みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

渓友会の大納会

本年度の渓流釣りの反省会と会員一名の卵ゲップ病発症を除いては会員が無事に漁期を終えた事に感謝する会を催しました。場所は会社の寮がある国分時で27年間お世話になってる焼肉屋さんです。毎年此処にまいりますが駅前の変貌ぶりには其の都度驚かされます。

毎年の事ながらお肉の量が尋常ではありません。f:id:rcenci:20191215200047j:plain

様々な今シーズンの渓での出来事の話が飛び交って御酒も進みます。歳は取りますが気分だけは飲みたいので困ったものですね! 諸先輩方も頗る元気なご様子で安心致しました。私の会の皆様は酒豪が勢揃いしており、店中のワインが無くなってしまったと店主の奥様が話しておりました。

店の雰囲気は最高です。よく此の店で若年社員の頃、寮の先輩にご馳走に成ったのを思い出します。f:id:rcenci:20191215201233j:plain

シーズン中に釣れた魚の写真に対して深みからの遡上だから尾鰭の下が擦れているとか、バラした魚の大きさとか和気藹々とした会話と笑い声が店内に響きます。

店内の雰囲気も相まってあっという間に時間は過ぎてまいります。f:id:rcenci:20191215201841j:plain

さて、そんな中でホームグランドの千曲川の話になり、本年度は厳しいのでではないか?とのご意見が多く出ました。南佐久南部漁協の方針は知り得ませんが、ここ数年において川上村など魚影が薄く、往時と比較すると釣り人の数は百分の一と言っても過言では有りません。そんな中で川床が変わる程の台風に襲われて壊滅的な影響を受け、酷い有様が想像され、高い高速代金とガソリン代を払ってまで行く価値はあるかと考えると諸氏の考えも十分に肯けます。 

美しい川上村
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南佐久南部漁協のやる気次第では早々の立ち直りが可能ですが、魚居ない→釣り人来ない→年券が売れない.....の悪循環スパイラルに陥っている組織の動きは限られますので期待は持てません。其処で木曽川以外のホームグランド候補を皆で話し合いました。話し合いをもって、ほぼ新しい河川は定まりましたが、会長としての私の決断が決まらないまま予定時間終了となり、翌日である今日も悩んでおります。全ての漁協が木曽の様なら有難いのですが生湯を使った千曲川だけに判断が難しいです。

皆さん元気でなによりでした。f:id:rcenci:20191215202635j:plain

信州 真田宝物館 松代藩荒試しの刀

真田宝物館のホームページより

信州松代は真田13万石で有名ですね!信州真田家に伝わった諸々の宝物は真田宝物館に収蔵されております。家から車で15分程なので帰郷の度に訪問し、其の時の展示を拝見するのを楽しみとしております。少し前の話ですが世に伝わる物凄い物が展示されておりましたので今回ご紹介させて頂きます。私は其の時の展示物が当時の物と知り、恥ずかしながら事の凄まじさに少々戦慄を覚えました。その展示物はと言うのは刀で有り、史上稀な刀の堅牢さを試す試刀会で試された物です。当時の松城藩をあげての試刀会で実際に試された現物でした。清麿は勿論、山浦一派の研究では第一人者であります花岡忠男さんの書籍で内容は知り得ておりましたが、試された現物を見ると只々驚嘆するばかりでした。最初に簡単に次第を説明すると松代藩上級藩士の多くと城の常備刀として納められていた大慶直胤と言う刀工の刀が簡単に折れた事から始まり、直胤に変わる当時頭角を表していた新進気鋭の刀鍛冶の刀の強度を試し採用するか否かを決めたのです。更に其の新進気鋭の刀鍛冶に刀の性能として折れやすい錵出来の刀を打たせての試刀会だったのです。刀の焼入れと強度については、私ごときが説明するには余りの知識不足の為にやめておきますが、簡単に説明すると高い温度で焼入れした刀は強い焼きがはいる代わりに折れやすい特性を持ち『錵出来』と言われます。対して其処までの高温で焼入れしてない備前伝に代表される刃文を匂い出来と表現すます。相州伝に代表される錵出来にも小錵やら荒錵やら沢山の種類がありますが、此処での説明は省きます。

