みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

別系統の神器 十種神宝 4

本文の前に

この度の能登を中心とした大地震尊い命を亡くされた方々のご冥福を祈ると共に、被災された方々の一日も速い安寧を赤心からお祈り申し上げます。個人的に私の恩師親子も被災しており、心配で仕方有りません。特に高齢のお母さんの御体調が心配です。

本文に入ります。

前々回に書いた通り、饒速日命の妃神は長髄彦の妹である三炊屋媛 (ミカシキヤヒメ)になります。二神の御子神さまは宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)と言います。

持田大輔氏の描いた宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)てす。何とも勇ましく凛々しい益荒男に描かれてますね。宇摩志麻遅命イワレビコの一族と共に進む事を決めておりました。
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実は此の宇摩志麻遅命こそ古代豪族の頂点を極め、武士(モノノフ)の語源となった物部氏の先祖となります。故に物部氏天孫である饒速日命の血と、勇猛だった長髄彦の妹の血を引き継いでいるのです。天皇家にとっては始祖からお仕えしていた氏族になりますね。物部連氏(モノノべムラジウジ)のその後はかなり長くなるので次回以降にご案内致します。

さて十種神宝の話ですが、此の記号の様なモノが現在のところ一般的に知り得るものです。本当に此れしか伝わっていないのです。恐らくは授かった時から宝物は箱に納められ、以後は誰も見た事が無いと思われます。知っているのは天照大神のみですね。
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持田大輔氏の描いた最高神天照大神です。持田大輔氏の描いた絵はどれも素晴らしい筆で感じ入っております。
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此方は功有った者に陛下より送られる勲一等瑞鳳章です。此方の意匠は饒速日命宇摩志麻遅命イワレビコに奉った十種神宝に由来しているデザインと言われております。最高の勲章を三種の神器では無く、十種神宝を意匠に用いている事に深い意味を感じますね。
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カムヤマトイワレビコより始まった大王(オオキミ)家では天津御祖(アマツミオヤ)から授かった三種の神器と十種神宝などを宮中にお祀りしておりましたが、其の霊威は凄まじく、第十代崇神天皇の時に勅命によって布都御魂剣と十種神宝を大和國郡山にある石上邑(イソノカミ村)に移したと伝わります。石上神宮は其の時に創建されました。伊勢神宮が次の垂仁天皇の時代に創建されましたので、何と石上神宮伊勢神宮より古いという事になります。因みに崇神天皇天照大神(八咫鏡)と倭大國魂神も其の神威の強さを畏れ、宮の外で祀る事にしたと有ります。此れには深い訳が有りますが、長文となり過ぎ、此処では省きます。

石上神宮です。第十代崇神天皇が創建致しました。
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有名な『七支刀)も石上神宮に保管されております。
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さて崇神天皇により宮中から出され、石上神宮に治められた十種神宝の説明に入りますが、古来から十種神宝には『国家の盛衰や死人も生き返らせる霊力が備わっている』とされております。物部守屋丁未の乱で滅び、物部の古神道も現在は正確に伝える者はおりませんが、物部連氏の本拠地である石上神宮には脈々と古の祝詞が多く伝わっております。其の中でも今回お話するのは『布瑠の言』と言います。

物部連氏最後の棟梁である物部守屋です。現在は諏訪の守屋山で安らかに眠っております。何故信州の諏訪が出てくるのかは次回以降ご案内致しますね。
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詳しくは話せませんが、21年ほど前に私の近しい友人が実際に十種神宝の霊威のおかげで不治の病が癒えました。神職が仕えている神社や『撫で紙』と言われるもの朱色で書いてあった文字を当事者の家族から聞きましたが、乏しい私の知識では全く理解不能でした。其れも正確な記憶が2枚分程しかなかったので辞書で調べたところ、其の朱色の文字は十種神宝の名前だと分かったのです。まだスマホも持っていない時代でしたので何冊か本を買って調べたりしておりましたら、其の事が饒速日命神武天皇に奉った御神宝だったと分かり驚きました。此のシリーズを始めたのも此の古神道の古い言伝えをご案内したかった事もごさいます。饒速日命自体が一般的には知られておらず、話が長くなる事と変な誤解を受ける可能性も有るのでブログに綴ろうか迷っていたのが正直なところです。因みに申し上げますと、私はスピチュアルの世界とは全く無縁な男なのです。神仏は崇敬こそすれ、頼るものでは無いといとい吉川英治好きな父の教えなのです。

以下は十種神宝の名です。正式には天璽瑞宝十種(あまつしるしみずたからとくさ)と『先代旧事本紀』に明記されており、誰も見た事が無いので記号のようなもので伝わっております。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
足玉(たるたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(へびのひれ)
蜂比礼(はちのひれ)
品々物之比礼(くさぐさのもののひれ)

沖津鏡(おきつかがみ)は如何なる時でも遠くを写せる鏡であり、高い場所に置く鏡。

辺津鏡(へつかがみ)は近くに置き、人の内面までも映しだす鏡。

八握剣(やつかのつるぎ)は国内や組織の中の邪気を打ち払い安定をもたらす霊力を秘める剣。

生玉(いくたま)を手にすると全ての生き物が生きながらえる事が出来る玉。

足玉(たるたま)は五体満足となる霊力を持つ。

死返玉(まかるかへしのたま)は死者を甦らせる霊力を持つ。

道返玉(ちかへしのたま)は、間違った事を正道に戻す霊力を持ちます。

蛇比礼(へびのひれ)は蛇から身を守る霊力を持ちます。

蜂比礼(はちのひれ)は毒虫から身を守る霊力を持ちます。

品々物之比礼(くさぐさのもののひれ)はあらゆる邪気を祓い清める霊力を持ちます。

比礼(ヒレ)ってなんだろう?と思われる方が大半だと思いますので日本服飾史さんのHPから引用させて頂きました。ストールの長いヤツとお考え下さい。
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饒速日命は此の十種神宝を携えて天磐船に乗って河内国河上哮ヶ峯に降臨致しました。此の神宝こそ古神道最大の秘宝なのです。饒速日命の子である宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)は十種神宝を使って神武天皇の長寿を願う鎮魂祭を行ったと言われております。十種神宝には布瑠御魂大神が宿っております。鎮魂祭はイワレビコの御霊を鎮め、凡ゆる災難を取り除き長寿と国家の安泰を願う祭祀なのです。其れは『布瑠部神言』として伝わっております。『布瑠』とは『振る』に通じ、文字通りユラユラと振るわせる事だと伝わります。

 

以下が『布瑠の言』となります。

一 二 三 四 五 六 七 八 九 十
ひ ふ み よ い む な や ここのたり 

布瑠部  由良由良止  布瑠部
ふるべ  ゆらゆらと  ふるべ

此の『布瑠の言』は現在も石上神宮に伝わる祝詞の一つです。『言』は『事』につながり、現代で言う言霊となります。元々の大和言葉は一語一義と言って一文字づつに意味が有ると言います。しかし此の『布瑠の言』だけは別格の霊威を持っているのです。宮中では十種神宝の霊威を持って鎮魂の祭司を行い、天皇の御霊を鎮め、国家の安泰を願う祭祀が行われていると聞いております。

