みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 21

義仲公は法住寺合戦後の戦後処理を藤原基房と一緒に進めておりました。如何なる理由があろうと院に弓引いた義仲公は益々孤立し、付き従った将兵は離散し、数万の義仲軍は約一千騎にまで減っておりました。義仲公は院を伴い北陸道に向かうつもりでしたが、その前に散々擁護したにも関わらず義仲公を裏切り続けた獅子身中の虫である行家に対して強い憤りを感じ、樋口兼光に一軍を率いさせ討伐に向かわせました。そして自らも頼朝軍が直ぐ其処まで迫って来ましたので都で迎え打つ事としたのです。都に攻め上って来た鎌倉軍は想像を遥かに超える大軍でした。

※ 宇治.勢多の戦い  寿永3年1月20日
此の合戦は5万を超える鎌倉軍と1千の義仲軍との戦いです。実質的に1人で50人と戦う事になり、ご理解頂ける様に勝敗は明らかですね! 頼朝軍は弟の範頼に都から北陸道へ向かう為の要所である勢多に3万騎を進軍させて北陸への逃げ道を塞ぎました。そして搦手軍として義経を宇治に2万5千騎で向かわせました。西には平家が虎視眈々と上洛を狙っている状態ですので義仲軍は袋の鼠でした。対する義仲軍は今井兼平と叔父である志田義広が500騎で勢多に向かい、楯親忠と根井小弥太に250騎を与えて宇治橋に向かわせたのです。義仲公は残る兵で後白河院の警護に向かいました。今井兼平楯親忠も根井小弥太も一騎当千の強者です。義仲公には長刀を振るわせたら天下無双の女武者である巴が付き従いました。

巴御前』につきましては敢えて今回のシリーズには詳しいご紹介を省いたのですが、その理由として鎌倉幕府の公式編纂書である『吾妻鏡』に名前が上がっていないのです。しかし軍記物語の『平家物語』『源平盛衰記』には確りと明記されております。現在は男女雇用機会均等法が有って男も女も平等に仕事をしましょうとされておりますが、義仲公の時代はずっと人口が少なくて人的資源が乏しく、女性でも普通に活躍の場が有ったのです。因みに鎌倉幕府が成立した頃の日本の人口は約757万人で、江戸幕府成立時には約1227万人、明治維新には3330万人、2020年の日本における人口が1.258億人なので比べようも有りませんね。(参考にロシアは1.441億です)

文献として残る資料を見ても鎌倉時代には女性も男性と平等に財産分与が行われております。当時は実際に軍事訓練を受けた女武将が大活躍した史実も多く残っているのです。話を戻しますが女性としての巴御前と武将としての巴御前を合わせて考えると、其の生涯が余りにも現代の女性とはかけ離れており、心意気を思うと健気過ぎて涙腺が緩みっぱなしになります。

巴御前  Wikiより
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巴御前の話をすると現在放映されているNHKの鎌倉殿13人に出ている北条政子役の小池栄子さんは、同じく大河ドラマ義経』では巴御前を演じておられました。私の勝手な思いですが、義経巴御前役が本当に素晴らしかったので、今回の北条政子役に対して最初は少し違和感が有りました。しかし流石に名優だけあって北条政子役を見事に演じておりますね!

鎌倉殿の13人での小池栄子さん NHKのHPより
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NHK大河ドラマ義経での巴御前を演じる小池栄子さんです。とても清純で高貴な雰囲気を出しており、私の巴御前像とピッタリでした。
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話しを元に戻します! 
義経についてはヒーローになっている反面で、目的の為には手段を選ばない蛮行が後世に残ります。その一つが今回の宇治川を挟んで繰り広げられた合戦前の行動です。義仲軍によって宇治の橋は板を外されて渡れないように防備が成されておりました。宇治川の河原はとても狭く、小さい民家が立ち並び、其処には合戦から避難した都人が隠れておりました。其の一般人が避難していた民家の多くに義経は火を付けたのです。阿鼻叫喚の光景に対岸の義仲軍は呆れて見ていた事だと思います。兵を配置する為だけに罪もない人々を民家ごと焼き払う此の蛮行の為に多くの関係ない一般人がその身を焼かれて死にました。そして義経は燃え落ちた場所を片付け、其処に軍勢を配備したのです。此の様な義経の蛮行は通常はドラマなので表現しない事ですが、現在の鎌倉殿の13人において三谷幸喜監督は確りと義経の人となりを表現されておりますね。

宇治橋 京都宇治観光マップより
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そして宇治川の戦いが始まりました。季節は春の陽光が眩しい冬晴れの日であり、上流から流れ出た雪解け水は宇治川を増水させておりました。川を渡る事を躊躇していた義経でしたが畠山重忠以仁王が令旨を出した時の合戦で平家の武者は宇治川を渡った事を伝えて自軍で試そうとしたのです。ところが畠山軍の機先を制して2人の武者が川を渡り始めました。先陣の功を逃してはならないと飛び出したのは頼朝公より拝領した名馬生食(いけづき)に跨る佐々木高綱と同じく頼朝公より名馬の磨墨(するすみ)を拝領した梶原景季でした。やがて宇治川を渡り切った2人を見た義経軍は増水した宇治川を次々に渡ったのです。こうして真っ向から義仲軍と義経軍は戦いました。ここで義仲軍きっての剛の者である根井行親の活躍を源平盛衰記からお伝え致します。

根井行親は次々と押し寄せる鎌倉勢を前に信州滋野一族の名誉を掛けて一歩も引かずに戦い抜きました。突っ込んできた二人の敵を左右の脇に捕まえて、『一人は鎧の上帯を取りて、ムズと引き上げ、深田へ向かって投げたれば死にけり、もう一人は投げられまいと鎧を馬の腹に踏見る回して堪えていたが、主を馬ごと深田へエイと投げたれば、泥の中にて馬に敷かれて死にけり』と有ります。次から次へと押し寄せる鎌倉勢に対して無双の強さを見せた根井行親と子供の楯親忠ですが多勢に無勢で力尽きてしまいました。此処に義仲公の旗挙げから付き従った英雄2人は清廉潔白な信濃武士らしい見事な最後を遂げたのです(合掌)。因みに此の宇治川の戦いで散った楯親忠の末裔は我が社に現在もお見えになります。

根井行親と楯親忠親子 『乱世を駆ける』より
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一方義仲公は宇治橋を突破した義経軍の前に市街戦にて打ち負かされ、後白河院義経に奪取されてしまいました。鎌倉勢と一戦交えた義仲公は付き従う者7騎のみの状態でした。もう逃れる道は北方向に向かうしか無かったのです。或いは北方向に向かったら光明が見えたかも知れませんが、義仲公は戦っている兵を置き去りにして逃げる様な方ではございません。もう一方の戦場である勢多では幼い頃より一緒に育った今井兼平が戦って居たのです。義仲公と兼平とは『死ぬの時は同じ場所で死のう』と子供の頃からお互いに誓い合っていたのです。義仲公は迷わず東へ向かいました。そして兼平と合流する道を選んだのです。兼平は大軍に勢多を突破され、一旦軍を引いて大津まで戻っており、此処で2人は奇跡の先会をしたのです。現在と違って通信手段のない此の時代に2人が再会出来た事は八幡様のお導きとしか考えられません。此処で兼平の兵を合わせて300近い軍勢が揃った事になります。こうして義仲公の軍は因縁の有る甲斐の武田信義の嫡男である甲斐の一条忠頼の軍と交戦致しました。義仲軍は300騎弱で忠頼の軍は6000騎です。義仲軍は善戦致しましたが、忠頼の軍を二手に割って後方に抜けた時には300騎が50騎に減っていたと伝わります。甲斐源氏と言えば武田信玄公を輩出した名族です。20倍の幾重にも重なった敵の備えを錐揉み状に駆け抜けた事になります。恐らくは凄惨な激戦だった事は想像に難くは有りません。

