みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 2

前回は平安末期におけるザックリとした武家の有様と源氏と平氏の成り立ちと台頭などを御案内させて頂きました(友人からは長すぎる〜と言われました)。しかし此の背景が分からないと中々厳しくて途中で挫折する場合が多いので繰り返します。最初は源氏も平氏も地方に基盤を置く動きをしていた事。義仲公の父親は源義賢公です。義賢公の兄は義朝公であり、義朝公の弟に為朝公がおりました。義朝公の嫡男は義平公(鎌倉悪源太)、次男に鎌倉幕府初代将軍の頼朝公がおります。

略図 『乱世を駆ける 木曽義仲巴御前』 北日本新聞社 より抜粋
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※ 大蔵合戦 
義仲公は幼名を駒王丸と言い、父は帯刀先生(注1)源義賢公で母は秩父重隆公の娘である小枝御前です。駒王丸が2歳の時に大事件が起きました。
時は久寿二年(1155年)の8月16日、場所は武蔵国大蔵館です。大蔵館は現在の埼玉県比企郡嵐山町にこざいました。母の小枝御前は秩父氏の頭領である秩父重隆公の息女です。秩父氏は平将門公の女系子孫であり、当時の秩父重隆は武蔵国留守所総検校職(注2)として武士を動員する権限を持っておりました。
此の戦の背景としては諸説ございますが、一般的な事をご案内させて頂きます。結論的に此の合戦は義朝公の嫡子である義平公の焼き討ちにより、義仲公の父親である義賢公と小枝御前の父親である秩父重隆公が討ち取られ、味方していた武家は離散致しました。
河内源氏頭領の源為義公は兄弟の中でも次男の義賢公に目を掛けておりましたので、嫡男である義朝公は自分の立場に危機感を強く持っておりました。単略的に言うと、まず為義公と義朝公は親子なのにとっても仲がわるかったのです。為義公のバックは五摂家(藤原氏嫡流)、対して義朝公のバックは院の近くに侍る近習達でした。院政(注3)と言う政治体制の絶頂期なので、此の時の『院』つまり上皇は最強です。兄の義朝公は弟の義賢公より十年以上先に南関東に来訪しており、力のある豪族の三浦氏や千葉氏など有力な豪族と婚姻関係を結んでおりました。義朝公の嫡子である義平公の母親は三浦氏の女性です。そんな背景も有って何と父親を差し置いて息子の義朝公に下野守の官職が朝廷より贈られてしまいました。其処でお父さんの為義公は棟梁の地位を守る為に嫡子とした義賢公を義朝公の勢力が及んでいない北関東に送り、当時武蔵国で最強の武士団を持つ武蔵国留守所総検校職の秩父重隆の娘を奥さんに迎えさせました。義賢公は小枝御前と義父である重隆公の館に居りました。

話は少し脱線致しますが、私は高校生の頃に父の蔵書にあった大蔵合戦についての書籍を何冊か読んだのですが、源氏の武将の名前が為ナントカ...とか義ナントカ...など色々名前が出で来て、『全く訳が分からん〜』って状態に成りました。同じ様な名前でゴチャゴチャになった方は前回紹介した源氏一門の表をご覧下さい。面倒臭い方は雰囲気だけでも感じて頂ければ幸いです。

合戦の背景は上述の事だけでは無いのです。実は秩父氏も揉め事がありました。武蔵国留守所総検校職の秩父重隆公は父である重綱公の次男でしたが、嫡男を差し置いて武蔵国留守所総検校職を継いだ事により、嫡男秩父重弘の長男である畠山重能公や重綱公の後妻などが共謀して重隆公を討ち滅ぼす機会を狙っておりました。
オマケに秩父氏は利根川の向こうの上野国の新田氏や下野国藤姓足利氏(注4)などともイザコザが絶えませんでした。従って秩父重隆公にとっても源氏の嫡流であった為義公の跡取りにあたる義賢公と結ぶのは敵対精力より優位に立てる上作だったったのです。重隆公に対抗する新田氏や畠山氏はいずれも義朝公と義平公の親子と結んでいました。そんな最中に義賢公と秩父氏の小枝御前との間に生まれた子供こそ後の旭将軍である木曽義仲公(幼名は駒王丸)です。義賢公は秩父氏と血縁関係を結んだとはいえ、秩父氏の敵対勢力も同時に付いて来ちゃったという感じです。