ひふみ....は十種神宝を現しており、其の神宝をユラユラ揺らして『布瑠の言』を唱えると死者も蘇り、国家の盛衰も左右すると言われているのです。天津神々の秘術と行っても過言では有りませんね。話が大分スピリチャル系になってしまって申し訳ありませんが、此れは全くスピリチャルでとは無関係です。『布瑠の言』は自らの魂を活性化させる効用が高いと聞きます。

石上神宮の御祈祷の風景です。石上神宮のHPより
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以下は先に綴った知人の病が治った話の続きです。知人とは大学で同じ釜の飯を食べた仲です。神職が祈祷を行った後に、友人の父君が神職の方から聞いた話しを、後にお見舞いに伺った私に教えくれました。分かり易く要約すると次のようになります。

恐らくは誰もが肯定出来る話だと思いますが、何か日常の些細な出来事などのうち、此れは余り良い行いではないなと思う事が有ったり、自分なりに良い事したと思う事が有ると思います。此の気持ちは生きると言う本能のみで行動する生物は持ち合わせておりません。

良心が痛むという話しがよくありますが、其の良心を『仮に』内在する神としましたら、良心が痛むのは内在する神が、其の行為を否定しているからであるとの事です。逆に良い事をすると内なる神は大喜びとなり、其の神を内在する本人が光り輝き元気になります。悪いと思う事を繰り返すと、其のうち悪いと思わなくなります、其れは何時の間にか内なる神が居なくなっている事だそうです。鎮魂は内在する神の御霊を鎮め神にお元気になって頂く事と仰っていたそうです。実に興味深い話ですね!

次回は物部連氏の話を致します。

別系統の神器 十種神宝 3

今週は神武東征の最終回で天神御祖(あまつかみみおや)から十種神宝を授けられた饒速日命が登場します。饒速日命の登場シーンはとにかく少ないのですが、記紀にはハッキリと神武天皇より前に天降っていた天孫族として記述があるのです。つまり天孫はニ系統有った事になります。

ヤマトを治めたイワレビコは橿原の地にて『建国の詔』を発します。我らの日本国は2,680年も前に世界にも全く類を見ない高い理想のうえに成立致しました。詔は原文と現代語訳を載せますので、其の前の東征軍の動きが駆け足となるかも知れませんが御許し下さい。

イワレビコが高倉下を通して受け取った布都御魂剣は石上神社に御神体として鎮座されておりますが、此方の写真は東京都世田谷区にある北澤八幡宮に奉納された布都御魂の写し物です。刀工として帝室技芸員に選ばれた宮本包則刀匠が八十三歳の時に打ち上げた渾身の作です。上古の刀剣によく見られる素環頭太刀の形態ですね(柄尻に丸い環がある太刀)。

尚、古事記日本書紀の内容には、かなりの差異が有りますので、一般的に認知されてされている内容を両国書よりランダムに選んで案内させて頂きます。
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国宝に指定されている古事記の写本です。稗田阿礼(ヒエダノアレ)が纏めていたものを太安万侶(オオノヤスマロ)が書き上げました。
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日本書紀は我が国初の『勅撰国史』です。舎人親王、紀清人、三宅藤麻呂らが編集したと言われております。『勅撰』とは天皇陛下からの『勅命』によって選ばれたと言う意味です。
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本題に戻ります。

兄神さまである五瀬命の御遺言通りにイワレビコは数々の苦難は有りましたが、八咫烏に導かれて日を背にして戦う為に進みました。やがて東征軍は大和の忍阪(オサカ)の岩室に到着されました。そうしたら尾の生えた土蜘蛛(まつろわぬ人々)の八十梟帥(ヤソタケル)が岩穴に隠れて待ち構え、唸り声をあげておりました。八十梟帥(ヤソタケル)とは多くの屈強な者と言う意味です。

此処でイワレビコは正面から戦うのではなく作を用いました。ご馳走を作って八十梟帥(ヤソタケル)達に振る舞ったのです。そして一人一人に現代で言うところの料理人を付けました。そして其の料理人達に剣を佩かせたのです。そしてイワレビコの歌を合図に料理人達は剣を抜いて八十梟帥(ヤソタケル)達を皆切り殺しました。兄の五瀬命と違ってイワレビコは戦巧者である事と、東征軍に歯向かう者には容赦しない傾向にありますね。平和な縄文人とは一線を画しております。

前回の記事には書いてませんが、宇陀において東征軍は兄宇迦斯(エウカシ)、弟宇迦斯(オトウガシ)と言う兄弟と対峙致しました。勝ち目がないと判断した弟の弟宇迦斯(オトウガシ)はイワレビコに帰順し兄を裏切りました。そして兄の兄宇迦斯(エウカシ)は自分が造った罠にはまり圧死したのですが、東征軍は其の骸を引き摺り出して切り刻み、周辺に撒き散らしたのです。其の地は『菟田の血原』と言う地名が付いて現在も伝わっております。弟宇迦斯は其の後に功名を重ね猛田県主(ウダノアガタヌシ)に抜擢されました。現在の宇陀市の支配者になれたのです。

更に東征軍は其の後に兄師木(エシキ)、弟師木(オトシキ)とも戦って勝ちましたが、軍の皆は疲れ果て腹が減ったと記紀にはあります。其処でイワレビコは鵜飼の者達に食べ物を運んで貰い、此れを食したと伝わります。

鵜飼の人達なら川魚が主菜の食事でしょうか。学生時代に此の項目を知り、テレビで見る鵜飼自体が2681年も前からの伝統漁法である事に驚いた事を覚えております。
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イワレビコ率いる東征軍はついに大勢力の長髄彦軍との戦いになりました。東征軍は日を背負い布都御魂剣と八咫烏を伴い戦っておりましたが、相手は最強戦士の長髄彦なので連戦致しましたが、勝てませんでした。此れは当たり前なのです。何故かと言うと実は長髄彦の主人もイワレビコと同じ天孫族饒速日命だったからなのです。

持田大輔氏の描いた悲劇の最強戦士である長髄彦です。
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少し話は外れますが、此の頃には長髄彦の嫡子である宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)は育っていたと思われます。また長髄彦には兄の安日彦が居り、難を逃れて東北に逃げたとも言われております。また長髄彦自身を安日長髄彦とする説も有ります。此の話は後にご案内致します。

話しを元に戻します。

イワレビコ率いる東征軍は長髄彦の軍との戦いを続けますが攻め手を見出せない状況でした。そんな戦いの最中、俄かに空が曇って氷雨が降ってまいりました。すると何処からともなく金色に輝く鵄(トンビ)が飛来し、イワレヒコの弓の先にとまりました。

Wikipediaにピッタリの写真がございました。
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初代神武天皇を勝利に導いた金鵄は勲章にも使われております。Wikiより
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イワレビコの持つ弓の上にとまった金色の霊鵄は、稲光りの様な眩しい光を発しました。盛強を誇る長髄彦軍は余りの眩しさに目が眩み大混乱となりました。長髄彦は此の様な事象は常の事ではないと考えたかどうかは分かりませんが、一旦戦いを中止し、自分の主人は饒速日命と言う天孫の神であり、天磐舟に乗って天下った。天孫の神子が二人も居るはずが無いと言いました。饒速日命側は天羽々矢一隻と歩靱(矢立の事)を見せ、イワレビコ天孫の証を饒速日命に見せたのです。イワレビコ饒速日命はお互いに此れは間違いないと認めました。こうして饒速日命イワレビコが皇祖の大詔によって高天原から天降った正統な君である事を理解し、一族を伴って帰順したのです。親が帰順したのですから、当然息子である宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)も帰順しております。