甲斐の一条忠頼 なんて恐ろしげな御顔立ちでしょう。 Wikiより
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やっと20倍の敵陣を抜け出たところで、今度は猛将である土肥実平が率いる2千の軍勢が待ち受けておりました。此の実平軍は波居る坂東武者達の中でも殊更に強い軍でした。

土肥実平 NHK鎌倉殿の13人より
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此処でも義仲軍は真っ向から戦ったのです。此の戦いでも弓馬の道に長けた信濃武士軍団は善戦し、なんと今回も実平軍を真っ二つに割りました。しかし後方に抜けた時の義仲軍は殆どが討ち取られしてしまい、生き残った者は義仲公を含めて5騎のみとなっていたのです。挙兵以来付き従った信濃武士達は身を挺して大軍から義仲公を守り抜き、見事に武(もののふ)の本懐を遂げた事になります(合掌)。たった5騎と成った義仲公達は敵の追手を逃れて進んでおりました。

次に続きます

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 20

義仲公は追い詰められておりました。時代や背景 は全く異なりますが現代で言うとアメリカに煽られてウクライナに侵攻したのロシアの様です。後白河院は頼朝公に対して義仲公と和平を結ぶ様にお願い致しましたが、頼朝公から撥ねつけられております。オマケに頼朝公から天下の混乱は法皇の責任だ〜ともなじられる始末でした。そして頼朝公は義仲の完全な排除を求めて決して譲らなかったのです。

頼朝公の目は一点の曇りも無い全てを見通すホークアイの様な感じが致します。  wikiより
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当時の推移を知る上で一級の資料である『玉葉』によると傷心の義仲公は後白河院に対して自分を裏切ったことに対しての抗議を書面で行ったとございます。『玉葉』とは公家である九条兼実の日記の事です。義仲公の帰京に慌てていたのは後白河院だけでは無く貴族達もなんとかしようと奔走しておりました。藤原頼季などは院と頼朝公が結託して義仲公を亡き者にしている事を悟られない様にする為とし、法皇が積極的に平家追悼をしていると見せかけ播磨国に臨幸すべきである進言しました。この案は一部で『そうでおじゃるな、それは良い案でおじゃる』と貴族達の賛同を得ましたが、肝心の後白河院に『イヤじゃ』と言われてしまいました(笑)。後白河院は清盛公の様に色々面倒くさい武家には互いに争って自滅して欲しいし、かと言って年貢を各地から運んでくれる便利な武家は必要だしと言う考え方なのです。『あなたの役目は終わったよ、頼朝にやられておしまいなさい』と使い捨てにされている義仲公にしてみたら、自分を殺そうとしている親玉は平家から後白河院に変わっている状態でした。

後白河院NHK鎌倉殿の13人より
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この頃には義仲公に付き従っていた他の源氏達もてんでバラバラになっており、美味い汁を吸えない義仲公から離れて行っていたのです。

法住寺殿 Wikiより
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後白河院から義仲追悼の命を受けた頼朝公は鎌倉に居ながら義経と範頼を大将として都に向かわせておりました。其れに対して義仲公も迎え打つ気持ちを固めていたのです。頼朝軍が入京すると言う情報を受けて源行家以下の源氏は義仲公を裏切って院側に付きました(ヒドイハナシデス)。源行家叔父は此の時に院側の筆頭的な立場だったと伝わります。裏切者達の中では頼朝公の軍勢がくれば義仲公など恐るるに足り無いと言う声が多くあがっており、後白河院に付く事で勝ち馬に乗って再度美味い汁を吸おうとしていたのです。しかし老獪な後白河院は見方が多く来てくれた此の場面で、頼朝公の機嫌を損ねない為にと考え、以前頼朝公と口論に成って頼朝軍を出奔した源行家には平家追悼を命じて追い払ったのです。己の行動が原因でありますが、どっちからも見放され最悪な状態の行家叔父なのです(注1)。

行家を追い払ったこの動きは後白河院が頼朝公に嫌われないように取った行動です。しかしこの事は義仲公と後白河院の間に更なる強い緊張感をもたらせました。しかしこの時に義仲公は院との戦いを避ける為に頼朝軍の大将である義経が少数であるなら都に入る事を認めると言う妥協案を示したのです。しかし対決姿勢に凝り固まった後白河院聞く耳を持ちませんでした。

そして後白河院は浮浪者や僧兵を掻き集めて住まいの法住寺殿に堀や柵などを築き、義仲公との臨戦体制に入ったのです。また後白河院側は多田行綱源光長を院側に味方に迎え入れ、実質的な兵数でも優位に立ちました。もはや疑いようも無いくらい明らかに義仲公を亡き者にする為の動きだったのです。此処で義仲公はギリギリに追い詰められた形となったのです。常に朝廷を敬って来た義仲公ですが信濃から付き従って来た仲間達を見殺しにする事は出来ません。また世の中をよくする為に戦って散った仲間達も浮かばれませんでした。武神と言われた八幡太郎義家公から受け継いだ源氏嫡流の血が少しづつ騒いで来たのです。

部下思いの義仲公にとって信濃から笹竜胆の旗印に集り、苦楽をともにした仲間は絶対だったのです。
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其の様な状況の中で準備万端の後白河院は実質的に宣戦布告とも捉えられる内容を義仲公に伝えてまいりました。其の内容を『玉葉』では細かく描写しております。現在の言葉で分かりやすく現すと次の様になります。『直ぐに平氏追討のため西下しなさい 院宣に背いて頼朝と戦うならば義仲一身の資格で行いなさい 命に反して都に残るのなら謀反と認めるぞ』となります。其れに対して義仲公は『後白河院に背くつもりは全くない しかし頼朝軍が来るならば戦わざるを得ない 頼朝軍が来ないのであれば西国に下向する」と返書を持って答えたのです。この返事に対して『玉葉』の作者である九条兼実は『義仲の申状は穏便なもので、後白河院の御心は法に過ぎ、王者の行いではない』と記しております。流石に鎌足から続く名門の嫡流です! 九条兼実に座布団10枚渡したいと思うのは私だけでしょうか。

九条兼実(くじょうかねざね) Wikiより 
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兼実が40年間も書き綴った日記である『玉葉』は当時の状況を知る上での一級史料となっております。また中臣鎌足から継続する藤原北家の男系血統上の宗家でもあります。

法住寺殿には様々な顔役が来訪し義仲公を何時でも打てるだけの勢力になっておりました。そして義仲公が旗印として来た北陸の宮も何処かに姿を隠したのです。悲しい話ですが院に見放された義仲公の周りより協力者が去って行きました。後白河院は義仲公に対して圧倒的勢力で武力行使を行うつもりで動いており、義仲公はもう戦うしか無い状態に晒されていたのです。

法住寺殿の戦い

都の人達からは院が武家に戦を仕掛けるなど前代未聞だと言う声が出ておりました。そして明らかに変事の空気が都を取り巻いていた中で事は起こったのです。こうなる前に色々義仲軍の中では論議が行われたと思いますが、明確な内容は現存しておりません。都に住んでいる全ての者が混乱した状態となり、事態打開には後白河院に仕掛けらる前に此方から仕掛けるしか無いと義仲公は判断したのです。

恐らくははギリギリまで義仲公は院に弓引く事を躊躇ったのだとは思いますが、一旦戦うと決めたら戦うのが武士(モノノフ)です。四天王を筆頭にした義仲軍は猛然と 法住寺殿に襲い掛かりました。

義仲館の前に立つ銅像 巴もこの後に義仲公と違う道を辿る事になります。
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この戦いで明雲、円恵法親王源光長、光経父子、藤原信行、清原親業、源基国などが戦死したと文献には残っております。この時に義仲公に従ったのは信濃から一緒の仲間と志田義広と一部の近江源氏のみでした。因みに志田義広は義仲が討ち取られた後も抵抗を続けました。しかし結局は後の戦闘で討ち取られてしまったのです。地方で基盤を築いていた源氏の中で志田義広こそは高圧的な頼朝公に最後まで抵抗し戦って散っていった骨のある武将でした。此の戦いで後白河院は捕らえられて近衛基通の五条東洞院邸に幽閉されました。後白河院は生涯で3度も幽閉された経験を持ちます。しかし理由はどうあれ法住寺殿の戦いは武家が朝廷を襲う前代未聞の出来事となってしまったのです。

