みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

雪見酒

金曜日の仕事終了間際、急にお酒が呑みたくなり、一部に声掛けするのも不公平と感じてしまい『本日予定の無い宣言』をした役職員を連れて最寄りの居酒屋さんに向かいました。最近の居酒屋は全国津々浦々のお酒を用意しているので、其の土地を想いながら頂けるのは有り難い事です。一時間半程皆で楽しい時間を過ごして帰宅致しましたが、少々酒量に物足りなさを感じた次第でありました。

一夜明けて土曜日は雪降りと成りました。信州人は雪なんて当たり前の事ですが、人生の半分以上を東京で過ごしている私には望郷の念を抱かせる雪です。有り難い事に今日は何も有りません!其処で休日の特権である昼間からの雪見酒と相成りました。お酒も好きなら酒器も好きで六古窯の酒器を順番に使ったり、父の使用していた磁器の酒器を気分に合わせて使用しております。

丹波焼の赤土部釉です 鉄分の強い化粧土を器面に塗り独特の赤茶色を呈する技法です私は燗酒を頂く時に使いますf:id:rcenci:20200118214812j:plain

お気に入りの酒器で頂くお酒は格別です。娘二人もアルバイトに行きましたので、もう一本頂く事に致しました。しかし一本が二本、二本が三本....となる事は自明の理であります。

父の使用していた京焼の酒器です 写真では分かり難いのですが能面の白の様な深い白であり、外の雪景色に合わせました 肴は山牛蒡の漬物ですf:id:rcenci:20200118214834j:plain

松城焼のお皿です 肴にと思って焼いた塩鯖の切り身を乗せてしまうと此の独特の青色が見えなく成りますので乗せる前に写した次第ですf:id:rcenci:20200118214926j:plain 

本など読みながら頂いていると、あっという間に時間は過ぎてしまい、佐久茂田井の名酒である御園竹(ミソノタケ)の一升瓶に残された酒量も減りましたので『おつもり』と致しました。更科に居た時は雪など特段なんとも思いませんでしたが、雪は良いものだとお酒で熱った顔に心地よい冷気を覚えて感じた次第です。

解禁前の禁断症状

本日は渓友と渓流小物の買出しに20年来通っている釣具店に行きました。取り敢えず解禁も間近となり、50歳まであと2ヶ月の私ですが渓流解禁前はドキドキが止まりません! 困ったものです。向かったのは東京都あきる野市にある岡野釣具店です。本日は江東区から先輩が一人、横浜市から先輩が一人の三人です。岡野さんの店は、あきる野市に移る前の店に偶然立ち寄った御縁で当渓友会全ての会員が此の店を使っております。親切丁寧な対応で品揃えも多く、正に『プロショップ』です。あ〜だ! こ〜だ! 云いながら釣具を通して今年の釣りシーンを仲間と予想するのは楽しい時間です。年間に使うラインやガン玉など消耗品をまとめて購入致しました。

東京都あきる野市にある岡野釣具店f:id:rcenci:20200111174926j:plain

釣具店の後は八王子ラーメンの名店『みんみん』に立ち寄ってから帰るのが通例となっております。此処のラーメンは新入社員の時から美味しく頂いており、28年間お世話になっておりますが何時食べても美味しいのです。八王子ラーメンは八王子市子安町にあった『初富士』さんが初めてラーメンの薬味に玉ねぎを入れ、薄い脂の乗った醤油味の麺に合わせて完成させたラーメンが元祖です。醤油味のキリッとした味に円やかな油が絡み、刻んだ玉ねぎの辛さとの相性が抜群です。最近は???と思う八王子ラーメンを出す店舗も増えておりますが、楢原町の『みんみん』、台町の『でうら』さんや大和田町の『おがわ屋』さんなど昔ながらの味を継承している名店がオススメです。私が最初に食べに行っていた頃にラーメンを作っていた親方から次の世代に変わっておりますが、親から子へ移っても味が変わらないのは本当に凄い事だと思います。因みに元祖の『初富士』さんも中野上町で息子さんが店を継続しております。

