みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

我が家のお盆

先日休みで実家に帰り、お盆の行事を行いました。今年のお盆は送り盆の16日が満月という自然現象も重なった特別なお盆でした。

ご先祖を迎えに行くのは早い方が良く、送るのは遅い方が良いとの母親の言葉です。その前に奥座敷の床の間に、お棚を設置しなければ成りません。家族総出で汗だくで完成させました。

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13日には火の付けてない提灯を持ち、お墓に家族で行きます。たっぷり墓石にお水を掛けて、お線香をあげ、此から家に向かう旨を伝えます。お墓で提灯に火を付けて家まで戻るのですが、再度先祖を迎える為に家の玄関先でカンバの皮の乾燥した物に火を付けて、玄関を開けてご先祖様を家に招き入れます。ご先祖が家に入った処で天ぷらなどの食べ物(生物はダメ)をお供えし、お酒やお水、ご飯や果物などを供えます。後はご先祖様と一緒に大宴会です。

翌日には菩提寺の住職が家に来て頂いてお経を唱えて貰います。この時も家族が必ず着座致します。送り盆までの間は朝と晩にお供え物を変えて、ご先祖をもてなします。この間は絶えずご先祖様や亡くなった近親者が一緒にいる事を念頭に置いてますので、心なしか自分の行儀が良い様な気がして小っ恥ずかしいですね。

送り盆には再度家族が座敷で夕飯を食べてご先祖様の送別会を致します。その後にご先祖様を提灯の火で送り、お寺の本尊に拝礼して終わりとなります。

隣近所も全く同じ行動なので迎え盆と送り盆は久しぶりの顔に会う機会が多く、有り難い事です。地域や家によってスタイルが違うと思いますが、先祖を10代遡ると1,000人を超えるらしいので、その内一人でも欠けていたら今の自分は存在致しませんし、当然自分の子供も存在しない事となります。ご先祖様を家に招き入れて、感謝する機会が有るのは素晴らしい事だと思います。確り次世代にも継承したい行事ですね。

 

お盆のお棚を作る奥の座敷きは、伝来の重藤の弓が掛っております。お盆に向けて袋を外し、乾拭きで綺麗に致しました。矢は二本有り、鏑形(カブラナリ)、雁股(カリマタ)と言う鏃が付いて、鏃は表鬼門に向けられております。

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糸魚川の翡翠

白馬の姫川を下見に行くついでに日本海の美味しい魚と高志国の奴奈川姫に会う為に糸魚川市まで参りました。

奴奈川姫

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新潟県糸魚川では今から約6000年前、縄文時代前期から翡翠という当時強大な霊力を持った宝石が産出され、日本各地に広まったと言われてます。日本に続く翡翠の加工文化は現在のメキシコ周辺で約3500年前に行われておりました。日本は世界で最も古い翡翠を加工する技術を持ちます。素戔嗚尊(すさのおのみこと)に日本の統治を任されたオオナムヂと言われていた大国主命(おおくにぬしのみこと)が出雲からはるばる高志国(こしのくに、現在の福井県から新潟県)まで.首長であった奴奈川姫に求婚する為に十握剣を佩いて来訪しました。奴奈川姫の館の前で歌を詠んで自分の思いを告げ、奴奈川姫も此れに応えて結婚したと言われてます。ロマンチックですね!

日本海を望む道路に安置されている奴奈川姫像です。

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奴奈川姫の足にしがみついている御子神建御名方命で、此の方こそ国譲りの神話で父の大国主命事代主命が承諾したにも関わらず、天津神最強の武甕槌(たけみかづち)と戦った神様で有ります。歴代の武家政権に戦神として崇敬された諏訪大社の御祭神様です。

尚、佐久総合病院から近くの新海三社神社には建御名方命御子神である興波岐命(おきはぎのみこと)を祀る社があり、別名は新開神(にいさくのかみ)と言われてます。此の『にいさく』の『さく』が佐久地方の語源と成ったとされております。私の母は北佐久郡立科町出身なのでご縁のある神様てすね。

