みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

武蔵國 埼玉古墳群と金錯銘鉄剣

日本最大の円墳である丸墓山古墳です。

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冷たい雨が晴れて秋空が広がりました。

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以前からずっと行きたくて行けなかった行田市の埼玉古墳群へ友人達と出かけました。国の特別史跡に認定されており、9基の大型古墳を擁しており、造られたのは5世紀から7世紀だと伝わります。稲荷山古墳、丸墓山古墳、二子山古墳、将軍山古墳、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、奥の山古墳、中の山古墳、愛宕山古墳が代表的なもので、それ以外も周辺に古墳が沢山有ります。大型の古墳をこれだけ築くには当時貴重だった鉄器を数多く使い、呆れる程の労働者の数と呆れる程の月日が掛り、当時の権力者の力が如何に強大であったかが忍ばれます。サキタマの呼び名は古く万葉集にも前玉(サキタマ)、佐吉多万(サキタマ)の地名の入った和歌が読まれているとの事です。
 
金錯名鉄剣説明分の表 

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 金錯銘鉄剣説明分の裏

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私が一番見たかった物は此れなんです。大雑把に言うと約1500年以上前の鉄剣の両鎬の部分に文字を金象嵌した鉄剣です。昔の話ですが、インディージョーンズ世代の私が大学に進学し、考古学の授業を履修致しました。教授の話に耳を傾けてましたが、恥ずかしながら内容は難解だった事を記憶しております。しかし授業中の余談の中で教授が、たまたま埼玉県熊谷市のご出身であるとの事で横の行田市にある埼玉古墳群の話をされました。その話の中で金の象嵌が施されている金錯名鉄剣の話をされました単純でお馬鹿な刀剣好きな私は鉄剣自体に強い関心を持ったのです。驚嘆に値する程の歴史の証としてでは無く、当時は単純に刀剣として興味を持った事に今更ながら赤面致します
 
国宝である金錯銘鉄剣です。 

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28年越しの思いなので実物を見ましたら本当に感動致しました。説明書きによると1968年に稲荷山古墳の発掘が行われ、他の埋蔵物と一緒に鉄剣が出土し、其処から10年も経過した後、保護処理のため錆を少し落としたところ金色の文字が出て来て、全体を調べる為にX線を当てましたら金象嵌された115文字の漢字が発見されたとの事です。時代は古墳時代後期のA.D.471年とありますので、なんと1548年前となります。現在に伝わる日本刀の反りのある姿は平安時代末期から出現したと伝わりますから最低でも約830年以上前です。其処から更に718年以上も前に遡るのですから、考えを悠久の彼方に馳せる事とてつも無く、鉄剣が残り得た事自体が実に驚くばかりです。(表現力に乏しい私には驚きの表現が難しいです)。銘文の内容は第8代孝元天皇の第一皇子とみられる大彦命を祖とする一族の歴代の長の名前が記され、鉄剣が造られた当時は8代目であるヲワケノオミという人物が百練の利刀に今迄杖刀人の首(武官の長という意味であろうか?)として仕えて来たという話です。ヲワケノオミ一族はヤマト王権の縁戚に当たる家系という事だと思います。鉄剣の銘文にヲワケノオミが仕えている主人を『獲加多支鹵大王』ワカタケル大王と言う表現で名前が切られており、この名前が21代雄略天皇とする説が有力との事です。この事が解析される事で大分県の江田舩山古墳出土の銀象嵌の施された銘文の朽ち込んだ部分もワカタケルであるとの解析が成され、いずれもワカタケル大王の支配下に有った事が実証されていると知り、年甲斐もなく興奮致しました。雄略天皇と言えば兄弟や親戚を殺して位につき、少しでも反抗する豪族を片っ端から滅ぼしてヤマト王権の勢力を大きくした方であると認識しておりました。しかし当時の武人の長てあるヲワケノオミは(鉄剣の銘文には杖刀人の首と表現)武人の拠りどころである剣に一族の出自と歴代の長の名前と、ヲワケノオミが当時においてワカタケル大王の臣である事を金象嵌を持って施して残したのですから、縁戚に当たるとはいえ、これ程の武人を配下に持つワカタケル大王は偉大な大王で有った事を改めて感じました。色々感じながら鉄剣を見つめていると私はしばらく鉄剣の前から動けませんでした。少し聞きたい事がございましたので近くの係員の女性に伺うと学芸員の先生を呼んで頂きました。学芸員の先生はとても親切に分かり易く教えて頂き、とても勉強になりました。
 
宮入法廣刀匠の写した金錯銘鉄剣を展示するイベントのパンフレットです。 

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話の終わりかけに学芸員の先生から良い事を伺いました。なんと此の鉄剣を写した現代刀匠が居て、写した剣を此の金錯銘鉄剣の横に展示するイベントを行うとの事。其の刀匠は郷里である更科の誇る人間国宝故宮入行平先生の甥である無鑑査刀匠宮入法廣さんであるとの事!ただでさえ上がってるテンションがハイトップにまで駆け上がりました!学芸員の先生からの話では打ち上がった写しの剣に象嵌を上から片面に数文字施したら反対側に曲がり、このまま下まで象嵌したら剣が破損するので、表と裏を少しずつ象嵌したとの事です。刀は応力が働いているので確かに文字数が多過ぎて剣自体が破損するのは刀剣好きなら理解出来ます。古の刀剣類は折り返し鍛錬も極端に少ないと何かの本で読んだ事を思い出しました。あの硬い鉄にアレだけの象嵌をする技術は今も当時も凄まじい技術であり、私なんぞには想像も出来ませんし、第一どうやってあの様に両方に均一な焼き入れを施せるのかも全く理解の外です。展示は来年2月16日までとの事なので再訪を友人と決めました。
 
古代の馬具を付け鎧を纏い環頭大刀を佩いた武人の像です。 

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話は変わりますが雄略天皇に焼き殺された兄に当たる人物に黒彦王がおります。黒彦王の足跡は我が郷里の更科に黒彦神社と黒彦団地という地名で残っております。当然ですが黒彦団地は後世に付けられた名前です。名前の由来は現在存在致しませんが、往時において千曲川の中洲に黒彦という水上都市が有った事に因んで付けられた名前です。日本書紀によると黒彦王は死んだとございますので、近親の者が信濃に流れて来たかと思われますが、地元では戦いに敗れた黒彦王が逃れてきたと伝わります。雄略天皇の事も黒彦王を通して調べました。私に取って今回の史跡訪問で雄略天皇のイメージが大分変わりましたので、黒彦王の事も折に触れて調べてみたいと考えでおります。次の楽しみが増えた処で頑張って師走を乗り切ろうと思いました。
 
古墳群を取り囲む公園は綺麗に整備がなされ立木の色づきは最終段階です。 

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