ボロボロの直胤の刀

別角度からの撮影

この刀の説明文です。
歴史の具現化された物として残された事は本当に称賛に値する事だと考えます。

この話は刀剣好きなら知らない人が居ない程の有名な試しです。当時の真田家江戸家老矢沢監物が贔屓にしていた大慶直胤は現代においても新々刀の第一人者と認められており、当時でも間違いなく当代随一であったと思われます。どの伝法もこなす名人で特に直胤独特の渦巻き肌の刀は見る者を魅了致します。私も何処かは忘れましたが、ある刀屋さんで見せて頂いた時は惚れ惚れ致しました。試刀会に至った次第は直胤の刀を用いてある藩士が切り試しをした処、刀が折れ飛んだと言う事から始まり、その事を聞いた藩士達が次々に己の直胤刀で試した処、簡単に折れました。松代藩内では大騒動になりました。藩士個人だけでは無く、お城の常備刀として納入されておりましたから事は重大です。藩士達は大慶直胤を『大偽物』と罵りました。そこで先程の新進気鋭の信州の刀鍛冶の刀と一緒に荒試しを行なったのです。新進気鋭の刀鍛冶屋の話を綴ると、長文になり過ぎるので、此処では大慶直胤の刀に対して行われた試しだけ紹介致します。

嘉永6年3月24日、真田藩武具奉行の金児忠兵衛邸で行われました。集まった藩士は120人を下らずと有ります。10人が選ばれて目付役とされ、切り試し役は家中手練れの者が7人選ばれたとされております。他には研ぎ師2人、万が一の事故に備え医師が1人臨席と有ります。
最初に試された一口は直胤刀で二尺三寸八部分の荒錵出来の刀、まず俵菰二枚重ねの干藁を切ると八分切れ、切れ味中位、次いで厚さ8厘、幅三寸の鉄鍔を切ると刀は鍔元7〜8寸から折れる。
二口めは直胤刀二尺三寸の匂い出来の刀(高音で焼き入れする錵出来より比較的低音で焼き入れする匂い出来の方が丈夫と言われてます)。干藁を一太刀切ったら腰(反り)が伸び、そのまま五太刀切ったら八分は切れた。鉄砂入陣笠に二太刀、一太刀毎に腰が伸びる。鉄胴にニ太刀で刃切れ入り、刃毀れ生じる。鹿角に三太刀、鍛鉄に三太刀、鍛鉄を少し切り割るが刃切れも多く出た。次いで兜に一太刀で大いに伸びる。鉄敷棟打ち七太刀、平打ち四太刀で折れた。
三口目が直胤作の長巻、干藁をニ太刀切っただけで刀身は曲がり、切れたのは五分のみ。
四口目も直胤作の長巻、干藁への一太刀で曲がり強しで切れ味四分から五分とされる。
五口目も直胤作の長巻で干藁にニ太刀で五〜六分切れ、続いて鹿角にニ太刀、一太刀で刃毀れの上大いに伸びるとある。ニ太刀目に更に伸びて刃切れ入り曲がり強く切る事が不可能となる。鉄敷棟打ち三つ、平打ち二つて刃切れ口大いに相成り曲がり、ぐたぐたにて其の差置くとあります。何も城方に常備刀として置かれた刀で有り、匂い出来の刀以外は腰が弱すぎて使えないと確認されたと有ります。想像するだけでも手に汗握る凄まじい試刀です。
上の写真の刀が一連の試しに使われた物である事は間違いありません。松城藩のみでは無く水戸藩でも同様な事が行われていたと書物で知りました。嘉永6年の3月24日に行われた試しで城に納入する刀鍛冶を決して、同年7月にペリー提督が黒船4隻で浦賀沖に出現したのです。ペリーが来航して風雲急を告げてからのスタートでは無く、其の前の事なのです。流石は武で名を轟かせた真田藩であるといえる凄い先見の明ですね。

