大物主の神が現れ『我が子孫である大田田根子をもって我を祀れば立ちどころに平穏となる』と告げたのです。早速崇神天皇は伊香色雄(イカシコオ)を神班物者(カミノモノアカツヒト)に任じました。そして伊香色雄は大物主の末裔として大田田根子を見出したのです。こうして三輪山大物主神を祀る祭司の役目を大田田根子が務めるようになってからは疫病が治ったそうです。人口の半分が死ぬとは凄まじい疫病ですね。因みに神社にある手水舎とは、此の時代に疫病を防ぐ手段として崇神天皇が推奨させたものです。

三輪山御神体とする大神神社です。大和國一宮であり、日本最古の神社と言われております。写真は拝殿です。大神神社のHPより
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此の伊香色雄(イカシコオ)の活躍は物部連氏の飛躍につながり、一豪族の首長から一気に中央に駆け上がるキッカケとなりました。物部連氏の自領から簡単に大物主の末裔が見つかるなんて出来過ぎなのですが敢えて考察は省きます。

大阪府枚方市にある意賀美神社(オカミジンジャ)です。伊香色雄(イカシコオ)の邸内にあったと伝えられる神社が現在も残っております。古代には枚方(ひらかた)に伊香郷と言う地名があったと言われております。日本の凄いところは此の様に歴史の一端を神社の口伝として残している事であり、実に民族として誇りに思える事ですね。
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崇神天皇が創建し、十種神宝と布都御魂剣を奉った石上神宮はヤマト朝廷の武器庫という一面も有りました。第11代垂仁天皇の皇子である五十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)が統括しておりました。この皇子は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや)と言う所で剣を一千口造って石上神宮に奉納し、以後は五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌しておりました。菟砥川上宮と言えば、物部連氏の領地となり、物部という役職から当然協力したものと思われます。

剣を千本造ると言う事は、刀剣趣味を持つ私の思うに時代的背景も考慮すると大変な大事業です。垂仁天皇と言えば時代は3世紀〜4世紀おなり、上古から製鉄技術を持つ日本でも相当な専門要員が必要になります。

砂鉄からの際鉄はこんな感じになります。炉を造り、吹子を装着して沸かすのですが、更に徹床や焼き入れ用の石船も必要になります。された更に鞘師などの外装部分の職人も必要なのです。こんな炉を幾つも造り倭鍛冶が鍛造したんだろうと思います。
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日本書紀によると日本最初の鍛冶として現れるのが天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と言う神であり、一族は鍛人天津麻羅(カヌチアマツマラ)と呼ばれております。此の神さまは文字通一つ目の神さまです。

面白い事に妖怪にも一本タタラと言う種類があります。其れも奈良県(ヤマト)の妖怪なのです。奈良県歴史文化資料データベースさまより
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此の鍛冶の祖神の子孫は倭鍛冶(ヤマトカヌチ))として代々朝廷に仕えました。子孫も一つ目かどうかは私の知るところでさございません(笑)。

崇神天皇天目一箇神の後裔に神剣を造らせたとございますので十瓊敷入彦命(イニシキイリヒコ)も彼等の力を最大限に利用したと思われます。垂仁天皇は第十一代ですが、此の後に第十五代の応神天皇の時代に百済から韓鍛冶(カラカヌチ)がまいります。日本人のすごいところは、此のような渡来の技術と和合し技術をて進化させるところだと思います。

最後に脱線して申し訳有りません。
次回に続きます。

別系統の神器 十種神宝 4

本文の前に

この度の能登を中心とした大地震尊い命を亡くされた方々のご冥福を祈ると共に、被災された方々の一日も速い安寧を赤心からお祈り申し上げます。個人的に私の恩師親子も被災しており、心配で仕方有りません。特に高齢のお母さんの御体調が心配です。

本文に入ります。

前々回に書いた通り、饒速日命の妃神は長髄彦の妹である三炊屋媛 (ミカシキヤヒメ)になります。二神の御子神さまは宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)と言います。