次に続きます


注釈
源行家のその後をご案内させていただきます。義仲公が没してから後白河院の召し出しにより一時は帰京しております。しかし平家を滅ぼす戦いには全く参加させて貰えずに独立していた存在と成っておりました。そして平家を滅ぼした頼朝公は行家に対して討伐軍を送ったのです。ちょうど頼朝公と不仲になっていた九郎判官義経と結び、都で反頼朝の兵を集めたのです。ところが行家や義経に味方する武家は殆どおりませんでした。そんなかで頼朝公が残党を一掃しようと大軍で都に向かう事になると2人はビビって都落ちしたのです。行家叔父は鎌倉からの追手と戦いながら四国に逃れる途中に船が嵐に遭遇して沈没し、ボロボロな状態となってしまったのです。その後に民家に潜伏していたところを地元民から密告されてしまって北条時定に捕縛されてしまいました。とうとう一巻の終わりの行家叔父は都まで連れて行かれて長男と次男と共に斬首されたのです。波瀾万丈の人生を送った行家叔父は40歳台だったと伝わります。これだけの大事に関与した源氏一門が正確な年齢も伝えられてない事に驚きを感じます

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 19

冒頭に11年前の東日本大震災尊い命を無くされた方とご家族に哀悼の意を捧げます。


頼朝公は後白河院が発した寿永2年10月の宣旨により東海道東山道の支配権を得ました。これにより御家人達に分配していた所領が公的に認められた事になると同時に官軍としての地位を得たのです。一方義仲公は水島合戦による人生初の敗北の後に都に戻っておりました。頼朝公を都に呼んでいた後白河院は義仲公を早く追い出そうと再三再四平家追討を命じて来ました。しかし騙された義仲公はもう動かなかったのです。そして業を煮やした後白河院が先に動いたのです。後白河院の裏切りに対して黙っていた義仲公でしたが、其の後白河院の取った行動を見て堪忍袋の緒が切れました。


まもなく義仲公は此処から同族の頼朝公と争う事になります。華々しい活躍と相反して一転悲壮感渦巻く展開となります。どうしてこうなったのか?運命の悪戯なのか? 答えの半分は鎌倉殿の13人で『イヤじゃ』と連発していた老獪な誰かさんに振り回されたのですが、振り回らせた側にも様々な『思い』が存在して居たに違いありません。義仲公と頼朝公の宿怨を再度簡単にお伝えすると、義仲公のお父さんと頼朝公のお父さんは兄弟です。そして頼朝公のお父さんの方がお兄ちゃんであり、其々にお母さんは違うのです。ところが頼朝公のお父さんの一番上の息子さん(今で言えば親戚)が領地争いで義仲公のお父さんと赤ちゃんだった義仲公を襲いました。結果的に義仲公は木曽まで逃げおおせましたが、お父さんとお爺ちゃんは殺されてしまいました。そもそも義仲公を討伐すると決めた頼朝公の思いはどうだったのでしょう? そんな簡単に親戚を襲えるモノなのでしょうか? 時代が違うの一言ではどうも片付けられません!私は此処がどうしても若い頃から得心しておりませんでした。

平安時代の武者
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私の読んで来た木曽義仲公に関する多くの書籍は史実に基づいて記されており、その史実から色々な推察を私の感覚を元にアレやコレや考えます(ソレガタノシイノデス)。義仲公を深く考察され、其の生き様に美しさを感じた人で歴史上有名なのが松尾芭蕉芥川龍之介さんです。また世の中には他にも多くの義仲公ファンの方々がお見えになると思います。そんな中で長野県上田市出身の西川かおりさんを今回ご紹介致します。来歴として社会科教諭を経て漫画家として活躍され、長年義仲公の研究をされて多方面で御活躍されている方です。木曽の日義にある義仲館は西川さんのプロデュースでリニューアルオープン致しました。

西川かおりさんが描く義仲公です。私の思い描いた義仲公とはだいぶ違いますが、正直カッコいいです。 『乱世を駆ける』より
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同じく巴御前です。
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義仲公配下の弓の名手である手塚太郎金刺光盛の末裔も漫画家の手塚治虫さんですので面白い偶然です。私が読んでいた挿絵なしで字だけの本では無く、娘達に信濃の英雄である義仲公を簡略に知ってもらう為に木曽日義の義仲館で購入した『乱世を駆ける』には西川さんが史実に基づき、女性ならではの柔らかい感性で表現された文章が多く載っております。内容に私はとても共感して娘達に読ませる本に選びました。しかし親の押し付けだったのか、数年経過しても下の娘の部屋の本棚に全く読んでない状態でコヤシ化してましたので召し上げました(ンナロ〜デス 笑)。その中で頼朝公が後白河院からの上洛を要請された時における『思い』が記述されている文章が有ります。コチラも史実に基づき『思い』で書かれた文章ですが、物凄く的を得ている考察だと考えますので失礼ながら御案内させて頂きます。

以下抜粋
鎌倉の頼朝は義仲の北陸進軍と都での様子を冷静に見つめていた。平治の乱で伊豆に配流されるまで都で暮らしていた頼朝には都の情報が伝わるネットワークが存在していたからだ。義仲が入京する際、ぞくぞくと表れた源氏の武将達、自軍の敗北は棚に上げ、義仲と同じ旗を掲げて勝利者の気分に酔いしれていた。これまでの北陸の戦いで平家を破ってきたのはだれなのか。大きな兵力を持つ延暦寺を味方に付けたのはだれなのか。すべての勝利は義仲だけのものではないか。それを分け与える必要など何一つない。
頼朝は義高が大姫と庭で楽しく遊ぶ姿を眺めた。こうなることは、分かりきっていた。義仲は源氏に対して情が厚すぎた。『同族』ほど自分の地位を脅かす危険な存在は他にはないと、なぜ気づかなかったのだろうか。弟にすら臣下の礼をとらせている頼朝は、自分の考えが正しかったことを確信した。ただそれと同時に、一抹の寂しさもこみ上げた。頼朝が義仲と刃を交えなかったのは、自分とは違う方法をとる義仲が、どんな道をたどるのか見定めたかったからだった。頼朝は義仲から受け取った書状を懐から出してしみじみと眺めた。そこには『平家は一族が思い合っているから反映したが、源氏は一族が殺し合ったから衰退した』とあった。しかし今都に集まった源氏達はどうだ。義仲に従う気などないうえに都の治安が乱れている責任を、全て義仲に押し付けて知らぬ顔だ。朝廷にとり行って、自分がうまい汁を吸うことしか考えていないではないか。この混乱をおさめるためには、だれかが混乱する源氏の上に立つしかない。義朝は決意した。使者の往来を通じ、後白河院から北陸道東山道北陸道の支配権を認めさせ、義仲追討の軍勢を送ることを約束したのだ。頼朝は弟の範頼、義経に兵を与え、都へ向かわせた。自分は決して鎌倉を動こうとはしなかった。それは東国の武士らに静止されたからとも、奥州藤原氏ら、北方の脅威に備えるためとも言われている。しかし、それだけだろうか。同じ目標を違う道でかなえようとした義仲の最後を自分の目で見たくなかったとも考えられる。

以上が西川かおりさんの考察であると思われます。数年前に此の書籍を娘達に読ませようと購入し、ザッと目を通した時に色々な考察の的確さに感じ入りました。端的な史実のみを学んで来た私には衝撃的でした。生意気に20代の頃は地元の英雄である義仲公をよくもやりやがったな 頼朝〜コンナロ〜って思ってました! その後に歳を重ねると勝者の歴史だから仕方ないと思っておりました。しかし釣りの合間に立ち寄る事の多かった義仲館で、たまたま買った『乱世を駆ける』に先に紹介した文章が掲載されており、特に最後の文面が私の心に響いたのです。日本最初の武家政権を打ち立てた頼朝公も実際のところは義仲公の最後は見たくなかったと言う考察に私は正直救われた気分でした。此の場を借りて思いの隙間を埋めて頂いた西川先生に御礼申し上げます。