写真撮り忘れました! ウィキに有った八王子ラーメンf:id:rcenci:20200111174952j:plain 

話は戻りますが、ウェーダーやウェーディングシューズ、防寒着などは今からチェックしないと現場で万が一もございます。35年以上の釣り経験で物凄い失敗を何度もやりました。千曲川解禁の時に居倉集落の本流でマイナス12°の外気温の中で川に入りましたらウェーダーから勢いよく水が侵入して足の指が凍り付きそうになった事も苦い記憶として覚えております。そうならない様に準備万端で備えたいと思います。

数十年の間、私と雪の渓を共にした戦友とも思える魚籠とタモです タモ網は破損したので7回程張り換えておりますf:id:rcenci:20200111175010j:plain

タモの柄にある割れ目と節の跡ですf:id:rcenci:20200111175036j:plain
娘が見つけて思わず笑ったのですが『無事カエル』マークが有ります

魏石八面大王

信州の古代を考察すると日本一長い流程を誇る千曲川の最源流にある川上村に海の神である住吉大神を祀る住吉神社犀川流域では綺麗な山々を望める安曇野に安曇族の祖神である穂高見命を祀る穂高神社が鎮座されたり、山なのに何故か海の神様がお祀りされております。そんな中でも今回は友人の多く住う安曇野にまつわる話をご紹介致します。友人のお身内から聞いた話は本当に興味深い話ばかりでした。

魏石八面大王(ぎしきはちめんだいおう)は信州安曇野に伝わる伝説上の人物(鬼)です。安曇野に観光などで訪れた方は『大王ワサビ農場』に立ち寄った方が大半であると思われますが、綺麗な流水がわさび田を潤す光景の中に、魏石八面大王の胴体をお祀りしている大王神社がある事に気が付いた方は極少数だと思われます。他の説では『義死鬼』つまり『義』の為に死んだ鬼とも表現されております。

Wikipediaより 大王ワサビ農場内にある大王神社f:id:rcenci:20200107165733j:plain

様々な説が伝わっておりますが、歴史は常に勝利者が創るのもので、此の話も御多分に漏れず勝利者側の物語が通説です。田畑を荒らし、盗みを働くなどの悪さをした魏石八面大王を征夷大将軍である坂上田村麻呂が軍を率いてやっつけました。強い抵抗を見せた魏石八面大王の復活を恐れて五体を切断し別々の場所に埋めたとされてます。仁科濫觴紀など私も様々な文献を見ましたが、大王が唯の悪党として記されている場合と虐げられた人々の為に立ち上がった場合の二面性が有ります。歴史は常に勝利者側から見た流れである事は理解しておりますが、大王ワサビ農場内にある大王神社の説明書の文面からは、魏石八面大王が地域から慕われている情景が偲ばれて信州人の心に染みます。

大王が戦った背景として、まず大和朝廷の支配体制強化がございます。延暦16年(797年)に坂上田村麻呂征夷大将軍に任じられると蝦夷征討は厳しさを増しました。蝦夷とは現在の山形県宮城県中部以北を指し、朝廷による征討は7世紀中頃より行われました。信濃は都から北へ向かう丁度中間の位置に当たる事と、当時における信濃は馬の大産地でも有り、数有る御牧から軍馬を調達する為に朝廷軍が駐留する事が多かったと思われます。その都度に朝廷軍は土地の人へ兵糧などの貢物を要求し、土地の人々は非常に苦しんで疲弊しておりました。

そんな環境の中で土地に根付いていた力の有る人物達が義憤にかられて当時最強朝廷軍に刃向かったのです。魏石八面大王軍は地の利を生かして何回か朝廷軍を撃退したとの伝説です。然し多勢に無勢で最後には山鳥の十三節の羽で作られた矢に当たり、力尽きました。当時において鬼は復活すると信じられており、大王は五体をバラバラにされて別々な場所に埋められたといわれております。埋められたと場所全ては書面の都合で明記致しませんが、胴体は大王ワサビ農場の近くに埋められました。時代を経て大水で流されたので今の大王ワサビ農場主が農場内に大王神社としてお祀りしたと伝わります。魏石八面大王の首は松本市筑摩に鎮座する筑摩神社に埋められ、現在は飯塚と呼ばれ残っております。