持田大輔氏の描いた宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)てす。何とも勇ましく凛々しい益荒男に描かれてますね。宇摩志麻遅命イワレビコの一族と共に進む事を決めておりました。
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実は此の宇摩志麻遅命こそ古代豪族の頂点を極め、武士(モノノフ)の語源となった物部氏の先祖となります。故に物部氏天孫である饒速日命の血と、勇猛だった長髄彦の妹の血を引き継いでいるのです。天皇家にとっては始祖からお仕えしていた氏族になりますね。物部連氏(モノノべムラジウジ)のその後はかなり長くなるので次回以降にご案内致します。

さて十種神宝の話ですが、此の記号の様なモノが現在のところ一般的に知り得るものです。本当に此れしか伝わっていないのです。恐らくは授かった時から宝物は箱に納められ、以後は誰も見た事が無いと思われます。知っているのは天照大神のみですね。
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持田大輔氏の描いた最高神天照大神です。持田大輔氏の描いた絵はどれも素晴らしい筆で感じ入っております。
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此方は功有った者に陛下より送られる勲一等瑞鳳章です。此方の意匠は饒速日命宇摩志麻遅命イワレビコに奉った十種神宝に由来しているデザインと言われております。最高の勲章を三種の神器では無く、十種神宝を意匠に用いている事に深い意味を感じますね。
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カムヤマトイワレビコより始まった大王(オオキミ)家では天津御祖(アマツミオヤ)から授かった三種の神器と十種神宝などを宮中にお祀りしておりましたが、其の霊威は凄まじく、第十代崇神天皇の時に勅命によって布都御魂剣と十種神宝を大和國郡山にある石上邑(イソノカミ村)に移したと伝わります。石上神宮は其の時に創建されました。伊勢神宮が次の垂仁天皇の時代に創建されましたので、何と石上神宮伊勢神宮より古いという事になります。因みに崇神天皇天照大神(八咫鏡)と倭大國魂神も其の神威の強さを畏れ、宮の外で祀る事にしたと有ります。此れには深い訳が有りますが、長文となり過ぎ、此処では省きます。

石上神宮です。第十代崇神天皇が創建致しました。
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有名な『七支刀)も石上神宮に保管されております。
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さて崇神天皇により宮中から出され、石上神宮に治められた十種神宝の説明に入りますが、古来から十種神宝には『国家の盛衰や死人も生き返らせる霊力が備わっている』とされております。物部守屋丁未の乱で滅び、物部の古神道も現在は正確に伝える者はおりませんが、物部連氏の本拠地である石上神宮には脈々と古の祝詞が多く伝わっております。其の中でも今回お話するのは『布瑠の言』と言います。

物部連氏最後の棟梁である物部守屋です。現在は諏訪の守屋山で安らかに眠っております。何故信州の諏訪が出てくるのかは次回以降ご案内致しますね。
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詳しくは話せませんが、21年ほど前に私の近しい友人が実際に十種神宝の霊威のおかげで不治の病が癒えました。神職が仕えている神社や『撫で紙』と言われるもの朱色で書いてあった文字を当事者の家族から聞きましたが、乏しい私の知識では全く理解不能でした。其れも正確な記憶が2枚分程しかなかったので辞書で調べたところ、其の朱色の文字は十種神宝の名前だと分かったのです。まだスマホも持っていない時代でしたので何冊か本を買って調べたりしておりましたら、其の事が饒速日命神武天皇に奉った御神宝だったと分かり驚きました。此のシリーズを始めたのも此の古神道の古い言伝えをご案内したかった事もごさいます。饒速日命自体が一般的には知られておらず、話が長くなる事と変な誤解を受ける可能性も有るのでブログに綴ろうか迷っていたのが正直なところです。因みに申し上げますと、私はスピチュアルの世界とは全く無縁な男なのです。神仏は崇敬こそすれ、頼るものでは無いといとい吉川英治好きな父の教えなのです。

以下は十種神宝の名です。正式には天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)と『先代旧事本紀』に明記されており、誰も見た事が無いので記号のようなもので伝わっております。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
足玉(たるたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(へびのひれ)
蜂比礼(はちのひれ)
品々物之比礼(くさぐさのもののひれ)

