仕事で外出している時に赤信号で止まると、なんと横に梶原景時公の館後と書いてある石碑が目にま入りした。寒川神社の近くです。
車を駐車可能なスペースに起き、中に入りました。今上天皇が親王殿下の時に植樹した梶の木がありました。感慨深いモノがあります。
小さな太鼓橋を渡ると右に公園、奥には天満宮がありましたので、景時公を偲んでお参り致しました。太鼓橋の下辺りには、恐らく堀が有ったと思われます。
梶原景時公は源頼朝公が兵を挙げ、石橋山の合戦に挑むも打ち破られ、洞穴に逃げ込んでいるのを探索方であった景時公に見つかったが、景時公が頼朝側に逃げ道を伝えて、その場を去り、頼朝公の命を救った英雄です。
大河ドラマ『義経』では俳優中尾彬さんが演じられでおり、熱演だったのを記憶しております。頼朝公から頂いた恩に報いる為に生真面目に幕府の屋台骨を構築する事に没頭し、数々の戦に参戦し、不穏な芽は摘み取り、職務に忠実であった功臣ですが、真面目すぎた為に周りの御家人に反感を受けてました。頼朝公没後に連判状により鎌倉を追放され、正治2年(1200年)に駿河国清見関にて発生した「梶原景時の変」で吉川氏と合戦となり、駿河国狐ケ崎、現静岡県静岡市清水区上原地域にて討ち取られてしまいました。
『信州往来もののふ列伝』を読んで驚いた事があります。梶原景時公は信州にも繋がりがあったのです。信州諏訪の地に梶原景時公の塚があるのです。
なんで元々西国の生まれで、駿河で没した梶原景時公が信濃にどう関係するかを『信州往来もののふ列伝』の内容を元に説明します。
事の次第は信州木曽谷の英雄である木曽義仲公の挙兵まで遡ります。源氏の御曹司が挙兵する事なり、周辺の豪族はその旗の下に集まりました。その1人に諏訪下社大祝である金刺一族の金刺盛澄公がおりました。下社秋宮の駐車場のど真ん中にある銅像が金刺盛澄公で、稀有な弓馬の達人です。
弟の手塚光盛が加賀国、篠原の合戦で武功をあげるなど一族で活躍致しましたが、上洛の際は諏訪明神の神事があり、弟を従軍させ信濃に残りました。
やがて義仲公が粟津の戦いで討ち死し、鎌倉軍による残党狩りが行われ、信濃に居た金刺盛澄公も鎌倉まで引き出され、梶原景時公の館で軟禁されました。景時公は盛澄公の弓馬の神技を惜しみ、鶴岡八幡宮で行われた流鏑馬神事の射手に推薦し、頼朝公に許しを得ました。流鏑馬は人馬一体の技ですが、盛澄公にあてられた馬は、気性の荒い荒馬でした。然し盛澄公は荒馬を巧みに操り、見事全ての的を射抜きました。頼朝公の更なる要望で射抜いた的を立てかけている棒を射抜いてほしいと要望を受けましたが、盛澄公はその棒も見事に射抜きました。頼朝公は正に神技と驚嘆し、本人と一族の助命及び帰国を許可致しました。
簡単な文書で表すとたった此れだけですが、敵を主人に推薦した景時公、流鏑馬神事に出る事を許可した頼朝公(射殺される可能性もある). 周り中全て敵の中で見事に諏訪明神の神懸かり的な神技を流鏑馬を通して披露した金刺盛澄公.....全て歴史の逸話ですが、奇跡の連続だと思います。
やがて頼朝公が没すると、幕府を守るために真面目すぎた景時公は御家人の不満から鎌倉を追われ、駿河国清見関にて発生した変で命を落とします。諏訪にある梶原景時公の塚は金刺盛澄公が恩人である梶原景時公を偲んで建てたものとされております。
武人が武人の神技を惜しんで、主人に助命のチャンスを立場を顧みずに請うた事、その恩を忘れずに恩人を偲んで住まいの近くに塚を建立し、幕府の罪人加担追求を恐れずに報いた事、此れ全て人の道ですね。この時代の事を思うと現代に生きる我々に、日本人の道しるべを頂いてる気が致します。否応無しに武人の澄んだ心は綺麗です。
梶原景時公の館跡を偶然見つけたのも縁と捉え、心からの拝礼を致しました。