Wikipediaより 魏石八面大王の首が埋められたとされる筑摩神社f:id:rcenci:20200107165750j:plain

安曇族が移り住んだ地域は多岐に渡り、渥美半島や熱海など様々有りますが、安曇野に移り住んだ安曇氏は穂高神社を建立して一族の祖神である穂高見命や綿津見命を祀りました。此処を本拠とした安曇族の規模が伺えます。魏石八面大王には安曇族と共に逃げた『筑紫の磐井』の末裔の血が流れていたのでしょうか? 現在の北九州安曇郡から起こり、志賀島を本拠としていた安曇氏は『磐井の乱』に加担し朝廷から追われ日本列島を漂流し各地に移住致しました。安曇野に移住した安曇族は筑紫(福岡県八女市が本拠 八女=八面?)の磐井の末裔八面大王と共に戦って敗れ、朝廷側に滅ぼされる事を恐れて安曇族である事を黙して過ごしたのか? 1,200年前の事なので今となっては想像の域を超えませんね。

追伸
穂高温泉郷の一角に八面大王足湯なるものが有ります。魏石八面大王のモニュメントを見ながら穂高温泉を気軽に楽しめる施設です。近くに行ったら立ち寄ってみるのも一興ですよ。

火除けのお札

我が家が代々使用している火伏せのお札をご紹介致します。実は私も今回始めて訪問させて頂いたのですが、授与して頂ける場所は信州浅野にある古刹の寶蔵院です。元々は千曲川の漁師が漁をしている時に真言が記された木片が流れ着ついて、それを祀ったのが始まりであるとの御住職の話しです。現在は曹洞宗となっておりますが元々は真言宗であったとの事でした。

信州寶蔵院の火伏せ護符f:id:rcenci:20200103082135j:plain

この火伏せのお札は効力が有って、祖母から聞いた話だと、今住んでいる家は違いますが、祖父が建てた大きな家の横に古い家が有り、その古い家が火事になった時の事。炎が竜巻となっていたとの祖母の話なので現代で言う火炎旋風です。違う家にも延焼の被害をもたらせたのですが、我が家は寶蔵院の火伏せ護符が屋根の上で舞っていて被害は全く無かったとの話です。私が高校生の頃に真面目で気丈な祖母が語ってくれました。

寶蔵院本堂(ほうぞういんほんどう)f:id:rcenci:20200103082200j:plain
防火大日如来と刻まれた石塔ですf:id:rcenci:20200103082223j:plain

本堂の横に不思議な石像が並んでおります。10体の歴史を感じさせる石仏で有り、真ん中の石仏だけ大きく造られてます。横の説明書を見たら長野市の指定民俗資料の十王像であると書かれております。
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地獄の10人の王様ですf:id:rcenci:20200103082322j:plain
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十王教とは中国から来た思想ですが、中国に伝わった仏教と道教と混って出来たもので、日本には平安末期に伝わりました。有名な王では皆さんが知っている冥界のドンである閻魔大王がおります。あの世とこの世よ堺である中陰と言う場所に行くと、人が死んでから四十九日で十人の王に審判を受けるので、其の王に生前からお祈りを捧げていると、いざ自分が対面した時に救われると伝わります。三途の川の渡し賃や杖などを入れるのは此の道中を少しでも楽に辿り着ける様にと棺にいれるのです。私は10人並んでいる像は初めて慧眼致しました。

閻魔大王 Wikipediaより こんなのに出会ったら怖い処の話ではないですf:id:rcenci:20200103082425j:plain 

因みに小野篁(おののたかむら)という平安初期の公卿は、現在も京都府東山区小松町にある冥府通いの井戸から冥界に赴き、閻魔大王の補佐をしていたと伝わります。小野篁の孫の小野道風は和様書道の基礎を築いた人物で花札などに出ておりますが、柳にカエルが飛ぶ絵で有名です。