嫡流に大和を譲った饒速日命です。
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其れでも納得の行かない長髄彦は、いくら話しても信念を曲げる者ではないとされ、饒速日命に切り殺されたと言われております。この長髄彦の処分に際しては諸説がありますので次の機会にご案内致します。其の後、イワレヒコは日本の国の初代天皇として即位し、橿原に宮を造ったと言われております。


神武天皇の『建国の詔)は以下の通りです。
漢文なので下の現代語訳をお読み下さい。

三月辛酉朔丁卯 下令曰 自我東征於茲六年矣     
賴以皇天之威 凶徒就戮 雖邊土未淸 餘妖尙梗 而中洲之地無復風塵 誠宜恢廓皇都規大壯  
而今運屬此屯蒙 民心朴素 巢棲穴住 習俗惟常 夫大人立制 義必隨時 苟有利民 何妨聖造 且當披拂山林 經營宮室 而恭臨寶位 以鎭元元 上則答乾靈授國之德 下則弘皇孫養正之心 然後兼六合以開都 掩八紘而爲宇不亦可乎 觀夫畝傍山 東南橿原地者 蓋國之墺區乎 可治之

言葉を詳しく御伝えする事は難しいのですが、解釈の仕方は概ね合致すると思いますのでお許し下さい。

『私は人々の暮らしを良くする為に東征を行いました。天の力をお借りして抵抗する者は斃してきました。しかし私の力は国の端々までは及んでおらずに未だ戦乱が続いておりますが、私の治めている大和は平穏に治っております。まずは国の中心になる皇居を建造してまいります。しかるに国民の多くは近代化されておらず、私は気掛かりで仕方ないありません。民の多くは動物と同じ様に洞穴に住み、往古より生活様式が変わっておりません。それ故に御神勅によって掲げられた者が国の統率者にならなければいけません。時間は必要ですが、此の志は理解してもらえると思います。皆に有益な事柄であれば、どうして私の治世の妨げになるのでしょうか。其処で山林を切り開き皇居を造り、謹んで皇位について国民が安心安全に暮らせる様に邁進してまいります。上は天津の神々からお授け頂いた理想を受け継いだ国造りを目指し、下は瓊瓊杵尊が目指した御心を広げていきます。其の後は国を一つに纏めて都を創り、我が国の民が安全で安心して暮らせる、まるで家族が集まる家の様な国家を目指してまいります。此れは素晴らしい事ではありませんか。見渡せは畝傍山の東南の橿原の地が、他と比べても良い場所なので此処を国を治める場所としましょう』   以上

この文の中で神武天皇が一番言いたい事は、八紘一宇(はっこういちう)と言って国民が皆家族の様に安心して暮らせる国を目指すという内容です。          

この内容を子供の教育に1ミリも使ってないのが私は不思議でならないのです。八紘一宇の文言は戦後GHQによって禁止され、公文書から姿を消しましたが、其処から既に71年も経過しているのです。此の八紘一宇の精神こそ今の日本に必要な国民の目標(みちしるべ)だと強く思う次第です。

かつて日本軍の基地に掲げられた八紘一宇の旗です。Wikiのり
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宮崎県にある平和の塔です。日本中の石を集めて建造されました。そして秩父宮雍仁親王殿下の揮毫により『八紘一宇』と刻まれております。写真はWikiより
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八紘一宇の文字だけ拡大致しました。日本では古来八紘一宇の精神のもとで強いものは弱いものを助けるのです。故に日本は国際連盟の連盟憲章に『人種の平等』の文言を入れるように提案したのです。Wikiより
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此の塔を建造するに際し彫刻家の選出が行われました。そんななかで彫刻家の日名子実三氏が『報酬は一文もいらぬから是非自分にやらせて下さい』と言って名乗りをあげました。

日名子実三氏です。Wikiより
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この時代は此のような骨の有る益荒男が居たのですね。戦後は文字が消されたり、ロッククライミングの練習に使われたり、酷い扱いを受けた時代もありましたが、宮崎県の関係者のご尽力により復元されました。此の事を思うだけで目頭が熱くなります。正しく此の塔は日本の宝だと思います。

イジメが起こったり、自殺者が増えたり、子が親を殺したり、親が子を殺したりするのは、全ての国民を一つの家族にすると言うと建国の理想を知らないからだと思います。一生懸命働いて確り税金を払う事で国の役に立っていると言う考えが有れば退職者も減り企業も安定して国が潤います。悪い事は一つも無いのです。今こそ八紘一宇(はっこういちう)と言う神武天皇のお言葉を再認識する時だと思い次第です。

十種神宝も物部連の話も、まずは此の神武東征をザックリ理解しないと前に進みません。記紀には詳しく明記されておりますが、全てご案内すると20回以上となってしまうので、端折ってお伝えした事をお許し下さい。神武東征で一番ご案内したかった項目は此の『八紘一宇』でした。『八紘一宇』こそは我々大和民族の心の拠り処な言葉だと感じます。

次回に続きます。

別系統の神器 十種神宝 2

十種神宝の話までなかなか行き着けないのですが、今週も神武東征の話となります。此の話からでないと流れが分からず、其の後に続く物部連の話なども単発で書くと全くチンブンカンプンなモノになってしまうのです。どうかお許しください。

東征軍が安芸に立ち寄られた際に過ごした多祁理宮(タケリノミヤ)の顕彰碑が存在する多賀神社です。
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此の図は多賀神社さまのHPに有る神武東征のルートです。
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多賀神社にはイワレビコが腰掛けた石と伝わる石が有ります。
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前回は多くの神さまの神名を出してしまった為に非常に読み難いモノとなってしまいました。よって今回は先に登場する代表的な神々の神名を先にお出しする様に致しました。

五瀬命 イツセノミコト (神武天皇の兄神)
神武天皇 カムヤマトイワレビコ
饒速日命 ニギハヤヒノミコト(物部連の先祖)
長髄彦 ナガスネヒコ (故安倍総理の先祖)
三炊屋媛 ミカシキヤヒメ 長髄彦の妹で有り、饒速日命の后神です。この方の産んだ神が宇摩志麻遅命であり、物部連とつながります。
高倉下 タカクラジ (尾張連の先祖)
武甕雷命 タケミカヅチノミコト
 (国譲りに搭乗する神 鹿島神宮春日大社の祭神)
布都御魂剣 フツノミタマノツルギ    
 (天照大神の意思が鋒に宿る霊剣 )
高御産巣日神 タカミムスビノカミ
(天地開闢の時に出現された三柱の神さまうちの一柱となります 天照大神より格上です)
八咫烏 賀茂建角身命(カモタケツミノミコト)
八咫烏賀茂建角身命が化身したと言われてます。鴨氏の祖神としても有名です。

それでは前回の続きからご案内致します。

東征軍は白肩津(しらかたのつ)に着いたところを饒速日命を主人と仰いている長髄彦率いる軍隊に待ち伏ぜ受けて攻撃されてしまいました。長髄彦は自らの妹である三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)を饒速日命に嫁がせておりました。其の子供が宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)となり、物部連の祖神となります。