当家の家風は氏神様を尊ぶ教えでしたので、郷土の地に鎮護して頂く神社の事は興味があり調べ始めて久しく、現在も勉強中です。

釣りをする川も水を溜める山にも、その地を治める神々が居りますので、常に感謝の念を抱き山の恵みを頂く事を自分の信念としております。

話は戻りますが、高志国の首長であった奴奈川姫の所縁の糸魚川市翡翠の勾玉のレリーフがある程、現在でも地域において奴奈川姫や翡翠の勾玉が認知されている存在で有る事が理解出来ました。

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私が身に着けている勾玉です。


それと此処は日本海の目の前なので本当に美味しい海産物が頂けますよ。但し有名店は予約が必要ですね!

 

夏休み 木曽川 イワナ アマゴ 釣り その2

木曽はカラッとしているので外が暑くとも、宿の部屋は涼しく、とっても良く寝れます。雨音で目を覚ますと、柴犬のヤマトの散歩に行った娘二人が濡れて帰ってまいりました。

宿の前に流れる正沢川は、水量が少し増えています。此れは良いかも!  

早速着替えを済ませて出発です。 通い慣れた吉田洞門横の本流に目標を定めました。

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一流し目は木っ端アマゴです。2回目は木っ端イワナ君、3回目も木っ端君.......10匹ほど木っ端君を釣った後、やっと7寸のアマゴが釣れました。そこからも木っ端くん達の饗宴が続きます。大きな石のウケで餌を吹き上がらせると8寸のイワナが出てくれました。

低い堰堤まで来て、浮玉仕掛けを沈め、浮玉をブイ化し戻り波に入れた処、大型特有の重量感の有るアタリが来ました。合わせると重い引きです!  暫くのやり取りの後立派な尺イワナがタモに収まりました。夕立を起こしてくれた木曽川の水神様に感謝です。少し薄暗く成って来ましたので入渓地点まで戻る時間を考慮し、本日は此れで終わりと致しました。

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魚のお腹を処理し終わると暗くなっており、木曽の山の上に出現した夕焼けがとても美しいので写真におさめました。

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宿に帰りお風呂を頂き楽しみの夕飯です!

今日も豪華でしたので、ついついお酒が進んでしまいました。

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明日の朝マズメを考え、早めに休みました。涼しくて熟睡です。

 

翌朝は4時に目覚ましをかけましたが、用を足したり、前の晩酩酊してそのまま寝てしまった為、諸々の準備で宿出発は5時になってしまいました。今日は良いアマゴを一つだけ釣れば、もう満足です。矢崎橋上流の堰堤に入りました。

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木っ端君のオンパレードの後で9寸の太ったアマゴが釣れてくれました。此れで満足です。

 

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後は千曲市の実家に帰ってお盆の支度です。

夏休み 木曽川 イワナ アマゴ 釣り その1

お盆休みを頂きました。仕事は優秀な部下に任せます。迎え盆と送り盆の行事を行う為に娘二人と柴犬のヤマトを連れて実家の千曲市に帰ります。三連休が有るので、迎え盆には少し早い為に途中で木曽路の宿で一泊致します。宿屋はもう20年弱通ってる旅館山水さんです。釣り名人の親方と優しい奥様、最近はお嬢様夫婦と元気なお孫さんで迎えてくれて、とても賑やかで家族的なお宿です。夕食はとっても美味しく、夕マズメの後が本当に楽しみなんです。今回は犬も泊まれる部屋も有るとの事で、柴犬のヤマトも一緒で本当に助かります。

 

釣りの事ですが、立秋を過ぎたとはいえ、この強烈な暑さ!  源流に近い支流か、本流の水通しの良い場所が狙い目ですね。此の時期はシーズン中で一番人渓場所に迷う時期なんです。困った事に藪沢の提灯釣りも、本流の大物釣りも何方も大好きなんで、この一週間は迷いっぱなしです。

 

意を決して木曽川本流荒神橋からの入渓と致しました。荒神橋の近くに荒神様が鎮座されております。平安時代木曽義仲元服の際、播磨国新十郎という人物が奈良県の瀧倉三宝荒神を背負ってこの地に祀ったという伝説が有ります。祭神は八岐大蛇を退治した荒ぶる神の素戔嗚(スサノオ)命です。朝早く神鈴を鳴らしてご近所には申し訳ありませんが、入渓前の4時30分に詣でました。