直胤の次の松代藩御用鍛冶の打った傑作の一口です。

クリスマスリース造りと歳神様来訪の準備

私に取ってクリスマスは余り特別な日では有りません。更科に住んでいた頃、妹の幼稚園がカトリック系だったので、その頃は実家に於いて慣れないクリスマス料理を母が作ってくれました。今は見かけませんが赤玉パンチという甘いワインで鳥腿を煮込んでバターで仕上げる料理が出たり、近くの洋菓子屋さんで買ったクリスマスケーキが出たり致しましたので食いしん坊な私は、母の料理が楽しみでした。現在我が家では特別な事は致しませんが、亡妻の実家に家族3人で泊まりで行くのが結婚以来の慣しと成っております。年末には更科に帰郷致しますので一年の御礼も込めて訪問するのです。義弟夫妻や子供達も集まり、父と弟と好きな事を話しながら日本酒を心ゆくまで頂いて、挙げ句の果てにベロベロで布団に潜り込んで、気が付いたら何時も朝に成っております。妻が他界しても妻の両親は実の親みたいに接してくれて本当に有難い限りです。さて、お題のクリスマスリースですが、釣友の家族やご近所がが喜んでくれますので、秋に山から蔓を取って来て制作しております。 

11月初旬に取った蔓を巻いて乾燥させてます。切り口には木工用ボンドを付けて割れを防ぎます。f:id:rcenci:20191210231141j:plain

以前に山仕事を生業としていた叔父に聞いたのですが、蔓という植物は木に取っては天敵だとの事です。木に巻きつくと木の成長と共に蔓が木に食い込み、木は窒息の状態と成ったり、蔓に葉が茂ると木に当たる日光を遮断してしまう事で木の成長が止まったりして最悪は枯れる事があるとの事です。私は何気なく山野を眺めてましたが山野の木々も熾烈な生存競争を生き抜いている事を感じました。伯父から聞いた事ですが、蔓切りという作業が林業に有り、これから木が成長する春先に行わなければ駄目な必須作業で有るのと事でした。しかし蔓は生命力が強く春に切っても夏には再び巻き付くのと事です。リース造りは2m程に切った蔓を内側に巻き込みながら丸く仕上げ、少し陰干しを行い、硬く成ったモノから飾り付けに取り掛かります。飾りは100円均一で大体は揃いますが松ぼっくりは近くの公園などに落ちておりますので拾ってまいります。尚、松ぼっくりは2、3日バケツなどに入れて水を入れて置くと中にいる虫が居なくなります。好みに寄りますがラッカーなどで仕上げずに、そのまま使った方が味が有りますね! 小さなモノと大きなモノで遠近感を出すと面白い場合もございます。毎年5個程作るので色々なバージョンを試しております。リース自体の発祥は古代ギリシャまで遡る歴史を有し、五穀豊穣や魔除、永遠に継続するなどの意味合いなあると一昨年にテレビ番組で知りました(いい加減で、すいません)。

10日程前に仕上がったモノですが、もう依頼主の玄関に飾られている事だと思います。f:id:rcenci:20191210231218j:plain

対して此の時期に我々日本人はお正月の準備ですね! 玄関に飾る門松などは歳神様をお迎えする為の結界だと父から教えて貰いました。大掃除も歳神様をお迎えする為に穢れを払う事が本来の目的ですね。神棚には塩、酒、米などを供えて鏡餅を置いて歳神様が宿るのをお待ちするのです。我が家は往時に於いて千曲川を遡った鮭をお供えした名残でしょうか分かりませんが、大きな塩鮭の頭が神棚に供えられます。大晦日の夜に歳神様が家に来訪されるのを家族皆でお迎えし、様々な祈りの込められた料理を家族で囲み、歳神様を歓迎する宴を催すのです。年明けの鏡開きは歳神様が宿った餅を家族で頂いて歳神様の霊力を身に付け、一年の無病息災を願う為の行事です。日本は元々、各家に氏神様が来訪する精霊の国なのです。神様と一緒に歳を越す文化は日本独自だと思いますが、私の不勉強でしょうか?
信州には『お年取り』という独自の文化がございます。私も大学に出て東京に来てから其のことに気がつきました。歳神様が来訪する31日の大晦日に一年で一番のご馳走が出ます。出世魚のブリやお刺身など食卓の上は大変な状態になり、年の瀬を迎えます。信州人のブリに対する思いは強く、県内のスーパーには物凄く大振りな切り身が並びます。千国街道(別名ブリ街道)と言う街道が松本から糸魚川まて繋がっており、塩や他の物資を運ぶ大切な道だったと伝わっており、この街道を通りブリが信州にまいりました。因みに安曇野で有名な塩尻市は太平洋からと日本海からの塩を運ぶ其々の終点であったので塩尻という地名と成ったと言われております。大晦日のご馳走を食べた後は更に此処から『二年参り』と言う行事が待ってます。地域の方々が真夜中に氏神様へ赴き深夜0時と同時にお参りを致します。刺す様な冷気に酔いも一気に醒めるので妻が来た最初の年はとてもビックリしておりました。実際には参道に出来た物凄い行列と参拝者同士の挨拶でちっとも前に進まず、お参りは0時から過ぎる事が程どです。従って紅白の結果は家に帰らないと判りません。参拝を済ませて達磨を購入し、破魔矢やお札を授与して頂き、元旦の深夜2時頃にやっと床につきます。其処から少しの間をおいて元日となり、再度神棚の氏神様と歳神様に挨拶をしてから、新年の屠蘇とおせち料理を家族で頂くのです。従って信州では仕方が無い事を除いて年末に家族が集まります。若い頃は少しばかり窮屈でしたが、此の年になると改めて良い伝統と感じます。