当時における遠間の武器は弓矢になります。東征軍の不利な条件として揺れる船の上での攻防だったと推測します。戦闘の最中に敵の放った矢がイワレビコの兄神さまである五瀬命(イツセノミコト)の腕に刺さりました。狙ったものとすれば長髄彦の見事な指揮となります。蒙古襲来時も鎌倉武士はモンゴル軍の司令官を狙い撃ちして此れを斃し撃退したのです。司令官が負傷した東征軍は総崩れとなりました。

五瀬命は『我々は日の神さまの子孫なのに日に向かって戦ったからいけななかったのだ。その為に手傷を負ってしまったのだ。今度は日を背負って敵を討とう』と仰せになり、今度は南に回り込んで敵の背後を取る作戦をとったのです。此処は大事なところなので強調して言いますが、大和民族は東に向かって闘う事は大凶となりますので皆様もご注意下さい。

日の出る方向の国と戦ったので負けたとも言えます。日を背にして戦った日露戦争日清戦争も、神功皇后三韓征伐も勝ちましたね。
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傷ついた五瀬命は海水で腕の矢傷を洗い清めました。出血が酷く海に血が広かった事から此の場所は茅渟(チヌ)の海と呼ばれる様になりました。漢字は当て字なので恐らくは血沼(チヌ)であろうと思います。

この事は紀伊国出身である渓友会の名誉会長に若い頃に教えて貰いました。若い頃はお金が無く(今も無いけど)、名誉会長に釣友会費(名誉会長のお財布)と言う名目で、たらふくご馳走になっている時に聞いた話しだったと記憶しております。とても有り難い名誉会長なのです。

この時代の鏃(ヤジリ)は銅製のものが使われていたと思います。後世のような強い鎧も無かった事から鏃を小さく鋭くする必要が無く、比較的に大型の鏃が多いのです。遺跡からはゴツい鏃が発掘されております。

同じ大阪府の雁屋遺跡て出土した銅製の鏃です。少し時代が降った辺りだと思います。こんなのが腕に刺さったら太い静脈や筋を簡単に断ち切りますね。大阪府のHPより
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五瀬命の指示通りに東征軍は日を背負って戦う為に南下し、紀伊の国にある雄水門(おのみなと)に着きました。上の神武東征ルートをご参照下さい。其の時に東征軍の司令官である五瀬命は手の傷が元で死んでしまいました。死ぬ直前に五瀬命は『卑しい奴に手傷を負わされて死ぬ事になるもは〜』と雄叫びをあげたと伝わり、雄叫びの『お』を取って雄水門(おのみなと)に呼ばれる様に成ったと言われております。イワレビコも頼りにしていた兄を亡くして悲しかったと思います。そうして此処からはカムヤマトイワレビコノミコトが東征軍の指揮を取る様になったのです。

和歌山市小野町(おのまち) に鎮座する水門吹上神社には男水門顕彰碑が有ると言います。wikiより
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和歌山市の和田という場所には五瀬命の墳墓が有ります。Wikiより
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死んでしまった五瀬命の言い付け通り、回り込む為に海路を通ったイワレビコ率いる東征軍は熊野に上陸したのです。そうしたら大きな熊が出現しました。

巨大月の輪熊 朝日新聞GLOBEさまより
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大熊は見えたり隠れたりして、やがて居なくなりました。その後イワレビコ率いる東征軍は急に体に異変を感じて伏せってしまったのです。当然イワレビコも同じ状態です。熊野の荒ぶる神の毒気にやられてしまったのです。

太陽を背にして戦うと決めた東征軍を天照大神高御産巣日神タカミムスビノカミ)は天界で其の様子をご覧になっておりました。日を背にして闘うと決め時から御真意を受けられるようになったのです。自分の血を受け継ぐ者たちが困っているのを見かねた天照大神と格上の大神である高御産巣日神タカミムスビノカミ)は、国譲りで活躍した武甕槌(タケミカヅチ)をお呼びになって相談したのです。武甕槌は『自分が行かずとも、国を平定した霊剣(布都御魂)が有るので、それを天より使わせばよい』と言いました。そうして下界にいた熊野の高倉下(タカクラジ)と言う国津神に夢の中でお告げを行って知らせたのです。内容は蔵の屋根に穴をあけて、其処から霊剣を入れておくからイワレビコに届けるようにという内容でした。目覚めた高倉下は御神託通りに蔵の中を見てみると、蔵の屋根に穴が空いており、其の下に一振りの剣が有りました。高倉下は急いで霊剣を東征軍のイワレビコに届けたと伝わります。

天地開闢の神さまである高御産巣日神タカミムスビノカミ)です。伊弉諾命や伊邪那美命よりも前の神さまとなります。
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メッチャ怖そうな武甕雷命です。Wikiより
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此方が高倉下さんです。この方は尾張連の遠祖となる方です。古来から刀剣を人に渡す時は、柄を左にして渡します。相手の利き腕である右に柄が来る配慮からとなります。此方は個人的に大ファンの神仏画師の持田大輔さまの絵です。
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布都御魂剣の霊力は凄まじく、イワレビコを中心とした東征軍は毒気が消え去り、体を回復させ、熊野の荒ぶる神も自ら切り斃されてしまいました。『自ら』とは....布都御魂剣という神器は、もの凄い霊力だと思われます。現在も布都御魂石上神宮御神体となっております。

元気を取り戻したイワレビコ高御産巣日神タカミムスビノカミ)からお告げが有りました。此処からは無闇に進んではいけません。八咫烏を使わしますから、八咫烏の導き通りに進みなさいという御神託でした。

左上に飛んでいるのが八咫烏です。Wikiより
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東征軍一行は八咫烏の導きにより安全な進路をとり、紀伊の山々を抜けて吉野の河尻に到着したのです。そこで多くの国津神服従の意を示し、其の案内を受けて進みました。荒ぶる神々八咫烏の霊力で押さえ込んだと思われます。実際は此処でも多くの荒ぶる神々と出会いますが、いずれも八咫烏布都御魂剣の霊力で服属させ、熊野から吉野、吉野から大和へと進軍致しました。

熊野那智大社にある太陽神の化身とされる八咫烏の像です。 熊野那智大社のHPより
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八咫烏の咫(あた)とは手のひらの一番下から中指の先までの長さの事です。当時は現在に比べて人が小さかったと思うので仮に15cmとしてもカケる8で1m20cmとなり、此の大きさから分かる様に八咫烏とは巨大な三本足のカラスだったと思わらます。
余計な事ですけど三種の神器にある八咫鏡も同じ大きさと言う事になります。此の大きさは普通の手鏡くらいの鏡とは違い、明らかに儀式様となります。実は同じ大きさの鏡が福岡の平原(ヒラバル)遺跡で見つかっているのです。

弥生時代の地層から見つかった大型内行花文鏡です。此れほどの大きさの鏡は全国何処でも見つかっておりません。弥生時代の製鉄技術を考慮すると数は出来ないと思います。皇祖神が九州に居た証拠となる重要な発掘品のひとつだと考えます。
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次回、八咫烏布都御魂に導かれた東征軍は最強戦士である長髄彦軍団との決戦になり、その後は意外な結末となります。

別系統の神器 十種神宝 1

世界最古の歴史を有する日本の皇室には、ご存知の通り三種の神器が伝わっております。一つめとして天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)がございます。此の剣は素戔嗚尊が手名椎と足名椎(テナヅチアシナヅチ)が醸した強い酒を飲み切って泥酔した八岐大蛇を退治し、其の尾から取り出して天照大神に献上したものです。二つめは八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、三つめは八咫鏡(やたのかがみ)ですね。三つの神宝のうち八尺瓊勾玉八咫鏡は天岩戸から天照大神を出現させる為に造られたものです。此の三種の神器は新しい天皇陛下がご即位される時に必ず必要な神器ですね。