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話を釣りに戻しますね!   渇水なので細糸にすると後悔する事が多く、太糸にすると得てしてアタリが出ないなんて事が多くありますが、尺上を急流からタモ取りするには0.5以上必要だと考え0.5を使用致しました。  正沢川合流までの遡行となります。橋の下まで下って5号玉を付けて深瀬を流すと、いきなり止まるはずのない仕掛けが止まりました。合わせを入れると物凄い重量感とスピードです。此れは幸先良いと上竿で耐えますが、縦横無尽の動きです。やり取り数分で上がって来たのは極太の大アマゴです。頭をこちらに向けてランディングしようとしたら此の魚はなんと私に向かってジャンプ致しました。右足膝上に頭からブチかましを決めて落ちた拍子に0.5号を叩っ切って逃げました。

釣り歴35年で初めての経験に呆然と立ち尽くしました。物凄いファイティングスピリッツです。何故か神々しいモノを感じましたね!

気を取り直して深瀬の頭に投餌した処、二投目で微かなアタリを合わせると、先程よりは劣りますが強い引きです。  散々動きいてクタっした処をランディング致しました。美しい尺アマゴです!  此れぞ木曽のタナビラという魚体で満足致しました。荒神社に向かって一礼し、御礼申し上げました。

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その後は7寸から8寸のアマゴとイワナが楽しませてくれましたが、なんと上から釣り下りの方が目に入りました。一言くらい言上申し上げたい気持ちを抑え、仕方なく納竿致しました。天神沢沿いに登りながら退渓しましたが、道すがら考えると今は早朝5時半、この時間で正沢川の合流点より本流の釣りくだりは(途中は入れないと思う)、余程早く来ないと難しいのでは?と思い、アレコレ変な想像も致しましたが、全ては川の神様のお導きなので深く考えない事に致しました。車に帰ると大汗にも関わらず、急に抑えられない眠気を覚え(私が釣りの最中に眠気?)車で小一時間程寝るつもりでしたが、起きたら10時でした。娘達も一緒に起きました。全く持って情けない次第です。トホホ.....。その後は少し川見をして焼肉権兵衛で食事を致しました。その後は旅館山水さんに入り、夕マズメの為の仮眠を取りました。

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中原兼遠公が木曽義仲の学業成就を祈念し創建した天神社です。地元では手習い天神と呼ばれてます。

千曲川 ヤマメ釣り

梅雨も明け、ボーナス期間の様な釣り易い環境が終わりました。 此処からの減水傾向は餌釣り師にはキツイ季節となります。千曲川上流には金峰山川や梓川など標高の高い処を流れる名川が多いので夏の釣りも今後が楽しみです。

昨年は某支流で2回程熊さんを見ましたが、今年はどうか私の前に現れてくれません様にと祈っておる次第です。それと昨年は軽いヘツリの最中に思ったより上に登りすぎてしまい、岩に左手をかけた時『ガサ』と言う、ソフトクリームの上を食べた後の湿ったコーンを壊した様な感触を手に覚えました。何だろうと上を見たら今正に巣を壊されたアシナガバチが怒りの攻撃を仕掛けてくる光景が目に入り、そのまま手を離して川に身を投げて、即起き上がり、背後を振り返りながらの『欽ちゃん走り』で一目散に下流に逃げて、追って来た蜂君をタモで数匹撃退し事無きを得ました。家を壊されたアシナガバチ殿の怒り一刺しを食らわなかった事は今から思うと奇跡に近い事でした。

 

今回は夕マズメの本間川にターゲットを決めました。話は少し脱線致しますが、実はこの辺りは歴史好きには堪らない場所なんです。少し下には本間城跡があります。武田軍の信濃や上州に向かう道すがらの宿営地などに利用された山城です。体重0.14tの私は、過去に死にそうな目に合いながらも登り、堀切などを確認致しました。当時は夜襲などに備えての宿営地だったとは思いますが、よくもこんな上まで武田軍は登ったな〜っと感じる道筋でした。周辺は花岡城や大石川狼煙台など武田軍が使用した史跡が多いので釣りの後で寄るのが楽しみでした。