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次に続きます

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 18

義仲公が出た都では治安がますます悪く成りました。飢饉明けと言う事もあり東海道東山道北陸道から届けられる筈の年貢が不貞の輩によって略奪されて都には届き難い状況でした。其処で後白河院は先に鎌倉に居ながら征夷大将軍に任じた頼朝公に上洛を促したのです。義仲公が次の帝に北陸の宮を推したのが後白河院の勘気に触れました。恐らくは武家が権力を持つと清盛公の様な煩いを行う存在になると思っていたと思います。義仲公の言い分は平家打倒のキッカケは間違いなく以仁王の令旨であり、其の令旨受けて義仲軍は兵を挙げた、其の以仁王の血つながる皇子を帝にしてはどうかと言う内容でした。それも決して上から押し付けたのでは無く、正しく理路整然なる事を言ったまでなのです。また飢饉明けの都には盗賊がはびこり、取り締まっても後から湧いてくる状態だったのも義仲公には不利に働いたと思われます。

しかし変な話なのです、飢饉明けの方策を打ち出さずに放置したのは院側の失策なのです。其れを政治に一言も口を出していない義仲公に全て押し付けた格好になっているのは余りにも不条理です。因みに義仲公をはじめ武家は昇殿すら許されてない立場だったので都の政治には全く無関係だったのです。私が此のシリーズを始めるのに最初はグダグダした宮中の話を長くご案内したのは、此の『グダグダ』に義仲公がやられてしまったので成るべく細かくご案内しようと思ったからなのです。此の一事を見ても時流を読む事が処世術の王道である事は今更ながら感じますが、大和男児には曲げられない事も絶対に存在しますね!

此のような貴族達の考えを頼朝公は流人のうちから乳母の妹を母に持つ三善康信より情報を貰って百も承知でした。其れ故に武家だけの政権を鎌倉に打ち立てたのです。私は義仲公と後白河院が不仲になる過程を何度も何度も読み返し、違う文献に巡り合うと細かい表現を拾い違う史実は無いか探しましたが大雑把ですが記述した内容が主でした(猫間中納言こと藤原光隆との事や牛車の乗り降りの仕方等、他にも義仲公を誹謗した内容は数多くあります)。仕方の無い流れとは言え何時も世の無常さを感じます。また義仲公の一つひとつの行いの積み重ねが全て未来につながってかいる事を思うと、義仲公の様に日常的に正しい悔いのない行動をする事の大切さを感じさせ
られます。(ワタシハクイダラケデス 笑)

三善康信 見事な配役です。 NHK鎌倉どの13人より
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一方で頼朝公は此のタイミングで抜群の政治能力を発揮致します。其れは後白河院の上洛要請を逆手に取り、年貢が滞っている東海道、東山堂、北陸道の支配権を自分に任せてもらう代わりに確りと年貢をお届けしますとの提案でした。後白河院からすれば誰が支配していようが年貢さえ来れば問題は無いのです。しかし後白河院は万が一義仲公が反旗を翻す事を想定し北陸道だけは許しませんでした。しかし東山道こそは信濃がある街道であり、義仲公と四天王の生まれ育った信濃を頼朝公に渡せと言う話につながるのです。

街道と畿内の図
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見ての通りに東山道は長いのです。北海道(蝦夷ヶ島)は勢力外なのが分かると思います。敗れた義経が逃れたと言われるのも肯定出来ますね!

平家討伐に向かう前に義仲公は行家が院と結び付き何やら怪しい動きをしている事と頼朝公の動きが不自然だった事もあり、信頼する四天王の1人である樋口兼光を都に残しておりました。完全に私の推測ですが、名参謀の今井四郎兼平の進言だと思われます。

一方此の時の平家は勢力を盛り返して拠点を讃岐の屋島に移しておりました。義仲軍は備前の水島に向かい戦船の張達を行いました。この義仲軍の動きを敏感に察知した平家は平知盛、平教経、平重衡等を向かわせて合戦と成ります。此れはアイスホッケーの選手と厳ついラグビーの選手がスケートリンクの上で対抗するように水上戦(船戦)に慣れた平家が断然有利でした。

※ 水島合戦 寿永2年閏10月1日(1183年)
此の戦いは備中國水島(現在の倉敷市)で行われた源平合戦の一つです。義仲軍の矢田義清海野幸行広が率いる軍勢7000騎は浜に待機し500余艘の戦船を用意しておりました。一方船戦を得意とする平家軍は大軍で海上に有りました。

此処から『乱世を駆ける』に出ている描写を交えてご案内致します。両軍睨み合いの最中に一艘の小船が浜に向かってまいりました。義仲軍は地元の船かと思ってボーっと見ていると其の小船は平家軍を乗せた船だったのです。驚いた義仲軍の大将2人は用意した船に乗り込み、矢田勢と海野勢に別れて海上に漕ぎ出したのです。気合い充分の義仲軍でしたが平家方の狙い通りに得意な海上戦に持ち込まれてしまった事になります。義仲軍は慣れない船の上で満足に立つ事も出来ず、統制の取れてない船団はユラユラ浮かんでいるだけの状態だったと伝わります。漁師から調達した船と平家の合戦仕様に造られた船では構造自体が違います!また義仲軍は通常の大鎧を纏い、平家軍は大将を除き大鎧を纏う武者は殆どおらず、大半の将士は『腹当』という簡易的な甲冑を身に付けておりました。大鎧の重さは兜を入れると25kgは有ります! 対して『腹当』は最も軽い防具なので不安定な船上で体の負担が少ないのです。ご想像下さい! 25kgの鉄を背に背負って手漕ぎボートに立っている状態が此の時の源氏武者だったのです。

腹当 Wikiより
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直垂に腹当を付けた武者姿 Wikiより
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大鎧 
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そんな義仲軍の船団を尻目に平家の船団は意のままに立ち位置を変え、矢を射掛けたり義仲軍の船に乗り込んで太刀を奮って切り結び有利に戦を展開しました。義仲軍の兵船が一箇所に集まると平家軍は船同士をつなげて板を敷き、安定した板の上から強力な矢を放って来ました。想像しただけでも空恐ろしい状態です。

かなりの窮地でしたが義仲軍は連戦の猛者揃いでした。オマケに信濃の峻険な山々で鍛えられた勇猛果敢な信濃武士達は的を射止めるだけの弓術にあらず、皆が山野で野生の獣を仕留める事が出来る実践的な弓術の持ち主達です。敵が横に並んだ事で的がハッキリした平家軍を強弓から放たれる強力な矢で次々に倒して行きました。あわや形勢逆転かと思われた其の時、両軍の武者達を暗闇が包み出しました。そして義仲軍諸将の眼にはあらぬ物が映ったのです。『なんじゃ〜有れは?』

にわかに空が暗くなり、背後の山から鳥達が一斉に飛び立ち、周囲が暗闇に閉ざさました。そして今迄は太陽が有った場所に丸い明るい輪が出来ていたのです。暫しの沈黙の後に次第に其の光の輪が横に広がって太陽が顔を出したのです。現在まで伝わるこの自然現象は『日食』です。貴族の仕事をしていた平家は暦(太陰太陽暦)を創る仕事を任されていた為に日食が起こる日と刻限を知っていたとされます。

金環日食 茨城県鹿島市2012年5月21日
Wikiより
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義仲軍が天空を見上げていた視線を前に向けた時、既に平家の軍船が目の前に来ていたのです。勝敗はあっという間につきました!矢田義清海野幸広を始め高梨高信、仁科盛家などの歴戦の勇将も討ち取られてしまい義仲軍は敗走しました。勝利した平家は勢力を盛り返して摂津の福原まで進軍したのです。此の水島の戦いは平家が最初から最後まで水軍の利を用いた大勝利となりました。平家は福原で都へ登る機会をうかがいながら此の後に起きる『一ノ谷の戦い』へ進みます。実は平家軍がブイブイいわせて挑んだのが『一ノ谷の戦い』だったのです。