私は祖母から嘘をついたら『閻魔さまにベロ抜かれるぞ』と注意されて育った世代だけに、私も手を合わせました。

『お歳とり』と『二年参り』

信濃には『お歳とり』という文化がございます。大晦日の夜は家族揃って一年で一番のご馳走を食べます。私の妻がそうだった様に不思議に感じると思いますが、元旦より豪華な食卓となるのです。翌朝の元旦は『おせち』中心とした縁起物を頂きます。お歳暮で頂いたお酒や高級ハムなど『お歳とり』に食べようと廻される事が多いので、子供の頃は不満でした。大晦日の夕方と成ったら歳神様に食事を御供えします。大量の炊きたてご飯と何故か鮭の頭が神棚に供えられ、一緒にお神酒を添えます。後は家族で『お歳とり』です。

卓の上は『お歳とり』の準備が進められてますf:id:rcenci:20200101044806j:plain

食事を終えて少し休憩し、夜23時過ぎくらいになると地域の氏神様へお参りに行きます。此の参拝の事を『二年参り』と呼んでおります。信濃の冬は冷えます! 当然外気温はマイナスですので冷蔵庫の中より寒いのです。暖かい家の中から外へ出ると特に寒く感じます。

武水別神社 大晦日の夜は特別な雰囲気ですf:id:rcenci:20200101044842j:plain

更科に居る私達の向かう先は武水別神社八幡宮です。御祭神は武水別大神(たけみくまりのおおかみ)、誉田別命(応神天皇)、息長足比売命(応神天皇の母君である神功皇后)、比咩大神(ひめおおかみ)です。此処は善光寺平で一番の八幡宮であり、遠くは平安末期に活躍した木曽義仲公が戦勝祈願を行い、戦国時代は武田信玄公など多くの武将が崇敬を寄せました。近世初頭からは松田家が神官を務めております。此の神社は今は亡き叔父が神職を務めておりました。

よく神社で見られる反り橋は地上と天井界を繋ぐ橋と伝わります 虹を現しているので丸いのですf:id:rcenci:20200101044915j:plain


鳥居を過ぎると毎年の事ですが物凄い人で、露天商のイカ焼きのいい匂いが漂います。まず摂社の高良さんにお参りするのが我が家の決まり事です。高良さんの本社は福岡県久留米市にある高良大社で祭神は高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)です。参道に戻って毎年達磨を買う店で白達磨を買います。うちは必ず白達磨ですが、昔から決まっているみたいです。

露天商が通りに連なり賑やかですf:id:rcenci:20200101044942j:plain


余りの寒さに神社が焚火を用意してくれておりますf:id:rcenci:20200101045025j:plain

もう少しなんですが、まだお参り出来ません。寒さが身に染みます。お札を無料配布している場所も有り、参拝者には有り難い心配りです。やっとの事で順番が回り参拝を済ます事が出来ました。裏には倭武命など豪華な摂社がズラっと鎮座されておりますので一つひとつお参り致します。

後はお札と破魔矢を授与頂き、参拝終了となります。信濃の大晦日は概ねこんな感じでとても慌ただしいのです。f:id:rcenci:20200101045405j:plain

白達磨 お札 お守り 破魔矢f:id:rcenci:20200101045232j:plain   

最後に
令和元年六月よりブログを始めました。シーズン中の渓流釣り、シーズンオフは趣味である刀剣の事や神社巡りの事などを綴りました。乱筆であるが故に読み返してみると文章構成に違和感を感じる箇所が多く、今更ながら伝える事の難しさを感じる昨今です。皆様のご訪問に対して此の正良、改めて御礼申し上げます。
日本を取り巻く環境は、きな臭い話が多く、下手をすらば国家的危機が予想される令和二年ですが、皆様が平穏に過ごせる様に赤心よりお祈り致します。
        令和二年元日 於信濃国更科
                 平正良