剣璽等承継の儀 Wikiより
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Wikiに有る三種の神器のイメージです。
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此の三種の神器瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原から高千穂に降臨する時に天照大神から授かったと記紀には有ります。

今回の主題である十種神宝は、もう一つの天孫降臨における主人公が同じ様に高天原におわす天照大神から授かった御神宝です。其の神の御名は饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と言います。

この神さまが饒速日命です。天照大神から十種神宝を授かった天孫族の神さまです。
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墳墓も確り存在しております。奈良寺社ガイドさまのHPより
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記紀(古事記及び日本書紀)には高天原から天ノ磐舟に乗ってやって来たと有ります。正に空飛ぶ船の事です。

饒速日命を祀る大阪府交野市の磐船神社には磐舟を思わせる巨大な磐座がございます。磐船神社のHPより
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饒速日命の詳しい記述が記載されているのは神道の経典である『先代旧事本紀』となります。私も現代語訳本を10年前に買ってみましたが、饒速日命の事が、詳しく記載されておりました。饒速日命につきましては、謎の神とされており、考察した話は沢山出ておりますが、いづれも妄想の域を出ておりませんので此の場では控えさせて頂きます。

ジブリ千と千尋の神隠しには龍神がニギハヤミコハクヌシと言う名で登場しておりました。映画館に家族を連れて見に行ったら時に、此の名を名乗るシーンを観て、隣に居たジブリのファンであった嫁に『え? おい、いまなんて言った?』と妻に尋ねたところ、『しー! 静かにしてよ、今はダメ』と怒られた記憶が有ります。

さて、十種神宝の事ですが、此の事をご案内するには天孫の系譜と神武東征を先にご案内しないと、全体が把握出来ないと思いますので順を追ってご案内させて頂きます。

※ 皇祖神の系譜(皇室の先初期)
皇祖神の系譜は記紀によると次の様になります。『天照大神素戔嗚命の誓約(うけい)→ 天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)→瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)→彦火火出見尊(山幸彦の事です)→ 鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)→神武天皇(カムヤマトイワレビコ)となっております。

冒頭の誓約(ウケイ)とは、ある理由(理由は省略します)で、天照大神と弟の素戔嗚命が互いの心が清い事を証明する場面が有りました。天照大神素戔嗚命の十拳剣(トツカノツルギ)を噛み砕いて吐いた息より御生まれになった三柱の御子神宗像三女神です。対して素戔嗚命天照大神の御身体に付けている勾玉を噛み砕いて吐いた息から生まれたのが、五柱の男の神さまであり、其の長男が天之忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)となります。

※ 神武東征
生誕地の高千穂にいらした神武天皇(御名はイワレビコ)は45歳の時に、戦が多かった豊葦原中国(日本の事)を戦の無い豊か国にする為に東征を決意しました。九州を含む西日本は戦いが特に多かったみたいです。其れは稲作を行う環境に恵まれた温暖な土地は水利権の争いや、土地の争いが頻発した事に由来すると思われます。

神武天皇(カムヤマトイワレビコ)です。
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兄神さまの五瀬命です。環刀太刀を握る勇ましい神さまですね。東征軍のリーダーを務めておられました。天孫族は長子相続ですが、出雲族は末子相続となります。現在の我々も大和民族なので長子相続となっておりますね。
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兄の五瀬命(イツセノミコト)と強兵を集めて筑紫の日向から出発したのです。日向を出て宇佐に着くと、宇佐の王である宇沙都比古は服属を示し、宮を増設して歓待致しました。その後は筑紫に移動し、当地の岡田宮に一年滞在し、次に安芸に向かいました。安芸でも日の神子に刃向かうものは一人も無く服属し、安芸には7年も滞在致しました。次に向かったのは吉備でしたが、吉備の王も東征軍に従ったのです。そして吉備には8年間滞在致しました。軍備を整えいう、た五瀬命イワレビコは、いよいよ明石海峡を渡るにつけ、海の道をよく知っている椎根津彦(シイネツヒコ)と後にいわれる、亀に乗ってはばたいて釣りをしていた国津神に道案内を頼み無事に荒海を渡る事に成功したのです。亀の甲羅に乗って釣りをしながら羽ばたいていた(え?)不思議な椎根津彦は初代の倭国造(やまとのくにのみやつこ)になる方です。

此方が亀の甲羅に乗って釣りをしながら羽ばたいていた椎根津彦です。前の名前は珍彦(うづひこ)でした。Wikiより
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明石海峡をへて浪速の渡(恐らく大阪湾の入り口辺り)を経て、白肩津(しらかたのつ)に船を停泊させていたところ、当時大阪周辺に強い勢力を持っていた豪族の王である長髄彦(ナガスネヒコ)の軍隊が襲い掛かって来たのです。此れに対して五瀬命率いる東征軍も応戦しました。

此方は神仏画師の持田大輔さまが描いた長髄彦です。長髄彦の荒々しくも気高いイメージがよく描かれております。後にご案内致しますが、長髄彦は本当に強く勇ましい国津神でありましたが、悲劇の最後を遂げる事になります。
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次回につつきます。

刀の鋒(きっさき)について

趣味の話で恐縮ですが、本日は刀の鋒(切先)についてご案内させて頂きます。刀を鑑賞していると、刀身に備わる全ての線と刀身のあらゆる面の終着点は鋒の先端になります。つまり『鋒』こそが『刀の顔』であると古い刀剣の本にありますが、実に肯定出来る話だと思います。そして横手から切先にかけて焼かれている刃文を鋩子(ぼうし)と言います。

此方の図は鋒付近の部位名所となります。 兵庫県立歴史博物館さまのHPより
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高明高明な先生方の仰るには、鋒に焼かれている刃文(鋩子 ぼうしと読みます)は刀工の上手下手を如実に表しているといい、理由として鋒は刀の中で一番薄い部分ですので、焼き入れが極めて難しい場所との事です。以前に私が注文打ちをお願いした刀匠に聞いた話だと、焼き入れ温度が高過ぎる場合は刃の部分が割れてしまい、また最初からやり直しに成るみたいです。焼き入れの工程で薄い所に合わせると鍔元の厚い部分の焼きが弱くなると言っておりました。気の遠くなる話しですが、各刀工達は焼き入れのタインミングを鉄の赤さだけで判断するみたいです。従って鋒の刃文(鋩子)は刀の品格にもかかわる大事な部分であると同時に刀工の特徴が良く現れる部位となると書物に書いてありました。

此処からは若干専門的な話になりますが、鋒は其の形状によって呼称が有ります。時代や注文主の要望により変化していったそうです。合戦の形態変化に合わせて変貌したという事になると思います。長く続いた戦乱の中で鋒が傷ついて損傷し、後に研師が研磨して新たな鋒を造り出す事によって、鋒の焼き(鋩子)が無くなってしまっている場合も古い刀にはよく有ります。何百年も前の代物なので仕方ないとは思いますが、鋩子(ぼうし)の無い場合は流通する金額も健全な物と比べると著しく安価になってしまうのが現状です。