敗北の知らせは義仲公に直ちに伝わり、義仲公は矢田義清海野幸広を死なせてしまった事と信濃から付き従ったくれた多くの武将達の死に対して悲しんだと伝わります。ところがそんな義仲公の元に平家から和平の申し入れを告げる書状が届いたのです。討ち死にした仲間の顔がチラつくなかで思い悩んでいた義仲公に更に最悪の知らせが届きます。

其れは都に居た義仲四天王樋口兼光からでした。後白河院が手を返して義朝公に対して直ちに上洛して義仲を打つように院宣を下したのと内容だったのです。後白河院は義仲公が都には帰ってからを思うと色々面倒くさいので頼朝公に殺させてしまおうと考えたのでしょうか! 何にしても理不尽極まりない話なのです。

後白河院 西田敏行さんは好きな俳優だけに微妙です。  NHK鎌倉殿の13人より
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次に続きます

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 17

義仲公は左馬頭になると同時に後白河院より旭将軍という院宣を受けました。また義仲公は拝領した大国の越後は恐れ多いと願い出た為に他の領地を賜ったのです。義仲公との格差に行家叔父は憤慨しておりました。そして院からの任官の使いを門前払いした事は前回ご案内いした通りです。義仲公に擦り寄る公家もおりましたが清廉潔白な義仲公から利が得られないと分かると逆恨みして田舎者となじりました。いつの時代にも存在する嫌なヤロ〜達です。

もう1人の源氏頭領である頼朝公の先見性の一つは十郎源行家を追い出した事だと思います。義仲公は自分を頼って来た叔父を追い出すなんて人倫の道にも悖る(もとる)と考えたのだと思います。結果が良かった方が正解と一言で言える程に運命の歯車は単純ではありませんね!思うと一つひとつの行動が未来を決めている事が分かります。

一方都落ちした平家一門は福原にも止まらず、筑前大宰府に到着しておりました。ここで平貞能に鎮圧されてから平家に従って来た菊池高直が肥後にある自分の城に向かい自領からしばらく出て来ませんでした。肥後菊池一族は藤原北家の出自と言われており、此の一族は刀伊の入寇の時に大活躍して大宰府官に任命された歴史を持つ一大勢力です。また南北朝時代には南朝の大勢力として活躍した忠義心厚い一族です。

菊池高直 Wikiより
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鎧櫃に記されている並び鷹の羽の御紋は肥後の菊池軍を本拠とした菊池一族の象徴です。有名な蒙古襲来絵詞(注1)を残した竹崎季長も菊池一族であり、後の維新の功労者である西郷隆盛も菊池一族です。

更に平家にとって悪い事が起こりました。それは九州と壱岐対馬など豪族が味方するとの書状を送って来たのにも関わらず、なんと一人も参上しなかったのです。

そんな情勢のなかで後白河院から平家に安徳天皇三種の神器を都に戻すように何度も催促が有りました。しかし平家も安徳帝三種の神器を渡してしまうと賊軍朝敵とされてしまうので渡せる訳がありません。更に後白河院はダメ押しの強烈な一手を打ちました。寿永2年の8月20日高倉上皇の4番目の宮である尊成親王皇位に付けさせて後鳥羽天皇としたのです。此の知らせは平家は勿論ですが、太宰府の武者達をはじめ全国に伝わったのです。日本の歴史上は2人の天皇が同時に存在しないので平家は帝を要する正規の官軍では無くなった事になります。オマケに院より追討の院宣が発せられているのです。

また後白河院は義仲公や行家をこのまま都に置いたら余計な口出しをされると判断しました。そして義仲公を都から遠ざける為に呼び出して、西国の平家を追討せよと御剣を下賜されたのです。此のように出陣にあたって宝剣を授けられる事を『節刀』と言います。分かりやすく言うと任命の証として遣わされる印しの事です。節刀を下賜された義仲公は疲弊しきった体に鞭打ち平家追討の準備を行いました。

日本で最初の節刀は527年に起こった筑紫磐井の乱の鎮圧に向かった物部鹿比(もののべのあらかび)が継体天皇より金の斧を授けられた事例です。また前回ご案内した坂上田村麻呂蝦夷征伐の折に桓武天皇から授けられた太刀も有名です。


鞍馬寺が所蔵する坂上田村麻呂桓武天皇から授けられたと伝わる太刀です。鉄は人が死んでもずっと残りますので生き証人である此の太刀は歴史を具現化した宝物です。(生き証刀かな?)
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さて頼朝公の事ですが鎌倉で地番固めを行っておりました。頼朝公に対しては平家を追い払った1番の功労者で有ると後白河院も認めており、鎌倉に居ながら征夷大将軍院宣が下ったのです。院宣を受け取った場所は鶴ヶ丘八幡宮で有り、名誉ある院宣の受け取り役は三浦義澄(みうらのよしずみ)です。一方朝廷からの使者は中原泰定でありました。義澄は旗揚げからの功労者ですから大役を任されたのですね。

征夷大将軍任官 平家物語より
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北条氏による仁義なき殺戮から逃れて天寿を全うした三浦義澄 74歳で病没 Wikiより
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鎌倉殿の13人では佐藤B作さんが演じておりますね!  NHKのHPより
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任官の式典が終わり頼朝公の館を訪れた使者の中原泰定に頼朝公は自分に従わない陸奥藤原秀衡常陸守佐竹隆義、平家追討の手柄を横取りした源義仲源行家を追討する院宣を賜りたいと伝えました。さすがは同族でも従わない者なら皆殺しの源氏嫡流です!泰定は一度都に立ち帰った後に再訪すると告げたと伝わります。頼朝公は使者の泰定に多くの貢物を持たせました。(ヌケメナイデス)

鶴ヶ丘八幡 HPより
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話は目まぐるしく変わりますが平家はこの短い期間で勢力を見事に盛り返します。拠点を屋島に置いて山陽道8か国、南海道6か国を従えたのです。この辺りは流石に隆盛を極めていた平家一門ですね。個人的な私観として申し上げますと義仲公や義仲四天王は郷土の誇りであり憧れです。一方で源氏と平家(平氏デハナクテ)を思うと身内で殺し合った源氏(一族を残す為に仕方ないとも思える)より身内を庇いあった平家は滅んでしまいましたが身内の温もりを感じます。この辺りも平家物語が諸国に受け入れられた理由ですね。

義仲公は歴戦の疲労の蓄積と慣れない都での生活で西国の平家追討の院宣を受けながら都にとどまっておりましたが、平家が勢力を盛り返したと言う報を聞いて動いたのです。猛将矢田義清を大将軍として侍大将に海野弥平四郎行広を任命して山陽道に向かわせました。其の軍勢は7000騎と伝わります。軍を動かす時には必ず兵糧が必要になりますが朝廷からは何の沙汰も無く、都の周囲から礼を持って調達しました。しかし此の時に義仲軍を名乗って強盗を働く不貞の輩が多く現れて都の民家に押し入りました。不貞の輩は取り締まっても取り締まったも次から次へと現れて収拾がつかなかったと言われております。都を出た義仲軍を尻目に後白河院は義仲追討の院宣を頼朝公に下したのです(ヒドイ)。この後に平家軍が水軍の強さを見せた水島合戦となり、いよいよ次に頼朝公と義仲公は争うのです。ずっと以前に義仲公と頼朝公は一触即発状態となりましたが義仲公が嫡子である義高を鎌倉に渡す事で決着が着いております。其れ迄は嫡子の義高公も義朝公の娘である大姫と仲睦まじく過ごしておりました。此の義高公と大姫の話は悲しい話で長くなりますので後にご案内致します。