今年使った刃物を研ぐ

信州千曲観光局のホームページより、姨捨にある棚田の写真です。

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私の育った更科の実家周辺は家から15mで佐野川と言う川が流れております。此の川は途中から酸性の強い土壌を流れ降る為に中流から下流部は魚が住めませんが、上流部には苔むした岩を擁する流れが有って天然イワナが住みます。家の近くの佐野川を少し下ると日本一長く、千回も曲がって流れ降る千曲川がございます。近隣には他にも大小の沢が有り、其処には沢山の魚や水棲生物、魚を狙う鳥が何時もおりました。千曲川が大水の後は稀に大きな池の様な分流も出現し、ビックリする様な大きな鯉が釣れてまいりました。その様な秘密の釣り場に辿りつくまで葦(ヨシ)の藪を鎌で薙ぎ払ったり、沢の岩魚を捌いたりする時には肥後守ナイフだったり、子供の頃より割と刃物には慣れ親しんでおりました。使っていると当然切れなく成るので必要にかられて研ぎました。従って研ぎ方を覚えるのは当然の成り行きでした。使用中に指を切ったりなどの怪我は日常茶飯であり、血止めにヨモギを噛んで傷口に当てると直ぐに血が止まり、強烈にシミたのを今でも記憶しております。そう言えば子供の頃の素朴な疑問でしたが、肥後守や鉈と比べて祖父が手入れしている刀は何故にこんなに色が違うのだろうと不思議に思ってました。勿論研ぎ師が精魂込めて研磨した刀と私が研いだ肥後守ナイフは違うのは至極当然ですが、恥ずかしながら砂鉄の色が産地で違う事、タタラで沸かした玉鋼という和鋼を刀は材料にしている事を知ったのは20代後半でした。

 
現在所有している腰鉈と斧以外の刃物の中で今年一回でも使用した物や、友人に貸して帰って来た物です。後は腰鉈二本と使用する勇気の無いラブレスのセミスキナーが有るだけです。

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秋山郷の師匠から頂いた山刀(鞘しかないので携帯に不便)や義父の弟で山仕事をやっていた叔父さんから頂いたトラックの板バネから削り出した剣鉈など様々な刃物を多く所有しておりますが、やはり和式刃物は抜群に切れますね!青紙や白紙で打たれた物などは使用していて本当に気持ちが良い切れ味です。反対に炭素鋼でも何となく弱い物も有ります。鉄に粘りが無いのか分かりませんが、中砥の段階で刃先から糸より細い棒状の刃先部分が取れて仕舞う物も有ります。炭素鋼のオピネルナイフも同じ現象になる物が有ります。同じ炭素鋼でもコールドスチールやアイトールなどのメーカーの炭素鋼ナイフは此の現象は起こりません。釣りなどに使う刃物は必要ならその都度研ぐのですが、此の時期にはメンテナンスも兼ねて使用した物を全て研ぎ直します。整形が必要なら粗砥からですが、大体は中砥からスタートです。炭素鋼に粗い砥石の砥石目が残ったら、其処から錆びますので中砥の段階で砥石目を除去した方が錆び難くなります。炭素鋼のナイフに皮シースが付いている物もございますが、皮のナメシには元々大量の塩を使いますのでシースに入れっぱなしだと錆びます。特に雨の日や朝露でシースが濡れるとテキメンです。ステンレス製の刃物はシースに入れて長期間保管するとヒルト(鍔)が変色致します。シースの形も崩れますのでシースから抜いた状態で保管をお勧め致します。良質なセラミック砥石が出回ってから研ぎ時間も少なくて済み、とても楽になりました。今はまだ昼頃ですが、今から全部研ぎます..... 研ぎ終わったら砥石の面直しです.....終わるのは夕方だと思われます。