仕事場にある物

仕事場でも私生活でも自分に憤りを感じた時に、常に自分を第三者の目で冷静に視る事を心がけているのですが、不徳の致す処で全く思う様にはまいりません。そんな訳でお恥ずかしい話ですが、会社のデスク周辺には、私なりの道標となる物が置かれております。物に頼る様では半人前であると自覚しておりますが、手っ取り早く気持ちをリセットしたり、原点に帰ったり出来ます。私の父は観世龍能楽師範で多くのお弟子さんを持ち、日々奥座敷でお稽古をしておりました。奥座敷の鴨居には『増女』や『翁』などの能面が掛かられ、棚には『鼓』や『大皮』など能に関係した物が据えられておりました。お正月やお盆などの特別な日は座敷での食事となり、其々の所以などを聞きました。中でも京都十松の扇は父の師匠から頂き物であり、父は此れを『見る度に精進を誓ってる』と言っておりました。そんな父の話の中から一つ披露致します。今から遡る事600年前に世阿弥が書き残した『花鏡』という本に載っていて、誰もが知ってる有名な言葉に『初心忘るるべからず』という言葉がございます。結果が意に反した場合に『初心』を思い出し、始めたばかりの謙虚で真剣な心持ちを忘れてはならないと言う教えです。世阿弥が教えた『初心』とはその段階においての『初心』であり、年齢や立場で変化するものである事も父より教えて貰いました。正直申し上げると聞いた時は中学生位で特段何も感じておりませんでしたが、最近になって父の教えを都度に思い出しております。

面頬f:id:rcenci:20191224105635j:plain

私の仕事場においてパソコンの前に座る私を人の本性が出ると言われている左側の高い位置から見据えている面頬です。お陰様で常に凛とした空気の中で仕事が出来ます。仮に何か良からぬ思いが脳裏を少しでも横切るとすれば、全て見透かされている様な感覚です。戦国時代は主人の決断一つで一族が栄えたり、滅びたりする事が繰り返されました。それだけ思慮を尽くさねばならないとの自分への戒めです。しかし左上から見下ろされると何となく少し怖いのが玉に傷です。

『喫茶去』掛け軸  伴鉄牛老師f:id:rcenci:20191224105707j:plain

この掛け軸には思い出が沢山有るのです。私は幼少の頃より暴れん坊で親も手を焼いていたとの事でした。そんな中で信州佐久の小海線中込駅から車で10分程の場所にある貞祥寺(ていしょうじ)という古刹に伴鉄牛老師という高僧が来山し、座禅会を開催するの事で、私は父より二晩の泊まりがけで参加を命じられました。その頃の私は小学校低学年であり、禅とか聞いても難しい事は全く分かりませんでしたが冒険みたいで興味が湧いたので同意致しました。さて実際の座禅会ですが、全く考えていた内容と違う事に気付くまで時間は掛かりませんでした。明確に覚えているのが座禅の時に警策で肩を打たれ、反撃しようと立ち上がった事と、子供ながらに此処で反撃したら親の顔を潰すと思って耐えた事です。そんな私に周りの参加者の皆様はとても親切でした。参加者の中で一人の気の強い6年生の子供が父親と来ておりました。どんな場面か覚えておりませんが、その子と二人の時に4年生の私に突っ掛かって来たので私と喧嘩に成りました。喧嘩の原因は全く覚えておりませんが些細な事だったと思います。体の大きく力の強かった私は相手の腹を強かに蹴り、相手が蹲っていたので、少しやり過ぎたと思った事を覚えております。その子の父親が近くに来て、子供同士の事なので何も言うつもりはないが、此処は修行をする場所だよと諭されました。突っ立っている私と蹲って痛がっている息子に諭した後は、心配そうに子供に寄り添って居た事を鮮明に記憶しております。諭した喧嘩相手の父親は穏やかな表情で何処となく暖かさを感じました。今から思うと本当に悪い事をしたと思います。喧嘩相手の父親は立ち居振る舞いや言動から鑑みるに立派な方で有ったと思います。今思うと正に赤面の至、穴があったら入りたい様な出来事です。そんな中で伴鉄牛老師に呼ばれ、老師の居る部屋へ入りました。老師の名前は『鉄の牛』なので強そうな方かと思っておりましたが、小柄な老師が座っている姿は例えようも無く自然で、何か周囲の景色に溶け込んでいる様な不思議な感覚であり、壁から声が聞こえる様だった事を記憶しております。よく見ると和やかな御顔で話をされておりましたが、残念ながら話の内容は全く記憶に残っておりません。因みに貞詳寺は室町時代信濃國の前山城を本拠とした豪族の伴野貞詳(とものさだよし)が父親と祖父の為に建立した由緒正しい名刹で有り、敷地にある三重の塔は現在長野県宝に指定されてます。二泊三日の座禅会の最後に参加者を集めて老師の話があり、皆に老師直筆の書が手渡されました。その書を父が記念に表装した物です。