※ 注釈 蒙古襲来絵詞について少しご案内します。

まず蒙古襲来は教科書に出ていた文永の役弘安の役という2回の国家存亡の危機の事です。その蒙古襲来で活躍した竹崎季長が子孫に自分の活躍を伝える為に残したのものが蒙古襲来絵詞なのです。人類史上最も広い領土を有した最強のモンゴル軍を鎌倉幕府執権北条時宗が大将となって退けたのは日本の歴史上において本当に偉業中の偉業ですね。

『蒙古襲来』と言う言葉は鎌倉時代からある呼称です。『元寇』は江戸時代に『蒙古って元って言うんだ』みたいな情報が日本にもたらせられてからの呼称なのです。色々なご意見は有ると思いますが個人的な考えとして正式な表現は『蒙古襲来』だと思います。この2度の蒙古襲来に抜群の働きをしたのが九州の御家人達なのです。其の中に蒙古襲来絵詞の製作を命じた菊池一族の猛将竹崎季長(すえなが)が居たのです。竹崎季長は同族内の争いに敗れて辛酸をなめておりましたが元軍との戦いに侍従たった5騎で参加して一番乗りの武功を上げました。しかしその後論功行賞に漏れてしまったのです。面白くない竹崎季長は馬を売って鎌倉までの旅費を捻出し、鎌倉幕府に談判したのです。そして季長は談判の甲斐あって肥後国海東郷の地頭に任じられました。

竹崎季長は自らの活躍を子孫に残す為に蒙古襲来絵詞と言う絵巻物を絵師に描かせました。竹崎季長が自分の活躍を後世に残すための資料なのですが、何故か教科用図書検定調査審議会は精妙なトリミングによりカットされた蒙古襲来絵詞の写真を教科書に載せる事を承認しております。

矢が刺さり血を噴き出した馬に乗っているのが竹崎季長です。如何にも日本の武将がやられてる〜って感じの写真ですが、本当は馬がこんなに暴れても武士にとって不名誉な落馬は無かったと言う表現なのです。  Wikiより
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此れでは何故か蒙古兵に日本の武将が一方的にやられている姿しか想像出来ませんね。また逆に言うと其のように想像させる様に大陸は強いと仕向けた組織が存在していると言う事です(沢山の不思議がございます)。自分の活躍を子孫に残す必要があった竹崎季長がそんな絵を描かせるハズが有りません、次の絵をご覧下さい!

上の写真の少し左を見て見ましょう、なんと鎌倉武士が放った矢が刺さり逃げ惑うモンゴル兵隊が描かれております。
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其の向こうは戸板で日本側の矢を防ぐモンゴル兵です。世界一の精度と破壊力を持った当時の武士が放つ矢に戸板を貫かれ倒れているモンゴル兵も見られます。
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菊池一族に追い立てられるモンゴル兵です。
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こちらも追い立てられて背を向けるモンゴル兵が描かれております。
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モンゴル兵には白人や黒人が混じっている事を描いております。
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以上の写真をご覧になって明らかだと思いますが、弘安の役においての陸戦は日本側の圧勝なのです。日本が外敵からの侵略で国家的危機に成った事例は不勉強な私の知る範囲で大東亜戦争の前に少なくても3回有ったと思います。一つは白村江の戦い(663年)ですが、此れは新羅と唐が争ってくれたおかげで助かりました。二つ目が今回の蒙古襲来です(特に2回目の弘安の役)。そして三つ目が日露戦争における日本海海戦であります。此の時も連合艦隊が勝利したおかげでロシアの植民地に成らずに済みました。どれも国家的危機でしたが三つの中で一番不味い状態が弘安の役だったと思います。旧南宋の江南軍と東路軍という人類の歴史上類を見ない程の大軍を鎌倉武士団は打ち破ったのです。私は鎌倉幕府歴代執権の1番の功労者は第8代執権北条時宗であると思います。

北条時宗 NHKアーカイブス放送史より
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北条時宗は元の大軍を防いで天の使命を全うしたのか、弘安の役が終わった3年後に34歳の若さで没してしまいます。正に此の為に生まれて来たのかと思わせる人生でした。日本を救った名執権なので鎌倉に言ったら是非とも北条時宗のお墓が有る瑞鹿山円覚寺(えんがくじ)を詣でてみて下さい。

また不思議な事に此の後のクビライは戦争に勝てなくなりました。ポーランドに敗れたり、ベトナムに向けては都合上3回も軍を送りましたが押し返されました。またクビライがその後に死ぬ事で元による日本の侵攻は無くなりました。しかし蒙古襲来によって鎌倉幕府もかなり消耗して滅亡を早めた事は否めませんね。


日本へ派遣された元の艦隊は史上例をみない世界史上最大規模のとんでもない艦隊だったのです。 NHKアーカイブス放送史より
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よく言われる様に神風が吹いてモンゴルの船団が遭難した事も有りますが、武力でも日本は歴史上唯一モンゴル帝国に勝利した国なのです。この後はペストの大流行などでモンゴル帝国は衰退して行きます。最後に私の思いを少し明記致させて頂きます。今回の蒙古襲来絵詞のトリミングもそうですが昔から不思議なのが何故か日本を弱く悪い国にしたいと言う力が働いているのが不思議で成りません。口が過ぎましたのでこの辺でやめておきます。

次に続きます

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 16

平家が都落ちして行く一部始終を義仲公はただ見守っておりました。横田河原の戦いは援軍を要請されて戦いに挑み、北陸での連戦は平家が義仲討伐軍を差し向けた為に此れに応じて世の中を変える為に戦ったのです。そして義仲公は鞍馬から比叡山に逃げこんでいた後白河院を報じ奉り都に入りました。 

平家物語には多くの武将が都落ちする場面が表現されております。ご存知の通り此の後に大きな合戦を経て頼朝公によって鎌倉幕府が成立されますが、何故に朝敵となった平家がこれ程までに世の中に受け入れられたのか、私は若い頃にずっと不思議に思っておりました。通常は勝利した源氏側の物語が流行るはずであり、鎌倉幕府も盲目の琵琶法師が平家物語を伝え歩く事を許すはずが有りません。

平家最強の武将と思われる平教経 Wikiより
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其の理由として源平合戦に勝ったのは源氏である頼朝公の軍ではありますが、頼朝公の軍に参加した有力武将は大部分が平氏の血筋だったからです。其れは現在放映されている鎌倉殿の13人を見ても分かりますね!北条も平氏を名乗り(注1)、三浦氏も千葉氏も秩父氏もバリバリの平氏です。その平氏の中でも清盛公の一門を平家と言いますが、同じ一族で一番活躍した清盛一族の話を『憐憫の情』を持って記した軍記が『平家物語』だったのです。敵となったとは其れは自分の一族が生き延びる為に選んだ道だったのです!日本の武家は往古より正々堂々と戦って負けた相手を決して辱めたりする事は有りません!此の事はずっと先に起こった日露戦争大東亜戦争になっても同じであり、敢えて表現するすると『武士の情け』なのです。湊川神社に祀られている楠木正成公は赤坂・千早の合戦の戦死者を弔う為の慰霊塔を建立しておりますが、敵を『寄手』と表現し塚を築き、身方の慰霊の為の『身方塚』と合わせて建立しております。それも『寄手塚』の方が『身方塚』より大きいのです。此れは敵にも敬意を持って接しており、敗者を辱める事は絶対しないという気持ちの現れですね。此の様な事は半島からチャイナは勿論ですが白人の国では絶対有りません!