此の図は鋒の形状を表したものです。個人的にどの鋒も魅力的ですが、中鋒伸びこころと言う形状が一番好きな姿です。伸びごころとは『少し伸び気味』と言う専門用語です。写真は兵庫県立歴史博物館さまのHPより
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小切先、中切先、大切先は原理的に此のような枠で捉える事が出来ます。刀剣要覧より
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今回ご案内するのは平造りと本造りの切先(刀と脇差)、最後に冠落としの様な長巻直しの切先をご案内させて頂きます。其の前に代表的な刀の造り込みを2例ご覧下さい。

此方が『平造り』と言う造り込みです。短刀の表面に凹凸がなく平になっております。
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此方が『本造り』と言います。強度を上げる為かどうかは分かりませんが、鎬(しのぎ)と言う段差が有ります。
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あまり良くないサンプルですが、鎬造りの断面は大凡こんな感じになっております。
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此方は次女用に買った小ぶりな平造り短刀の鋒です。鋒の焼き(鋩子)は綺麗に中丸で返っており、個人的には好きな鋒です。因みに直刃と言う真っ直ぐな刃文を選んだのは娘の人生に波風が立たないように願った為です。
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此の短刀は身幅の広く重ね(厚み)が薄い短刀です。鋒の焼き(鋩子)は直に入り地蔵風に返っております。地蔵とは地蔵の姿の様に刃文と地刃のコントラストが見える事から名付けられた帽子の名称です。関の刀鍛冶が打ち上げた刀の特徴の一つです。
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関の地蔵鋩子もう少し詳しく話すと、赤い丸の部分がお地蔵さんの様に見えると言う事です。また美濃伝には尖っている刃が有るのも特徴です。巻藁を切ると分かりますが、美濃の刀は刃肉が薄くてメチャクチャ切れます! 鋒は造られた地域や作者まで言及出来るほど産地の特徴が出る部分となります。
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此方も平造りの脇差の鋒です。帽子は小丸で返って、帰りが深めですね。
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今度は本造りの刀の鋒です。大鋒に近い形状になります。帽子は乱れこんで入り、掃きがけ気味に丸く返っております。かなりの上手な刀工だと思います。
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此方は新々刀の鋒です。鋩子は湾れて入って中丸で帰っております。材料が違うのか分かりませんが、新々刀の鋒は鋩子の刃縁が比較的にボンヤリしております。
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今度は美濃の本造りの刀です。横手の下に美濃特有の尖り刃が見えます。
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此方は室町期の脇差の鋒です。元々細い直ぐ刃だと思いますが、400年以上経過しているので焼き刃も相当に研ぎ減っております。写真をが下手で上手く撮影出来ませんが、楊枝の先端くらいの鋩子(鋒の焼き)が残っております。
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江戸時代中期の脇差の鋒です。鋩子は本刃のまま入り、先は掃きがけて帰っております。鋒の鋩子の一番上が、まるで箒で一回掃いた様に先端に向けてザラっとしているのが分かると思います。因みに昔の人の観察眼は、何時も私の想像を遥かに超えます。
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山浦真雄の長巻直し刀の切先です。現在研ぎに出しており、薄錆の刀身で申し訳ありません。此の刀は私が手にした刀剣類の中で一番ドキッと来る鋭さです。
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幾つか刀剣の鋒をご案内させて頂きました。以前に私の友人が『刀は少し怖いな』と言ってました。正に其の通りだと思った次第です。簡単に人を殺傷する事が可能なんですから当然だと思います。

私は子供の頃から祖父や父が刀剣の手入れをしている姿を見ておりましたので、決して怖いとは思わず、ピンッとは張り詰め空気の中で祖父が刀を拭う姿が美しく思えたのです。刀が持つ独特の『厳しさ』と『品格』が其の様に見せたと思っております。このピンッと張り詰めた空気こそが魅力の一つなのかも知れません。

刀剣が本当に破邪の神通力を発揮した例は幾つも有りますが、其のなかで一つだけお話しさせて頂きます。此は台東区今戸に有る熱田神社の『陰陽丸』という人智を超えた大きさを持つ大太刀の話です。作者は江戸小石川に住み、幕臣の身ながら刀鍛冶をしていた川井久幸(1786~1868)てす。久幸は武道に通じており、特に剣術と槍術に長けておりました。打ち上げる刀は実戦に強そうな造り込みですが、焼き入れの際に付いた刃沸と地沸が細やかで美しく、光にかざすとオーロラの様な色が刀身に見える魅力的な作風です。槍の作品も比較的に多い刀工だと思います。

此方が浅草熱田神社の陰陽丸です(注1)。東京都神社庁さまのHPより
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白鞘に入れた状態で此の長さです。此の長さより一回り大きい焼き入れ用の水船や此の長さの火床が必要になります。研磨なんてどの様にやったのか想像も出来ません。台東区のHPより
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ご覧の様に長大な奉納大太刀です。刃の長さが何と280cm、中心(手持ち)の長さが88.5cmでして、総長が368.5cmも有ります。刀工の河合久幸は多変な技量を持っていた事の証明にもなりますね。以前にもご案内しましたが大太刀の製作には技量は勿論ですが、全てにおいて桁違いの費用が掛かるのです。

幕末の安政年間は相次ぐ災難が日本国民を苦しめました。まず安政2年には安政の江戸大地震が起こり、一説では1万人近い死者が出ました。続いて安政3年には強烈な台風が江戸を直撃し、大きな風水被害が出てしまったのです。続いて安政5年5月に長崎に入港した米国船ミシシッピ号の船員が持って来たコレラが日本を襲い、同年7月には江戸に到達します。当時世界一の人口過密都市だった江戸では20万〜26万人の死者が出てしまいました。余りにもコロっと死んでしまうので、当時の人達は虎狼痢(ころり)と名付け恐れていたと言われております。人々は長く塗炭の苦しみに喘いでいる時代だったのです。安政6年頃から始まる安政の大獄の前の事です。

本当に酷い有様だったみたいです。埋葬出来ない棺桶が江戸中に溢れて異臭を放っていたと伝わります。俗に言う地獄絵図ですね。感染すると下痢に苦しみ脱水症状になり数時間で死亡したと言われております。
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そんな中で人々は神仏にすがっておりました。其処で疫病除行事として陰陽丸を神輿に乗せて市中を巡行したのです。江戸に住んでいた人は陰陽丸に向かって手を合わせ、虎狼痢の退散を願いました。その後に陰陽丸は人々の願いを叶え、虎狼痢を切り伏せ降魔の神通力を示したのです。

他にも雷を切ったと言われる雷切りと言う刀や、5頭の虎を追い払い味方を救った五虎退と名が付いた短刀など多くの逸話がありますが、陰陽丸の様な神秘的な力こそ刀剣の持つ特性の一つであり、刀剣が神器ともいわれる所以となります。そして其の刀剣の顔とも思える部位がが『鋒』なのです。言い換えれば鋒は『神さまご尊顔』とも言えると私は考えております。

 

注説
熱田神社の御神宝である陰陽丸は6月に行われるお祭りの時のみ公開されております。私は浅草の営業所に3年もおりましたが、見事に3回とも大事な予定が入ってしまい、結局見れず終いで終わってしまいました。今年こそ河合久幸渾身の力作を見に行ってみようかと考えております。