改めて台風19号被害の事

令和元年10月12日の台風19号により、長年お世話になっている佐久穂町千曲川の東側にある大日向地区と余池地区が大きな被害を受けました。此処には抜井川という地元の渓流釣り師には有名な川が流れております。中規模河川で下はヤマメ、上は綺麗な天然イワナが出迎えてくれました。友人から『ふるさとチョイス災害支援』の佐久穂町のページより寄付が出来ると教えて貰ったので渓友会の先輩と手続きを進めました。釣れなくて畦町に座り込み、おにぎりを食べておりましたら、見かねた畑仕事をされている地元の方にポイントを教えて貰ったり致しました。それ以外でも此の地区の方々は本当に親切な方ばかりだったので甚だ無念です。改めて自然災害の無情と恐ろしさを感じます。

ふるさとチョイス災害支援の佐久穂町のページよりf:id:rcenci:20191204120523j:plain

抜井川上流には乙女の滝と言われる二筋の滝を擁する古谷渓谷が有り、苔むした岩に鮮烈な水流か降ります。イワナも野生味溢れて独特の岩と同じ体色でした。解禁後に雪代が流れると何時も沢山のイワナが竿を絞りました。

此の写真は今では反省材料としておりますが、当時はコレが午前中の部でした。f:id:rcenci:20191204120545j:plain

やり過ぎたのを自分で悟り、此処数年はメインの釣り場としては通っておりませんでしたが、あの台風の後でイワナ達もどうなったか地域同様に心配です。此の様な時は我々釣り師に出来る事は一体何があるか? 自問自答しております。

武蔵國 埼玉古墳群と金錯銘鉄剣

日本最大の円墳である丸墓山古墳です。

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冷たい雨が晴れて秋空が広がりました。

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以前からずっと行きたくて行けなかった行田市の埼玉古墳群へ友人達と出かけました。国の特別史跡に認定されており、9基の大型古墳を擁しており、造られたのは5世紀から7世紀だと伝わります。稲荷山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、将軍山古墳、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、奥の山古墳、中の山古墳、愛宕山古墳が代表的なもので、それ以外も周辺に古墳が沢山有ります。大型の古墳をこれだけ築くには当時貴重だった鉄器を数多く使い、呆れる程の労働者の数と呆れる程の月日が掛り、当時の権力者の力が如何に強大であったかが忍ばれます。サキタマの呼び名は古く万葉集にも前玉(サキタマ)、佐吉多万(サキタマ)の地名の入った和歌が読まれているとの事です。
 
金錯名鉄剣説明分の表 

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 金錯銘鉄剣説明分の裏

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私が一番見たかった物は此れなんです。大雑把に言うと約1500年以上前の鉄剣の両鎬の部分に文字を金象嵌した鉄剣です。昔の話ですが、インディージョーンズ世代の私が大学に進学し、考古学の授業を履修致しました。教授の話に耳を傾けてましたが、恥ずかしながら内容は難解だった事を記憶しております。しかし授業中の余談の中で教授が、たまたま埼玉県熊谷市のご出身であるとの事で横の行田市にある埼玉古墳群の話をされました。その話の中で金の象嵌が施されている金錯名鉄剣の話をされました単純でお馬鹿な刀剣好きな私は鉄剣自体に強い関心を持ったのです。驚嘆に値する程の歴史の証としてでは無く、当時は単純に刀剣として興味を持った事に今更ながら赤面致します
 