もっとも日本においても清盛公から始まった武家の台頭以前は少し違いました!桓武天皇の命令により行われた蝦夷征伐での戦後処理を見ても其れは明白です。8世紀末まで東北の北上川流域を『日高見国』と云い、大和朝廷の勢力圏の外でした。彼等は狩猟などで独自の文化を形成し幸せに暮しておりました。朝廷は服従しない民を蝦夷と呼んで蔑視し、従わない彼等を攻める為に軍隊を送ったのです。日高見国の部族の頭領である阿弖流為(アテルイ)は近隣の部族と共闘し派遣された朝廷軍の数回に及ぶ侵略を見事に阻止しました。『蝦夷』と言う文字を崩すと理解できますが蝦(えび)に夷は弓と人です。誰もがわかる様に此れは正しく縄文の血を受け継いでる方々ですね。

阿弖流為(アテルイ)公  岩手日報の記事より
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度重なる朝廷軍の敗北を苦慮した桓武天皇は当時最強の武人であった坂上田村麻呂征夷大将軍として東北に送りました。智謀に優れた坂上田村麻呂は巧みな戦略で有利に事を進めました。そして追い詰められた阿弖流為はついに屈したのです。武人である田村麻呂は勇敢に戦った阿弖流為に対して礼を持って接しました。そして阿弖流為と副将の母礼(モレ)を伴って京都に帰還したのです。坂上田村麻呂は此の時に両雄の武勇と器量を惜しんで東北の地を経営する事に対して大事な人物であるとして都まで同行したのです。此れは現場で命を懸けて戦った者が肌で感じた事だと思います。都に着いた田村麻呂は早速朝廷に二人の助命嘆願を理由を伝えて行いました。しかし一部の公家達が苦労した田村麻呂の気持ちを踏みにじり、助命を拒んで英雄2人は処刑される事に成ってしまいました。其れも都の地を獣の血で汚すとまで言い捨てられ、河内まで2人を連行して処刑したのです。立派に戦った末に帰順した2人を死なせてしまった田村麻呂は大いに落胆したと伝わります。色々な理由は有りますが後の頼朝公は此の様な民心を知らない公家社会を嫌いました。其れ故に武家だけの政権を都から離れた鎌倉に打ち立て、都の公家達との距離を取ったのです。公家化した平家も此の為に打ち滅ぼした事になります。念の為に申し上げますが此の時の朝廷とは陛下の事では無く、周囲の民の暮らしを顧みない公家達の事をさします。再度重ねて申し上げますが公家にも和気清麻呂北畠家のような立派な方々も数多くおります!

故郷を守った阿弖流為と母礼の碑 岩手県の英雄です。アテルイを顕彰する会のHPより
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蝦夷の武器は騎馬と弓、もう一つが此の『蕨手刀』です。
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持ち手の上でくの字に反る独特の形状で柄の下が蕨の穂の様にクルッと丸くなるのが特徴です。男性の方なら経験が有ると思いますが、金属バットはコンクリートなどの固い物に当てると手がジーンと痺れますね、其の痺れを柄と刃に角度を付けることにより軽減しているのです。不思議な事に蕨手刀は北海道〜東北地方が主体で北関東までの出土です。此の蕨手刀が湾曲した反りを持つ日本刀の原型に成ったと伝わります。此の合戦後に蝦夷の人達の一部は全国35カ所に造られた郷へ強制移住させられました。この人たちを『俘囚』と読びます。朝廷は此の俘囚の方に定住先で生計が立てられるようになるまで住居をはじめ食糧や衣服を支給しました。其の中に鍛刀に携わる者達もおり、刀造り技術も全国に伝わったと思われます。

坂上田村麻呂  Wikiより
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最近なんとなく脱線ネタが多くて申し訳有りません、反省して本文に戻ります! 義仲公の入京に伴い甲斐、信濃、美濃、尾張の源氏も同時期に入京し其の数は六万騎と伝わっております。源行家は数千騎で宇治橋を渡って都に入りました。矢田義清大江山をへて上洛しました。ほぼ20年もの間見られなかった源氏の白旗が都に翻り、都は源氏の武者でごった返しました。ところが此の時の都は飢饉明けで少ない食糧しか無かった事と平家が都落ちで大部分の食糧を持って行った事も有り、コレだけの人間に間に合う食べものは有りませんでした。コレも後の義仲公にとっては結果的に良くない事に結び付きました。

入京した義仲公の元に中納言の藤原経房と検非違使別当左衛門督である藤原実家の両人が使者として訪れ、義仲公と行家を院の殿上に召し出したのです。

義仲公は四天王と手塚光盛と巴を引き連れ行家と共に参上しました。此処で後白河院からは平家追討の命が下ったのです。其の時に行家はズカズカと前に進み院宣を受取り、義仲公は深く頭を垂れて静かに受け取ったと『乱世を駆ける』には明記されております。此の時の行家は義仲公を差し置いて自分が頭領の様に振る舞ったと色々な文献で伝わっております。都での2人の館として義仲公は平成忠の六条西洞院を賜り、行家は法住寺殿の南殿を賜りました。

乱世を駆けるより
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後白河法皇安徳天皇が平家に連れられて当てもない旅路に向かった事を哀れむのと同時に、皇統の継承に欠かせない三種の神器が持ち去られた事に憂慮されておりました。しかし一番大事にすべきは皇統の継続だったのです。高倉上皇の皇子は安徳天皇の他に三人おりましたが二の宮である守貞親王は平家が皇太子に立てようと西国へ連れて落ちていました。しかし三番目と四番目の皇子は都におわしたのです。2人とも後白河院の孫ですが伝わる話によると3番目の皇子は院の前に座ると泣いてむずかり、4番目の皇子は後白河院に直ぐになつき、膝の上に乗ったと言われております。この4番目の皇子こそ後の後鳥羽天皇です。

義仲公の思いとしては源氏が平家打倒の為に戦った直接のキッカケは以仁王の令旨です。しかし其の功労者で有る以仁王は平家に打たれております。唯一以仁王の血脈を継いでいた宮様が『北陸の宮』なので北陸の宮が正当な帝となるべきで人あると考えていたのです。全く持って正論だと思いますが、後白河院や公家にとっては帝とは自分達の権力の象徴で有り、仮に北陸の宮を帝位に付けたら義仲公が平家と同じ様に振る舞うのではないかと疑心暗鬼だったのです。ヘンテコリンですけど此れが実態でした!

そんな状態の中で行家がやらかしたのです。何と源行家は院が使わした任官の伝令を門も開けずに追い払ったのです。後白河院の考える挙兵からの功績で言うと頼朝→義仲→行家の序列でした。此の序列は誰が見ても公正な序列ですね!因みに此の時は義仲公は従五位下左馬頭兼越後守で行家は従五位下備後守でした。行家は以仁王の令旨を全国に配ったのは自分であるのに義仲公より自分が下の評価とは納得がいかなかったのです。如何なる存念が在ろうと院からの使者を門外で追い払う事はとんでもない暴挙でした。また行家は義仲軍に身を置いておりました為に、此処からは清廉潔白な義仲公を取り巻く情勢が一変してしまうのです。


次に続きます



注釈

北条家は桓武平氏と名乗ってはおりますが現在の研究では分からないというのが現実みたいです。また別の言い方をすれば北条氏が自家の系譜が正確に伝わる家ではなかった事を示しております。北条家の家紋は三つ鱗紋ですが、此れには逸話が伝わります。

三つ鱗紋
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此れは北条時政江ノ島に参籠した際に目の前に弁財天が出現したと伝わります。弁財天は『もし非道を行なえば家が滅びる』と告げて蛇に変化して海中に消え、その時に3枚の鱗を残したと伝わります。それ以来北条家は三つ鱗紋を使用しておりました。弁財天との盟約を犯したので滅んでしまったのかは謎ですが、何にしても日本最強のNo.2として君臨した一族である事は間違い有りません。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 15

※ 義仲公の入京
義仲公の入京の前に平家が都を捨てる決定打となったのは延暦寺が義仲公の味方に付いた事である事は前回にご案内致しました。この約定を知らない平家公達は此の後も延暦寺に願書送っております。天台座主の明雲は平家からの願書の表に歌を一首書き記し社壇に納めて三日間の祈りを捧げました。其の恐るべき内容は『平かに 花咲く宿も 年ふれば 西へ傾く 月とこそみれ』です。何か今後の平家の命運を暗示しているような表現で空恐ろしさを感じますね。