象山神社へ参拝

先週は少し言葉が過ぎました。ご気分を悪くされた方々にお詫び申し上げます。さて今回も松代訪問時の話です。松代は色々な観光名所が点在しており、今回は佐久間象山先生をお祀りする象山神社のご案内です。ご存知の様に象山先生の門下には明治維新の功労者が多く、直接関わりを持った人物は勝海舟吉田松陰高杉晋作坂本龍馬橋本左内など枚挙にいとまがございません。

県社である象山神社は、松代出身で元大審院長横田秀雄先生の呼びかけにより、地元の他に全国の有志の合力により昭和十三年十一月三日に象山先生の御自宅跡に創建されました。大審院長とは現在の最高裁判所長官の事です。

佐久間象山先生です。Wikiより
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佐久間象山先生の偉業は今更私がご案内しなくても皆様の知ってる通りですが、ごく簡単に説明すると、御尊父は卜伝流剣術の達人であり、藩主の右筆まて勤めた文武に通じた人格者でした。先生は父の後を継いで松代藩士なり、若い頃から経書を学び、江戸に出てからは儒学朱子学を学び英才と呼ばれておりました。その後は蘭学を学び、当時先進国であったオランダの医書兵法書を詳しく網羅したのです。天保13年に松代藩主の真田幸貫公は老中になると同時に海防掛(海防かかり)に就任致しました。其の時に象山先生は顧問に任じらたのです。其処で先生は沿岸警備に必要である砲術を学び、此れを見事に極めました。また日本で初めて大砲の鋳造を行い、日本における西洋砲術の第一人者となったのです。

この場所は象山先生が大砲を試射した跡地です。此の場所は現在千曲市生萱に有り、千曲川の河原から対岸の山々に向けて試射を行ったようです。砲弾は象山先生の予想を遥かに上回り、山を越えて幕府直轄の天領に有るお寺の境内に大穴を開けたと言います。
因みに大砲を含む銃の銃身は割れを防ぐ為に硬い刀の皮鉄と違い、柔らかく粘りのある鉄で出来ております。現在も銃の薬莢に真鍮を使うのは真鍮が爆発の膨張に耐え得る性質が有る為と聞き及びます。画像は千曲検定さまのHPより

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象山先生はその後に江戸木挽町に五月塾と言う私塾を開きました。其の時の門弟が吉田松陰勝海舟など維新の立役者ばかりなのです。やがて黒船が来航し、門弟の吉田松陰が密航を企てました。当然師匠の佐久間象山も罪を問われて伝馬町牢屋敷に軟禁されますが、その後は故郷松代に蟄居となりました。その後しばらくして象山先生は一橋慶喜公に招かれて上洛し、慶喜公に公武合体論と開国論を説明しました。そして元治元年七月十一日に熊本藩士である河上彦斎と因州浪人杉浦虎太郎の凶刃により命を終えたのです。享年53歳で没した訳ですが、奇しくも今の私と同じ歳です。

河上彦斎幕末四大人斬りの一人で漫画『るろうに剣心』のモデルです。使った刀は同田抜宗廣と言う明珍の兜も叩き割る破壊力抜群の刀でした。
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同田抜宗廣です。叢沸が付いてお世辞にも名刀とは言えませんが、如何にも物切れしそうな刀です。極めて個人的な意見ですが、『刀』には全く罪はなく、刀を使う『人間』や『其の背景』にこそ罪が有る事も付け加えておきます。
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先生の説明は此れくらいにして象山神社のご案内を致します。訪問したのは初秋の三連休中日でした。

鳥居の横に象山先生の馬上の姿を模した銅像が有りました。裃(かみしも)を付けてますが、指している脇差の鐺(こじり)がまるくないので登城時では無いと思われます。
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大きく立派な鳥居です。
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神池には紅葉が映えて美しい水面でした。
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義弟が読んでいるのは象山先生の略歴です。
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手水舎です。コンクリートの下地にある水の染みた部分の広さで、本日こちらに参拝した人の多さが分かりますね。
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暫く歩くと維新功労者の銅像が有りました。いずれも比較的新しい物です。

橋本左内です。細かい事を言うようですが、帯びている大小の脇差の刺し方が全く当時と違いますね。
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誰もが知ってる坂本龍馬ですね。
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龍馬の師匠の勝海舟です。此れも大小こ指し方が違います。此れでは大小の鞘と鞘が当たって折角の漆塗りが割れてしまいますね。何をモデルにしたのでしょうか。
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刀の大小は此のように指します。流石は世界の黒澤監督です。差し出がましい話ですが、趣味人の拘りは強くてゴメンナサイ。
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藩主の真田幸貫公の銅像も有りました。立像であり製作者の意図が垣間見れます。
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吉田松陰先生です。辞世の句であった『身はたとひ 武蔵野の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし大和魂』は今でも心揺るがす句ですね。
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小林虎三郎です。知らない方もいらっしゃると思いますが、象山先生の高弟であり、故郷である越後長岡の復興と発展に貢献した大人物です。『米百俵』の逸話で有名ですね。
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久坂玄瑞高杉晋作中岡慎太郎は顔のみのレリーフになっておりました。
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是等の銅像長野市篠ノ井出身であり、商売で大成功をおさめた青木兄弟が献納したと書いてありました。青木兄弟はAOKIホールディングス(紳士服のアオキ)を創業された御兄弟です。若き日の青木兄弟は郷里の英雄である象山先生を祀る此の造山神社を訪問し、兄弟2人で誓いを立てたとあります。是非拡大して本文をお読みください。
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拝殿も立派でした。私達は故郷の英雄に心を込めて参拝致しました。
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此方は象山先生が吉田松陰先生の渡航事件に連座し国元で蟄居を命じられた時に来客用に使っていた高義亭と言う建物です。高杉晋作などが松陰先生の手紙を持参し2人で夜を徹して論議した歴史的な場所なのです。
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説明書きです。
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心から感謝の意を込めて参拝すると新たな気持ちに成れました。此の時代の偉人達は皆一様に『私』を捨て、ひたすら『公』の為に命を掛けた事を思うと体が震えます。最近歴史を勉強し始めた涙脆い義弟の目には早くも光るもの溢れておりました。

最後に佐久間象山先生の辞世の句を皆さまご紹介致します。

『折にあへば 散るもめでたし山桜 めでるは花のさかりもみかは』

此の句には2つの意味が有ります。『山桜は花を付けている時が美しいが、盛りが過ぎて散る時もまた美しい』と言う意味と、『花の盛りの様に懸命に生きたならば、死ぬ時が来たら潔く散るもまた良いものではないか』と言う意味す。何とも切なくて、山から湧き出す清水の様に美しい句ですね。当時における武家の生き方が垣間見れ、私は此の句にとても心惹かれました。恐らく此れが『葉隠』などに記されている武士の心根だと思う次第です。

大東亜戦争の遺構 松代大本営跡 2

今週も引き続き松代大本営のご案内です。今回は遺構の中について分かる範囲で綴りたいと思います。象山神社のパーキングの車を置き、象山地下壕までは徒歩で7分〜8分くらいの距離です。

道路はかつて武家屋敷も点在した由緒正しい道です。向かって右側の水路(神田川)には鯉が群れ泳ぎ、城下町の風情を残してとおります。

途中に山寺常山邸が有りました。地元では結構知られているお武家さんです。立派な庭は建物も含めて無料で見学出来ます。庭は小さい小宇宙で有り、森羅万象を現していると言いますが、本当にそう感じさせる空間でした。
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やがて左に象山地下壕の小さい看板が出て来たら川を渡って直ぐのところに受付が有ります。無料で見学できますが、何処から来たのかと人数の質問を受けます。備え付けの黄色いヘルメットを庇って地下壕の入り口に向かう手順となります。

