信州の古代を考察すると日本一長い流程を誇る千曲川の最源流にある川上村に海の神である住吉大神を祀る住吉神社、犀川流域では綺麗な山々を望める安曇野に安曇族の祖神である穂高見命を祀る穂高神社が鎮座されたり、山なのに何故か海の神様がお祀りされております。そんな中でも今回は友人の多く住う安曇野にまつわる話をご紹介致します。友人のお身内から聞いた話は本当に興味深い話ばかりでした。
魏石八面大王(ぎしきはちめんだいおう)は信州安曇野に伝わる伝説上の人物(鬼)です。安曇野に観光などで訪れた方は『大王ワサビ農場』に立ち寄った方が大半であると思われますが、綺麗な流水がわさび田を潤す光景の中に、魏石八面大王の胴体をお祀りしている大王神社がある事に気が付いた方は極少数だと思われます。他の説では『義死鬼』つまり『義』の為に死んだ鬼とも表現されております。
Wikipediaより 大王ワサビ農場内にある大王神社
様々な説が伝わっておりますが、歴史は常に勝利者が創るのもので、此の話も御多分に漏れず勝利者側の物語が通説です。田畑を荒らし、盗みを働くなどの悪さをした魏石八面大王を征夷大将軍である坂上田村麻呂が軍を率いてやっつけました。強い抵抗を見せた魏石八面大王の復活を恐れて五体を切断し別々の場所に埋めたとされてます。仁科濫觴紀など私も様々な文献を見ましたが、大王が唯の悪党として記されている場合と虐げられた人々の為に立ち上がった場合の二面性が有ります。歴史は常に勝利者側から見た流れである事は理解しておりますが、大王ワサビ農場内にある大王神社の説明書の文面からは、魏石八面大王が地域から慕われている情景が偲ばれて信州人の心に染みます。
大王が戦った背景として、まず大和朝廷の支配体制強化がございます。延暦16年(797年)に坂上田村麻呂が征夷大将軍に任じられると蝦夷征討は厳しさを増しました。蝦夷とは現在の山形県と宮城県中部以北を指し、朝廷による征討は7世紀中頃より行われました。信濃は都から北へ向かう丁度中間の位置に当たる事と、当時における信濃は馬の大産地でも有り、数有る御牧から軍馬を調達する為に朝廷軍が駐留する事が多かったと思われます。その都度に朝廷軍は土地の人へ兵糧などの貢物を要求し、土地の人々は非常に苦しんで疲弊しておりました。
そんな環境の中で土地に根付いていた力の有る人物達が義憤にかられて当時最強朝廷軍に刃向かったのです。魏石八面大王軍は地の利を生かして何回か朝廷軍を撃退したとの伝説です。然し多勢に無勢で最後には山鳥の十三節の羽で作られた矢に当たり、力尽きました。当時において鬼は復活すると信じられており、大王は五体をバラバラにされて別々な場所に埋められたといわれております。埋められたと場所全ては書面の都合で明記致しませんが、胴体は大王ワサビ農場の近くに埋められました。時代を経て大水で流されたので今の大王ワサビ農場主が農場内に大王神社としてお祀りしたと伝わります。魏石八面大王の首は松本市筑摩に鎮座する筑摩神社に埋められ、現在は飯塚と呼ばれ残っております。
Wikipediaより 魏石八面大王の首が埋められたとされる筑摩神社
安曇族が移り住んだ地域は多岐に渡り、渥美半島や熱海など様々有りますが、安曇野に移り住んだ安曇氏は穂高神社を建立して一族の祖神である穂高見命や綿津見命を祀りました。此処を本拠とした安曇族の規模が伺えます。魏石八面大王には安曇族と共に逃げた『筑紫の磐井』の末裔の血が流れていたのでしょうか? 現在の北九州安曇郡から起こり、志賀島を本拠としていた安曇氏は『磐井の乱』に加担し朝廷から追われ日本列島を漂流し各地に移住致しました。安曇野に移住した安曇族は筑紫(福岡県八女市が本拠 八女=八面?)の磐井の末裔八面大王と共に戦って敗れ、朝廷側に滅ぼされる事を恐れて安曇族である事を黙して過ごしたのか? 1,200年前の事なので今となっては想像の域を超えませんね。
追伸
穂高温泉郷の一角に八面大王足湯なるものが有ります。魏石八面大王のモニュメントを見ながら穂高温泉を気軽に楽しめる施設です。近くに行ったら立ち寄ってみるのも一興ですよ。