みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

中原兼遠公の墓所を訪ねて 1

私が木曽川本流で釣りを行う区間は、殆どが木曽福島から宮ノ越までとなります。また、其の区間には尊崇する木曽次郎義仲公ゆかりの地が多く存在しております。f:id:rcenci:20251207142532j:image

正沢川、天神沢、木曽川本流に囲まれた台地は、かつて中原兼遠公の居館が存在した土地です。中原兼遠公こそは義仲公を教育した養父なのです。

兼遠公が幼い駒王丸(義仲公)の学問成就の為に創建した手習天神社です。f:id:rcenci:20251207142538j:image

仮に兼遠公が幼い義仲公の養育を断ったと致しましたら、平家最大の大軍を倶利伽羅峠の戦いで打ち破った義仲公は幼いままで没しておられた事だと思います。

手習天神社の前には天然イワナが泳ぐ天神沢が流れており、更に其の向こうには公民館が有ります。そして其処には此の様な表示がございます。地域の皆様の御心が伝わる素晴らしい案内板ですね。f:id:rcenci:20251207142604j:image

身内と仲間を大事にされた義仲公の御人柄は兼遠公の教えが有ってこそだと思われます。更に其のまま木曽の皆様の御人柄に通じている気がするのです。

お墓参りをした折は、彼岸花が咲く頃でした。f:id:rcenci:20251207142624j:image

木曽次郎源義仲公の話は過去のブログで連載させて頂きました。養父である木曾中三権頭中原兼遠公の墓参りは、渓流釣りシーズン中に必ず行う大事な行事となります。一部繰り返しとなりますが、歴史背景と合わせて御案内させて頂きます。

木曽町日義に有る法泉山林昌寺は中原兼遠公の菩提寺となります。宮ノ越方面から『道の駅日義』に向かう国道沿いの左手に有り、此の地域を代表する古刹となります。f:id:rcenci:20251207142658j:image

墓所の御案内の前に義仲公が兼遠公の元で養育された背景と事情を簡単にお伝え申し上げます。時は久寿二年(約870年前)に遡りますが御容赦下さい。

河内源氏の棟梁であった源為義には多くの子供が居りました。嫡男の義朝を筆頭に、母は違えど次弟の義賢と続きます。事の成り行きとして、長男の義朝が実父である為義より上位の官位を授かりました。普通の父親なら息子の出世を大いに喜ぶところです。しかし此の源氏親子は争いました。

親子同士の潰し合いを仕組んだ長兄の源義朝です。f:id:rcenci:20251207142757j:image

下野守という高い官位を授かった義朝は相模の有力豪族である三浦氏と婚姻関係を結び、更なる勢力拡大を図りました。此れに対し、父である為義は次男の義賢を関東に送り、名族秩父氏の棟梁であった秩父重隆公の娘と結婚させたのです。

ちょうど秩父氏も内輪揉めの真っ最中でしたので、其処を上手く利用した経緯もございます。因みに三浦氏と秩父氏は同じ先祖を持つ一族となります。

長兄義朝の嫡子である義平の所持と伝わる『石切丸』です。石をも断ち切る名刀と言われております。石切剣箭神社の神宝となっております。f:id:rcenci:20251207142812j:image

父である為義、次男の義賢親子は北関東を中心に大きな勢力基盤を築きました。此れに業を煮やした嫡男の義朝は非道な手段を用います。

自らの子で剛勇無双の義平に秩父氏の拠点であった大蔵館を襲撃させたのです。大蔵館には折しも義賢公と其の妻子も滞在しておりました。勿論ですが鬼畜の義朝父子は其処を狙ったのです。此の戦いを大蔵合戦と言います。

因みに此の義朝の三男が鎌倉幕府を打ち立てた頼朝であり、義平は頼朝の兄に当たります。

分かり易く図でご覧下さい。北日本新聞社『乱世を駆ける』よりf:id:rcenci:20251207142825j:image

義賢公と秩父重隆公は此の襲撃で無惨にも親戚の義平に討ち取られてしまいました。しかし義賢公には幼い嫡子が居たのです。其の嫡子こそ後の木曽義仲公であり、幼名を駒王丸と言いました。当然ですが駒王丸にも殺害命令が出ていたのです。

ところが、義平側についた畠山重能公が当時二歳の駒王丸を抱えた小枝御前を不憫に思い、信頼していた武将の斎藤実盛公に託して逃しました。此の畠山重能公と嫡子の重忠公の男振りは最高です。

斎藤実盛公です。後に義仲公は味方に打たれた首のみの実盛公と対面し、世の無情さに涙致しました。此の故事は、かつて尋常小學校の歌にも歌われていたほど有名な故事なのです。f:id:rcenci:20251207142836j:image

駒王丸の『乳母』は中原兼遠公の奥さまで有り、斎藤実盛公は幼い駒王丸を連れ立って中原兼遠公を頼ったのです。事情を聞いた兼遠公は幼い駒王丸の養育を斎藤実盛公に確約致しました。

斎藤実盛公の案内で兼遠公を訪ねた小枝御前と駒王丸の図です。作者は田屋幸男さんです。f:id:rcenci:20251207142859j:image

実質的に義仲公が平家最強の大軍を2度まで打ち破らなければ、頼朝如きは最終的に勝てなかったと私は考えております。また、頼朝は身内や自分についた有力武将を次々に滅ぼして行きましたが、兼遠公に養育された義仲公は身内や配下を大事にしていた事が歴史的にも際立っております。

此の話より大分後の人物ですが、当時としては驚嘆すべき膨大な歴史的素養を持って史跡を歩んだ松尾芭蕉は、義仲公の御人柄を鑑み、義仲公と同じ場所を自らの墓所とした程なのです。

義仲公と松尾芭蕉のお墓は滋賀県大津市の義仲寺にございます。f:id:rcenci:20251207142914j:image

世界的に宗教に関する戦争が数千年も継続するなか、日本民族は日本の神々と仏教を融合してまいりました。

恐らく松尾芭蕉翁は、古来からの続く日本的な『調和』の精神を義仲公の生き方に垣間見たからだと私は考えております。

                続く