これが入り口です。野生動物が入らない様に鉄の柵が有ります。
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入って直ぐは此の通路です。他と違い少し狭くて低い造りなので、頭をぶつけない様に(最近個人的に経験済み済み)との配慮が成されており、屋根部にもガード素材が付いております。私の想像ですが万が一敵が侵入したばあいに備え、一回曲がっており、その後も少しだけ狭い方が対処し易いからでしょうか。
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いよいよ本格的な地下壕です。湿度が高い独特の空気が感じられました。前にも説明致しましたが、周囲は10t爆弾にも耐え得る岩石なのです。火成岩の石英閃緑岩やヒン岩で出来ていると聞きました。硬さを表すものにモース硬度という尺度があります。一般的な鉄のモース硬度が4に対し、石英閃緑岩の石英単体としては何と7です。恐ろしく硬い事がご理解頂けると思います。
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更に凄いのは寸法が統一されているのです。図に書くとこんな感じです。幅が4m、高さが真ん中部分が2.7m、左右の高さが2mに統一されております。硬い岩石をここまで正確に掘り進んだこですね。NPO法人松代大本営平和記念館さまのHPより
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中に造られていた部屋はこんな感じです。戦後に良からぬ奴らに破却されるのを避ける為に事前に壊したみたいです。NPO法人松代大本営平和記念館さまのHPより
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我が義弟が見ている看板は坑道に残された鑿岩機のロッド(鑿岩機に付ける鉄の棒)の説明書きです。
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抜けなくなってしまったのか分かりませんが、当時のものが残されております。
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資料館においてある鑿岩機とロッドです。これで孔を開けてダイナマイトで爆破して掘り進んだと聞きました。火薬は当時の状況を考えると貴重だっと思われます。NPO法人松代大本営平和記念館さまのHPより
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写此方は鑿岩機を動かすエアーコンプレッサーです。NPO法人松代大本営平和記念館さまのHPより
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此方はNPO法人松代大本営平和記念館さまが、当時の様子を再現した分かり易い図です。此のズリと呼ばれる掘削で出る岩石廃棄物の運搬と処理が一番人力が必要な部分ですね。ズリは他の地域に運搬され、埋め立てなどに有効利用されたと説明を受けました。
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色々な横穴があります。
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折り返し地点です。
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当時の電線を繋ぐ木材部分らしいです。NPO法人松代大本営平和記念館さまのHPより
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此方は立ち入り禁止ですが、天皇陛下が入る予定であった舞鶴山の地下壕入り口です。
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此方には地上部分が有ります。建物も簡単な攻撃には耐えうる壁材を使用していると聞きました。
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天皇陛下御座所として造られた特別な部屋です。松代地震観測所さまのHPより
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因みに此の建物は現在気象庁松代地震観測所として使われております。もちろん一般の方は入れません。私も入り口までしか行けませんでした。
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入り口と地上部分はこんな感じの配置となっております。陛下の御入りになる施設だけに細心の注意を払って造られたものと思います。
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まだまだ多くのご紹介を行いたいのですが、此のくらいでやめておきます。当時の皆様の命懸けの努力に日本人の一人として感謝した次第です。また落盤事故などで不幸にも尊い命を失くされた方々へ心から哀悼の意を表します。誰が悪いとは決して特定出来るものでは有りませんね。

戦争に突入してしまったの事には色々な理由と出来事が有りましたが、日本は日本人特有の生真面目さまが災いしました。日本には止むに止まれぬ事情が有ったのです。ただ日本国が悪いと決めつけめいるのは、戦後に数多く出た敗戦利得者達と敗戦利得国によって歪められた戦後教育の影響です。

背景として今までヨーロッパ諸国は世界の陸地の約8割を植民地化し、500年もの長い間に植民地化された国々の人々を豚や馬と同じように酷使してまいりました。彼等は植民地の人間に対して下等な生き物と決めつけ、白人に飼育されるのは当然だと公言しておりました。『ご飯の不味い国人』の女王は結局一言も其の事について正式に詫びないまま他界しましたね。

植民地の人々は食べる物も動物の飼料に近い物しか支給されず、強制労働をさせられました。そして著しく人口を減らして行ったのです。
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そんな中で日本は当時数少ない黄色人種が治める独立国家で有り、白人の大国であるロシアにも打ち勝っていたのです。彼等は侍の末裔達の強さを恐れて一目置いておりました。

日本は1919年に発足した国際連盟常任理事国として参加し『人種の平等』を連盟憲章に入れる提案をしました。日本が提出した案は素晴らしい提案だと16ヵ国中11ヵ国が賛同したのです。

国際連盟パリ講和会議を開催した場所です。繰り返して申し訳有りませんが、記念すべき此の会議で日本の全権大使は『人種の平等』を国際連盟憲章に載せる事を提案したのです。私は一人の日本人として誇りに思います。     Wikiより
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ところが、アメリカ大統領の発言で採用は見送りになり、残ったのは西欧諸国の日本に対する『この国は潰さなければならない』という警戒感です。理由は植民地の人にも人権を認めると、実質的に植民地を放棄しないといけないからです。そんな理由で日本は彼等に敵国と見なされ、彼等の首魁である『ご飯が不味い国』と『先住民族を根絶やしにした国』が牙を剥いてきたのです。そうして彼等は『原油』と『リン』の日本に対する輸出を停止してまいりました。こうして我々の生きる道を断とうとした相手に侍
の末裔である日本は正々堂々と挑んだのです。当時同盟国であったドイツに滅ぼされたオランダが支配していたインドネシアパレンバンに有った油田を借り受けたのは、そんな経緯の後でした。油田から本国へ油を運ぶタンカーの安全な航路(シーレーン)を確保する必要が有ったのです。

パレンバンは此処です。
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『ご飯の不味い国』は当時世界最強のプリンスオブウェールズと言う巨大戦艦を送って来たのを日本が撃退したのがマレー沖海戦です。『原住民を根絶やしにした国』は人の良いカメハメハ大王の末裔を騙してハワイを我が物とし、天然の要害である真珠湾に日本を滅ぼすだけの艦隊を集結させてました。コレ以後は長くなるので端折りますが、本当の巨悪は何処なのか容易に想像が可能かと思います。

ハワイ王国最後の王であったリリウオカラニ女王です。
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清廉潔白な王であったと伝わります。女王は日本を訪れて我々を日本に組み込んでほしいと要望されましたが、当時日本は明治維新が終わったばかりの混乱期であった為に女王の望みは叶わなかったのです。そして女王は『原住民皆殺し国』に国土を奪われました。有色人種の唯一の希望が大日本帝国だったのです。何が『リメンバーパールハーバーじゃ』と心から思うのです。こんな事は昨今の歪んだ教科書に1ミリも載っておりません。

今回は象山地下壕のみを紹介するつもりが、後半は長い話になってしまいました。特に周囲から煙硝の匂いが立ち込めて来た昨今ですので、日本人が自ら日本の文化を無くす様な行動及び言動は慎み、今後の日本の立ち位置を考え、自分はどう行動すべきか考え直す時期に差し掛かっていると強く思う次第です。