 

さて本間川は綺麗なヤマメが釣れる貴重な支流です。最近はメッキリ釣れなくなりましたが、少し前迄は相木川から下ったヤマメが本流に落ちて、大雨の増水で堰を降り、本流で育ち、増水時に遡上して楽しませてくれました。

 

この川の核心部は本流合流から即始まります。今回も合流点から釣り上がりました。瀬の肩に出ている魚を狙ったら食ってまいりまたね。写真のヤマメ4匹の他は尾ビレの丸いイワナが4匹掛かりましたが、今日はヤマメ狙いなのでお帰り頂きました。

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時間は17時25分! 此処らからはヤマメでもイワナでも良いので大物狙いです。納得サイズ以外は元気に川に帰って貰う予定ですが、何故か釣れません!

こういう場合は諦めちゃう事が多いのですが、

何故か今日は出る気配が致します。

流れが左岸の深いボサに勢いよく流入している場所がありました。こういう場合は通常の流しではボサ奥に待っている大物まで餌を届ける事はボサが邪魔して難しいですね。このポイントを攻めるには短い仕掛けにヘビー級錘を付けて吊るしこむやり方と、軽い錘で沈み込む流れに入れて奥まで入れるやり方があります。当然ですが重い錘で吊るし込むやり方より、自然に流した方が流れの中に定位するアマゴやヤマメは良く食べてくれます。軽い錘を使う場合は、水面から上の糸を上流方向に弛ませて、ボサに掛からない様にする必要があります。以前に紹介した浮玉目印仕掛けを使用すると適度な浮力があり、軽い錘の中でも多少重い錘が使えます。重いと言っても5号が4号位の程度の違いですが、此の事が効くのです。まずめ時にも浮き玉目印は丸いので360度どの方向からも水中に漂う目印が視認可能なんです(水中に沈めると風にも最強です)。

一投目は思う様に流れず、二投目で納得の流れに入りました。ボサの中に向かう流れに入り、少し経過した後に手元に明らかな魚信が伝わって参りました。上流に合わせを入れるとボサ奥への強烈な突っ込みがあり、辛うじて竿を上流に寝かせて強引を凌いだ処、今度は手前下流に下って左右に動き回ります。私も滑る石の上を移動し、得意のコサックダンスをかましながら動き回ります! やっとの思いで取り込んだのは数年間本間川で御無沙汰の尺ヤマメでした。尾ビレの下が擦れており、本流差しと思われます。体型は太く体長は32cmでした。やはり流石に千曲川水系ですね。

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車に戻ったら真っ暗でした。

 

千曲川龍神様に今回授かった幸運に対して、手を合わせて御礼申し上げました。

話は変わりますが、この辺りの水神様に行くには、海ノ口駅を過ぎて川上村方面に向かって国道を行くと、美味しい食事が出来る名店のレストラン  ストローハットが有ります。其処を過ぎると踏切が有り、踏切を過ぎて、すぐ左を見ると海ノ口湊神社という小さな神社が道路に沿う様に鎮座されております。ご祭神は諏訪明神建御名方命(たけみなかたのみこと)と日本を代表する水神様である美都波女命(みずはのめのみこと)の二柱がお祀りされておりますので、御縁がありましたら参拝されてみて下さい。

 

通常のペースだと尺物はワンシーズンに2〜3匹程ですが、今年は何故か釣れてます。来週は夏休みで千曲市に帰りますので、寄り道の報告を綴りますね。 寄り道以外でも白馬の渓や菅平ダムから差してくる大イワナ、鮎を飽食して肥えた依田川のヤマメ、秋山郷の天然イワナなど過去に良い思いをしたので妄想ばかりしております。