沖津鏡(おきつかがみ)は如何なる時でも遠くを写せる鏡であり、高い場所に置く鏡。

辺津鏡(へつかがみ)は近くに置き、人の内面までも映しだす鏡。

八握剣(やつかのつるぎ)は国内や組織の中の邪気を打ち払い安定をもたらす霊力を秘める剣。

生玉(いくたま)を手にすると全ての生き物が生きながらえる事が出来る玉。

足玉(たるたま)は五体満足となる霊力を持つ。

死返玉(まかるかへしのたま)は死者を甦らせる霊力を持つ。

道返玉(ちかへしのたま)は、間違った事を正道に戻す霊力を持ちます。

蛇比礼(へびのひれ)は蛇から身を守る霊力を持ちます。

蜂比礼(はちのひれ)は毒虫から身を守る霊力を持ちます。

品々物之比礼(くさぐさのもののひれ)はあらゆる邪気を祓い清める霊力を持ちます。

比礼(ヒレ)ってなんだろう?と思われる方が大半だと思いますので日本服飾史さんのHPから引用させて頂きました。ストールの長いヤツとお考え下さい。
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饒速日命は此の十種神宝を携えて天磐船に乗って河内国河上哮ヶ峯に降臨致しました。此の神宝こそ古神道最大の秘宝なのです。饒速日命の子である宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)は十種神宝を使って神武天皇の長寿を願う鎮魂祭を行ったと言われております。十種神宝には布瑠御魂大神が宿っております。鎮魂祭はイワレビコの御霊を鎮め、凡ゆる災難を取り除き長寿と国家の安泰を願う祭祀なのです。其れは『布瑠部神言』として伝わっております。『布瑠』とは『振る』に通じ、文字通りユラユラと振るわせる事だと伝わります。

 

以下が『布瑠の言』となります。

一 二 三 四 五 六 七 八 九 十
ひ ふ み よ い む な や ここのたり 

布瑠部  由良由良止  布瑠部
ふるべ  ゆらゆらと  ふるべ

此の『布瑠の言』は現在も石上神宮に伝わる祝詞の一つです。『言』は『事』につながり、現代で言う言霊となります。元々の大和言葉は一語一義と言って一文字づつに意味が有ると言います。しかし此の『布瑠の言』だけは別格の霊威を持っているのです。宮中では十種神宝の霊威を持って鎮魂の祭司を行い、天皇の御霊を鎮め、国家の安泰を願う祭祀が行われていると聞いております。

ひふみ....は十種神宝を現しており、其の神宝をユラユラ揺らして『布瑠の言』を唱えると死者も蘇り、国家の盛衰も左右すると言われているのです。天津神々の秘術と行っても過言では有りませんね。話が大分スピリチャル系になってしまって申し訳ありませんが、此れは全くスピリチャルでとは無関係です。『布瑠の言』は自らの魂を活性化させる効用が高いと聞きます。

石上神宮の御祈祷の風景です。石上神宮のHPより
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以下は先に綴った知人の病が治った話の続きです。知人とは大学で同じ釜の飯を食べた仲です。神職が祈祷を行った後に、友人の父君が神職の方から聞いた話しを、後にお見舞いに伺った私に教えくれました。分かり易く要約すると次のようになります。

恐らくは誰もが肯定出来る話だと思いますが、何か日常の些細な出来事などのうち、此れは余り良い行いではないなと思う事が有ったり、自分なりに良い事したと思う事が有ると思います。此の気持ちは生きると言う本能のみで行動する生物は持ち合わせておりません。

良心が痛むという話しがよくありますが、其の良心を『仮に』内在する神としましたら、良心が痛むのは内在する神が、其の行為を否定しているからであるとの事です。逆に良い事をすると内なる神は大喜びとなり、其の神を内在する本人が光り輝き元気になります。悪いと思う事を繰り返すと、其のうち悪いと思わなくなります、其れは何時の間にか内なる神が居なくなっている事だそうです。鎮魂は内在する神の御霊を鎮め神にお元気になって頂く事と仰っていたそうです。実に興味深い話ですね!

次回は物部連氏の話を致します。