少し脱線致しますが『和歌』と言うものは元々神々に捧げるものであり、絶対に歌の内容に嘘が存在しては生けないのです。平安時代には『神明は和歌を喜び給ふ』と言う表記がされており、歌は神々に奉納されておりました。『歌には国をも動かす力が有る』として代々公卿の限られた者に古今和歌集を通した解釈が『古今伝授』として伝わってまいりました(一説には術的な魔法陣)。ところが一度だけ古今伝授が途絶えそうになった時がございました。それは今迄公家に伝承されて来た古今伝授が伝承者の不在から武家細川幽斎に二条流の歌道伝承者である三条西実枝から成されていた時の話です。運悪くこの時は日本がひっくり返る程の大戦が行われたのです。

関ヶ原古戦場 Wiki
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それは慶長5年に関ヶ原の戦いの寸前に起こった『田辺城の戦い』です。伝承者の細川幽斎家督を息子の忠興に既に譲っておりましたので忠興は家康公の軍に参陣してました。居城には幽斎が留守番しており、たった500の兵で守っていたのです。其処に突然30倍の石田軍15,000が攻めて来たのです。此れには流石の幽斎も武士らしく討ち死にする道を選んだのです。

ところが此の情報を聞いた後陽成天皇は古より伝わる古今伝授が潰える事を心配して勅使を派遣しました。そして三成と和議を結ぶように再三促して何とか和睦させたのです。折しも其の後直ぐに関ヶ原の戦いが起こり東軍が勝利しました。こうして古今伝授が幽斎から行われて現在に至っております。

細川幽斎  Wikiより
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田辺城 Wikiより
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古今伝授の太刀
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国宝の古今伝授の太刀です。幽斎が古今伝授を行った一人である烏丸光広に贈られ、其の後は中山公爵家に渡っておりましたが明治期に競売に掛けられ第三者に渡りました。後に本間順治(注1)の仲介により細川幽斎の子孫である細川護立が買い取って細川家に戻ったのです。平安時代末期から鎌倉時代前期の豊後の刀工である豊後国行平の作です。

少々脱線したので話を戻します。義仲軍の上洛に対して平家も手を色々打っでおりましたが関東や北陸につきましては如何ともし難い状況でした。そんな中で鎮西の謀反は平貞能が此れを鎮めて寿永2年(1183年)の7月14日に3千騎を率いて上洛しました。往時から京の都は攻めるに易くて守るに難い場所でしたので義仲公の軍が今にも攻め入ってくるの中で平家の総帥である宗盛の心中は想像に難く有りません。

そんな中で美濃源氏佐渡右衛門尉重貞と言う人物が六波羅平宗盛に義仲公の軍は北陸道より5万騎で攻め上って既に坂本に布陣しており、今正に都に乱入して来ていると告げたのです。此のお方は源氏でありながら保元の乱源為朝公を捕えて平家に突き出し、其の恩賞により官位を得て源氏勢から狙われている状態の御仁で有り、ハッキリ申し上げて嫌な野郎でした。この報により宗盛は山科や宇治橋へ兵を送って守りを堅めたのです。まだこの時は衰えたと言っても平家には一騎当千の強者達が多く存在していたのです。

しかし新宮十郎源行家が大軍で宇治橋から都へ入ったとか、矢田義清大江山を経て上洛するとか、摂津と河内の源氏勢力が集結して都へ攻めて来るなどの怪情報が宗盛に入りました。こうなると1箇所だけ守りを固めても最早どうにも成りません。負け戦で無駄に兵を失っても仕方ないので宗盛は兵を六波羅に戻したのです。

もう都を離れるしか無い....と平宗盛は決断しました。そして7月24日の夜更け(深夜)に宗盛は建礼門院徳子の元を訪れ、後白河法皇安徳天皇をお連れして西国へ向かう旨を告げたのです。其の時の建礼門院は涙をこぼしながら兄の言葉に同意したと伝わります。

建礼門院徳子  Wikiより
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都落ちの話を何の者から得たのか分かりませんが、7月24日の夜に後白河法皇は近臣を1人だけ連れ、誰にも告げずに法住寺を離れて比叡山に逃げました。此の話を聞いた平宗盛は大慌てとなりました!法皇が不在なら戦局を有利に運ぶ事が出来ないからです。後白河法皇はあっさり簡単に平家に見切りを付けたのです。そして裏切られた平家は6歳の安徳天皇建礼門院を連れ、最後に源氏にくれてやるくらいなら....と住んでいた館に火を放ち都から落ちて行きました。此の場面は何時も悲喜交々な情景が目に浮かびます。

此処で雅な平家らしい逸話がごさいます。清盛公の異母弟である薩摩守平忠度の話です。平忠度と言えば熊野生まれ熊野育ちで平家一門の中でも指折りの武勇を誇った武者です。其の膂力は凄まじく、正に怪力無双だったと伝える書籍もございます。また武勇に優れる一方で和歌の大家である藤原俊成(ふじわらのしゅんぜい)に師事しており、文武共に優れた武人でした。歌の師匠である藤原俊成千載和歌集の撰者を務めた方でした。

薩摩守平忠度 Wikiより
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平家一門が福原へ向かう中で薩摩守平忠度は師匠である藤原俊成の屋敷を訪れたのです。藤原俊成と会った忠度は平家一門の運命は尽きた事を伝え、自作の歌を100首ほど書き留めた巻物を渡したのです。『此の後に世の中が鎮まり、貴方に撰集の勅命が降った時、此の中にしかるべき歌が在れば、例え一首たりとも勅撰和歌集に載せて頂きたい。そうすれば私は草葉の陰で喜び、あの世からあなた様をお守り申し上げます』と伝えました。現在の人が思うよりずっと歌人が自分の歌に込める思いは強かったのです。先にもご案内したように歌は神々に捧げる物であり、偽りざらぬ気持ちを込めた神聖のものなのです。つまり歌自体が薩摩守の魂がこもった物だったのです。

こちらも薩摩守平忠度です。Wikiより
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此の巻物を受け取った藤原俊成は感動してゆめにも粗末にはないと忠度に伝えたのです。そして今の様な大変な時に訪れてくれた事に対して感涙に咽せたと伝わります。

藤原俊成 Wikiより
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忠度は『屍を野山に晒しても、今は浮き世に思い置くことなし』と告げて俊成の館を去ったと言われております。後に藤原俊成薩摩守の遺言の通り千載和歌集に一首を載せました。しかし朝敵となっでしまった平忠度の名前は出さずに読み人知らずとして載せたのです。

『さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな』 故郷の花 読み人知らず


平忠度はその後一ノ谷の戦いにおいて源氏の武将である岡部忠澄と戦って討ち取られました。享年41歳であったと伝わります。


次に続きます


注釈1
本間順治先生は刀剣研究の大家です。お生まれは山形県酒田市の豪商本間家で武蔵七党筆頭の横山党の末派です。國學院大学を経て東京国立博物館で勤務した後に本間美術館の初代館長となります。刀剣の日本的権威であると同時に文学博士の側面も持ちます。日本美術刀剣保存協会の設立に携わったり戦後の日本刀の地位向上に貢献された方です。本間順治先生の祖父や父上も大変な愛刀家であったと言われております。また本間順治先生は別名を薫山と号しており、刀を見て納得した時は鼻をクンクンと鳴らす癖があった事に由来すると伝わります。

日本美術刀剣保存協会 HPより
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戦後にGHQにより全ての武器が没収されて世界に誇る神器の文化が消滅しかけた時に『日本人は刀剣の美しさを鑑賞し、先祖を偲ぶいう面から大切にしている』と唱えてGHQに働き掛けました。この動きに米国の愛刀家であるウォルターコンプトン氏が感銘を受け、日本人の魂を日本へ還そうと蔵刀の月山を二口を本間美術館に寄贈したのです。本間順治氏のこうした活動が功を奏し、刀剣の美術品としての価値を米国に認めさせることに成功しました。故人を評価する方により色々御意見は有るみたいですが、私も1人の愛刀家として日本人の精神的支柱である刀剣をコーカソイドから守った事は偉大な功績だと考える次第です。