然しながら亡父の教えで『迎え盆から送り盆までは生き物を殺してはダメだ。釣りには行くな』と言われ、『地獄の釜が開くので全てお見通しだ。あぶないから水辺にも行くな』とも言われました。今も守っておりますので空いている日が少いですね。信州は山紫水明の地なので天然の渓魚が泳ぐ川が其処ら中に存在し、行きたい場所は本当に多く有りますが、正直難しいです。

甲斐国 一ノ瀬川での釣り

一ノ瀬川は多摩川の最上流であり、柳沢川と別れてからは峡谷を通りますが、一ノ瀬高原に近づくに従い入渓し易くなります。三ノ瀬川、中島川、一ノ瀬川と別れますが、本流筋は一ノ瀬川となります。亡妻の父上が一ノ瀬の出身であり、現在は父の兄である叔父が、元の家の有った場所に別荘を建てており、私も時たま宿泊させて貰ってます。直ぐ横には東京都民の命の水を守る番人を務める美しい渓魚達が住む川が有るなんて、私にとっては天国の様な場所です。最近は鹿さんが増えて、春の山菜は食べられて少ないですが、秋には美味しいキノコも取れますよ。

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昨年大菩薩の湯に秋に出かけ、マンズワイナリーのレストランででワイン豚を味わい、ついでに山を見に行ったら、思いがけなく取れてしまったシメジです。確かその晩はシメジご飯でした。

場所は少し離れますが武田家の金山である黒川金山があります。それと少し怖い話ですが、一ノ瀬川と柳沢川合流点の近くには花魁淵と言われる滝壺が有ります。戦国動乱の最中に武田勝頼が天目山で没し、織田軍から黒川金山の秘密を守るため金山で働く鉱山労働者と配下の武士全てと、遊女55人を皆殺しにする事が武田家金山奉行によって決っしました。男は全て殺され、遊女55人は滝壺に藤蔓で組んだ台座の上に宴席を設け、酒宴と称してその上で舞を舞わせせて、蔓を切り落とし滝壺に沈めました。それ以来此の滝壺を花魁淵と地元の方は伝承しております。遊女の体が流れ着いた下流丹波山村には遊女の供養の為、花魁堂なるお堂も存在致します。戦国乱世の悲話ですが、余りに悲し過ぎる話ですね。

話は戻りますが、一ノ瀬集落は昨今の諸事情で父の実家周辺も最近は高齢化で住まう人は殆ど居ません。それと地方ではよくある事ですが、この辺りは全ての家が楠さんと田辺さんです。父の家の家紋は菊水紋で、かの有名な千早城で数十倍の幕府軍と対峙した大南公と所縁の血筋との事。南朝の忠臣大南公の話題に触れますと私の心はは熱く成り、釣りの事を綴るどころでは無くなりますのでご紹介だけ致します。

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肝心の釣りです。川の規模が小さな分、魚体も中古型ですね。今迄3匹の尺ものを釣った事がありますが、泊まったら夕立の強烈なヤツが来て大増水した後の引き際など、極めて稀な局面でした。此の川の渓魚は美しく、容姿は北杜市の尾白川の魚と並んで甲斐国一だと思います。別荘の横の空き地から川に降りました。白い花崗岩の岩、花崗岩の崩れた黄鉄鉱を交えた川砂で川全体的に白いですね。今日はお父さんと私の2人分なので、水の番人様を二匹だけ頂く事に致しました。

15cmクラスを8匹リリースした後に御登場頂いたのは太ったアマゴでした。

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綺麗な小型を釣ってはリリースを繰り返し、やっと食べ頃サイズのイワナが出てくれました。

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もう夕飯の肴はこの二匹で充分ですので、終いにしました。

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この時期花を咲かせるスカシユリですね!多くのユリが下向きに花を咲かせますが、このユリは上を向いているのと、目立つオレンジ色です。前向きであり常にポジィティブな感じがして好きな花の一つです。




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史跡探索 梶原景時公館跡

仕事で外出している時に赤信号で止まると、なんと横に梶原景時公の館後と書いてある石碑が目にま入りした。寒川神社の近くです。

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車を駐車可能なスペースに起き、中に入りました。今上天皇親王殿下の時に植樹した梶の木がありました。感慨深いモノがあります。