国宝である金錯銘鉄剣です。 

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28年越しの思いなので実物を見ましたら本当に感動致しました。説明書きによると1968年に稲荷山古墳の発掘が行われ、他の埋蔵物と一緒に鉄剣が出土し、其処から10年も経過した後、保護処理のため錆を少し落としたところ金色の文字が出て来て、全体を調べる為にX線を当てましたら金象嵌された115文字の漢字が発見されたとの事です。時代は古墳時代後期のA.D.471年とありますので、なんと1548年前となります。現在に伝わる日本刀の反りのある姿は平安時代末期から出現したと伝わりますから最低でも約830年以上前です。其処から更に718年以上も前に遡るのですから、考えを悠久の彼方に馳せる事とてつも無く、鉄剣が残り得た事自体が実に驚くばかりです。(表現力に乏しい私には驚きの表現が難しいです)。銘文の内容は第8代孝元天皇の第一皇子とみられる大彦命を祖とする一族の歴代の長の名前が記され、鉄剣が造られた当時は8代目であるヲワケノオミという人物が百練の利刀に今迄杖刀人の首(武官の長という意味であろうか?)として仕えて来たという話です。ヲワケノオミ一族はヤマト王権の縁戚に当たる家系という事だと思います。鉄剣の銘文にヲワケノオミが仕えている主人を『獲加多支鹵大王』ワカタケル大王と言う表現で名前が切られており、この名前が21代雄略天皇とする説が有力との事です。この事が解析される事で大分県の江田舩山古墳出土の銀象嵌の施された銘文の朽ち込んだ部分もワカタケルであるとの解析が成され、いずれもワカタケル大王の支配下に有った事が実証されていると知り、年甲斐もなく興奮致しました。雄略天皇と言えば兄弟や親戚を殺して位につき、少しでも反抗する豪族を片っ端から滅ぼしてヤマト王権の勢力を大きくした方であると認識しておりました。しかし当時の武人の長てあるヲワケノオミは(鉄剣の銘文には杖刀人の首と表現)武人の拠りどころである剣に一族の出自と歴代の長の名前と、ヲワケノオミが当時においてワカタケル大王の臣である事を金象嵌を持って施して残したのですから、縁戚に当たるとはいえ、これ程の武人を配下に持つワカタケル大王は偉大な大王で有った事を改めて感じました。色々感じながら鉄剣を見つめていると私はしばらく鉄剣の前から動けませんでした。少し聞きたい事がございましたので近くの係員の女性に伺うと学芸員の先生を呼んで頂きました。学芸員の先生はとても親切に分かり易く教えて頂き、とても勉強になりました。
 
宮入法廣刀匠の写した金錯銘鉄剣を展示するイベントのパンフレットです。 

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話の終わりかけに学芸員の先生から良い事を伺いました。なんと此の鉄剣を写した現代刀匠が居て、写した剣を此の金錯銘鉄剣の横に展示するイベントを行うとの事。其の刀匠は郷里である更科の誇る人間国宝故宮入行平先生の甥である無鑑査刀匠宮入法廣さんであるとの事!ただでさえ上がってるテンションがハイトップにまで駆け上がりました!学芸員の先生からの話では打ち上がった写しの剣に象嵌を上から片面に数文字施したら反対側に曲がり、このまま下まで象嵌したら剣が破損するので、表と裏を少しずつ象嵌したとの事です。刀は応力が働いているので確かに文字数が多過ぎて剣自体が破損するのは刀剣好きなら理解出来ます。古の刀剣類は折り返し鍛錬も極端に少ないと何かの本で読んだ事を思い出しました。あの硬い鉄にアレだけの象嵌をする技術は今も当時も凄まじい技術であり、私なんぞには想像も出来ませんし、第一どうやってあの様に両方に均一な焼き入れを施せるのかも全く理解の外です。展示は来年2月16日までとの事なので再訪を友人と決めました。
 