子供の頃は『喫茶去』の意味なんて全く興味も有りませんでしたが、大学生4年の時に茶道に通じた友人より話を聞き、初めて意味を知りました。『喫茶去』は禅語であり、簡単に言いますと『お茶でもどうぞ』です。発祥は中国における唐の時代まで遡ります。当時、趙州禅師(じょうしゅうぜんじ)と言う高名な禅の巨匠がおりました。ある日禅師の所に二人の若い僧が来山致しました。禅師は二人に以前に此処に来た事がありますか? と尋ねた処、一人は『有ります』と答えました。禅師は答えた僧に『喫茶去』つまり『お茶でもどうぞ』と言いました。もう一人の僧にも同じ事を聞くと『来た事は有りません』と答えました。趙州禅師は其の僧にも『喫茶去』と言いました。それを訝しげに見ていた院主(お寺を管理する立場の高僧)が、何故一度来た事がある僧と始めて来た僧に対して同じ様に『喫茶去』と言ったのか尋ねると禅師は院主にも『喫茶去』と言いました。つまり趙州禅師は初対面の人でも、そうでない人でも、高僧であっても分け隔てなく『お茶でもどうぞ』と言ったのです。地位や立場、損得や利害、または貴賎の差でなく、同じ様に接するという意味なのです。此れは今の私に取って本当に大事な道標と成る言葉です。今は亡き伴鉄牛老師と老師の書を高額なお金を支払って表装してくれた亡父に感謝しております。入社28年目の今でも此の書に諭される事が数多あるのです。皆様も自分の理想としている言葉や書物が有ると思いますが、そう言う物は近くに置く事で更に存在感が増しますね! 私も新しい『初心忘るるべからず』を探求してまいります。

餌箱作り 七合目

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竹の切り株から整形した胴と桐材の蓋にカシュー系の漆を薄く塗り込み、乾燥させる事の繰り返しを4回行った物です。完全に乾燥しないと塗り重ねが出来ない事と色斑防止の意味で薄くしたものを塗り重ねるのです。段々と色が良くなってまいりました。あと3回程塗り重ねるともっと深い色合いになります。内側は虫が目立つ様に朱色にしております。朱色は元々降魔の色で神社など鳥居などに使われており、有名なのは海の青とのコントラストが綺麗な厳島神社ですね。山間の川にも魔は潜みますので朱を使っております。因みに此の二つの餌箱は釣友が縦ニ連で首に下げて使用する予定の物です。川虫とミミズなと結構二種類の餌を使う事が有りますが、ダブルハンドで長竿を構える時に、横に2つ大きな餌箱があると結構邪魔なんです。スリムな方ですと腰に餌箱を付けても問題有りませんが、私などは腹圧?で蓋が開かなくなります。

過去に掲載した写真ですが順に載せてみます。

一回塗った状態ですf:id:rcenci:20191219074801j:plain

胴と蓋の形成が終わった物ですf:id:rcenci:20191219074818j:plain

竹の一節残しを切り出してノミで肉を落としてサンドペーパーで仕上げている途中の物ですf:id:rcenci:20191219074840j:plain

友人より竹の節を送って貰い、広げた時の画像ですf:id:rcenci:20191219074913j:plain