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小さな太鼓橋を渡ると右に公園、奥には天満宮がありましたので、景時公を偲んでお参り致しました。太鼓橋の下辺りには、恐らく堀が有ったと思われます。

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梶原景時公は源頼朝公が兵を挙げ、石橋山の合戦に挑むも打ち破られ、洞穴に逃げ込んでいるのを探索方であった景時公に見つかったが、景時公が頼朝側に逃げ道を伝えて、その場を去り、頼朝公の命を救った英雄です。

大河ドラマ義経』では俳優中尾彬さんが演じられでおり、熱演だったのを記憶しております。頼朝公から頂いた恩に報いる為に生真面目に幕府の屋台骨を構築する事に没頭し、数々の戦に参戦し、不穏な芽は摘み取り、職務に忠実であった功臣ですが、真面目すぎた為に周りの御家人に反感を受けてました。頼朝公没後に連判状により鎌倉を追放され、正治2年(1200年)に駿河国清見関にて発生した「梶原景時の変」で吉川氏と合戦となり、駿河国狐ケ崎、現静岡県静岡市清水区上原地域にて討ち取られてしまいました。

 

『信州往来もののふ列伝』を読んで驚いた事があります。梶原景時公は信州にも繋がりがあったのです。信州諏訪の地に梶原景時公の塚があるのです。

 

なんで元々西国の生まれで、駿河で没した梶原景時公が信濃にどう関係するかを『信州往来もののふ列伝』の内容を元に説明します。

 

事の次第は信州木曽谷の英雄である木曽義仲公の挙兵まで遡ります。源氏の御曹司が挙兵する事なり、周辺の豪族はその旗の下に集まりました。その1人に諏訪下社大祝である金刺一族の金刺盛澄公がおりました。下社秋宮の駐車場のど真ん中にある銅像が金刺盛澄公で、稀有な弓馬の達人です。

 

弟の手塚光盛加賀国、篠原の合戦で武功をあげるなど一族で活躍致しましたが、上洛の際は諏訪明神の神事があり、弟を従軍させ信濃に残りました。

やがて義仲公が粟津の戦いで討ち死し、鎌倉軍による残党狩りが行われ、信濃に居た金刺盛澄公も鎌倉まで引き出され、梶原景時公の館で軟禁されました。景時公は盛澄公の弓馬の神技を惜しみ、鶴岡八幡宮で行われた流鏑馬神事の射手に推薦し、頼朝公に許しを得ました。流鏑馬は人馬一体の技ですが、盛澄公にあてられた馬は、気性の荒い荒馬でした。然し盛澄公は荒馬を巧みに操り、見事全ての的を射抜きました。頼朝公の更なる要望で射抜いた的を立てかけている棒を射抜いてほしいと要望を受けましたが、盛澄公はその棒も見事に射抜きました。頼朝公は正に神技と驚嘆し、本人と一族の助命及び帰国を許可致しました。

 

簡単な文書で表すとたった此れだけですが、敵を主人に推薦した景時公、流鏑馬神事に出る事を許可した頼朝公(射殺される可能性もある). 周り中全て敵の中で見事に諏訪明神の神懸かり的な神技を流鏑馬を通して披露した金刺盛澄公.....全て歴史の逸話ですが、奇跡の連続だと思います。

 

やがて頼朝公が没すると、幕府を守るために真面目すぎた景時公は御家人の不満から鎌倉を追われ、駿河国清見関にて発生した変で命を落とします。諏訪にある梶原景時公の塚は金刺盛澄公が恩人である梶原景時公を偲んで建てたものとされております。

 

武人が武人の神技を惜しんで、主人に助命のチャンスを立場を顧みずに請うた事、その恩を忘れずに恩人を偲んで住まいの近くに塚を建立し、幕府の罪人加担追求を恐れずに報いた事、此れ全て人の道ですね。この時代の事を思うと現代に生きる我々に、日本人の道しるべを頂いてる気が致します。否応無しに武人の澄んだ心は綺麗です。

梶原景時公の館跡を偶然見つけたのも縁と捉え、心からの拝礼を致しました。

 

信州往来もののふ列伝

信州往来もののふ列伝