古代の馬具を付け鎧を纏い環頭大刀を佩いた武人の像です。 

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話は変わりますが雄略天皇に焼き殺された兄に当たる人物に黒彦王がおります。黒彦王の足跡は我が郷里の更科に黒彦神社と黒彦団地という地名で残っております。当然ですが黒彦団地は後世に付けられた名前です。名前の由来は現在存在致しませんが、往時において千曲川の中洲に黒彦という水上都市が有った事に因んで付けられた名前です。日本書紀によると黒彦王は死んだとございますので、近親の者が信濃に流れて来たかと思われますが、地元では戦いに敗れた黒彦王が逃れてきたと伝わります。雄略天皇の事も黒彦王を通して調べました。私に取って今回の史跡訪問で雄略天皇のイメージが大分変わりましたので、黒彦王の事も折に触れて調べてみたいと考えでおります。次の楽しみが増えた処で頑張って師走を乗り切ろうと思いました。
 
古墳群を取り囲む公園は綺麗に整備がなされ立木の色づきは最終段階です。 

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刀装具 沢鷹図透かし鍔と柊図透かし鍔

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我が家に伝わる鍔の内の二つです。扇状に加工された朴の木製の鍔掛けに掛けられてます。二つ同時に描けるのは意味がございます。時代は江戸後期ではないかと思われます。鍔に限らず刀装具は高い精神性と武の両方の性格を併せ持つ刀身に装着する金具なので、造形も意匠も最高の技術が施されてます。常に生と死の狭間にに生きた武士だからこそ、刀や刀装具に高い美意識と高い精神性を求めたのであろうと推測致します。其処が日本人独特の感覚であり、日本人の死生感ですね。当時は知らぬ人が居ない後藤家の家彫りと一般職工の町彫りでは明らかな品格の差は有りますが、電気もドリルも無い当時に白金師が心血注いで制作した作品には、例え無名の物でも上品な気高さを感じます。大らかな意匠、細密な意匠、古事を模倣した意匠など様々です。写真の二つの鍔は現在の美術的価値は高い物では有りませんが気に入ってる品物です。
一般に鍔自体は非常に限られた大きさです。大きくても8cm前後で真ん中に茎穴(なかごあな)が有り、切羽台〜笄櫃と小柄櫃〜地〜耳となる構造であり、とても狭い限られた範囲で意匠を施します。意匠には正に千変万化の違いがあり、造り手の美意識と人間性が伝わってまいります。鍔の制作は白金師だけでは無く、刀匠が造る刀匠鍔、甲冑師が造る甲冑師鍔がございます。平安期には皮を膠(にかわ)や漆で固めた『練皮』という素材で造られた鍔もございます。此の練皮は甲冑にも使用されております。

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沢鷹図透かし鍔


写真の鍔ですが、沢鷹図透かし鍔と言います。沢鷹とはオモダカと読み、別名は勝戦草とも言われいる野草です。葉っぱの形が弓矢の矢の先につける鏃(やじり)の形をしております。左の葉と右の葉では表裏逆の意匠となっている処が造り手の見せ所ですね! 私は葉の立体感が好きです。沢鷹の由来の通り多くの武家が家紋と致しました。賤ヶ岳七本槍福島正則公も沢鷹紋を用いており、沢鷹は『攻』が連想されます。

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柊図透かし鍔


柊(ひいらぎ)は晩秋から冬に花が咲きますので『木』と『冬』で柊と読みます。言わずと知れた鬼も嫌う魔除の植物です。一部の地域では節分にイワシの頭と柊を付けた魔除を用います。此の鍔は柊の葉の葉脈も施され、立体感のある造りとなっております。鍔工の遊び心かは分かりませんが、刺々しい葉に虫食いの穴が存在し、思わずクスっと笑いが出る楽しい意匠です。魔除の他に『用心深い』や『保護する』などの意味もあり、『守り』が連想されます。
つまり二つの鍔を並べると『攻守』となります。『攻』の意味合いの鍔を装着した大刀を差し料とした武士は福島正則公の様な勇猛果敢な人物であろうか?拵えは目貫にも沢鷹紋か? など想像すると何となく人物が思い描けます。『守り』の意味合いの鍔を装着した武士の拵えは、ひょっとすると頭には鬼が施され、柊で追いやっている意匠か?.....など考えると興味が尽きません。 今は我が家の違い棚に飾られております。秋の夜長に妄想中になる事が良いか悪いかは別として楽しい時間であり、お酒も進みます。