駒王丸が2歳の時に事は起きました。義朝公の嫡子義平が一族で十六夜の宴を催していた大蔵館を突然焼き討ちしたのです。義朝公は弟の義賢公を直接打つのは周囲の目も合って憚られたので、近くに居た息子である義平に襲わせたのです。時は久寿二年8月16日の夜でした。不意を突かれた義賢公と秩父重隆公は15歳の義平公率いる連合軍によって敢えなく討ち取られてしまいました。義賢公の嫡子である駒王丸(義仲公)にも当然ですが殺害命令が出てました。ところが秩父重隆公を討ち取る事に燃えていた畠山重能公は功成った後で年端もない駒王丸を殺す事が出来ずに密かに小枝御前と一緒に匿ったのです。なんと人間らしい武将でしょうか! 当然ですが寄手の総大将である義平公には内緒です。心優しい武人の畠山重能公の息子さんは鎌倉幕府発足に大きく貢献し、人格及び武芸に優れ、御家人の間では『武家の鑑』と言われた畠山重忠公です。有名な一ノ谷の戦い鵯越の時、馬が哀れだと馬を背負って崖を降りた程の豪傑です。此の父にして此の子有り、重忠公の心根の優しさはお父さん譲りだったと思われます。

畠山重忠公 wikiより
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畠山重能公に救われた駒王丸は、畠山重能公の手を離れ、周囲の豪族と親交が深い武蔵国幡羅郡長井庄を本拠とする豪族の斎藤実盛公の手に委ねられました。斎藤実盛公は後の大戦で再び義仲公と悲劇の対面を果たします。すっとずっと後の時代に石川県の多太神社を訪れた松尾芭蕉は次の様な俳句を残してます。『むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす』此の事は何回か後でご案内しますが『漢の中の漢』とは正にこの人の為に有る言葉の様に思われます。斎藤実盛公は以前に源義賢公にも仕えたことがあるので駒王丸を逃がすようにと畠山重能公に頼まれたのです。斎藤実盛公は駒王丸を悪源太義平の追手から逃すべく、武蔵児玉党の女性を妻にした信濃国の豪族で信濃権守であった中原兼遠公に元に駒王丸と小枝御前を連れて行きました。小枝御前は父である秩父重隆公と夫である源義賢の夢を託した大事な駒王丸を女の細腕で道無き道を進み、多くの峠越えをして木曽まで歩いて行った事を思うと心が痛くなります。結局小枝御前は駒王丸を無事に送り届け、精も根も尽き果てて間も無く木曽で亡くなってしまいます。お墓は現在の木曽町日義にある『義仲館』に隣接している立派な山門を持つ徳音寺という古刹にございますので、近くに行かれた時には是非お立ち寄りください。兼遠公の次男である樋口兼光、最後のニ騎になるまで義仲公に従った今井兼平の墓もございます。

正に漢の中の漢 斎藤実盛公 Wikiより
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吾妻鏡』によると中原兼遠公は義仲の乳母の夫であったと記されております。例え源氏の貴種である義朝公や長男の悪源太義平公を敵に回そうが、斎藤実盛ほどの漢に懇願されてのです。兼遠公は源氏の御曹司を預かる決意を致しました。これぞ木曽の中原兼遠公の凄いところです。自分の一族が存亡の危機に成ってしまう事も顧みず八幡太郎義家公の血を引く駒王丸を受け入れたのです。以後24年後に義仲公が平家追討で旗上げするまで立派に養育されたのです。

兼遠公は木曽と安曇に所領を持っており、ほかの武家からも信頼が厚かったと伝わります。後の義仲四天王信濃国一の剛の者だった根井行親を説いて嫡子の盾親忠と共に味方に付けたのも兼遠公の御仁徳だと思います。これ程の度量を持った漢が木曽を領していたのです。木曽は間違いなく850年前に日本の歴史を変えた英雄を育んだ土地と成ったのです。現代に生きる私は義仲公の愛妾である巴が水浴びした巴淵の下流にある堰堤でイワナを釣る為に竿を出していると、何となく歴史が具現化した様で不思議な気持ちに成ります。旗上げ神社も中原兼遠公のお墓や屋敷後も現在まで地元有志の皆様の御尽力により史跡として確り残っており、私はそんな木曽の空気を身に取り入れながら渓流釣りを堪能している事を改めて幸せに思います。ブログによく記載している南宮神社も兼遠公と義仲公が京の都に旅をして、美濃国南宮大社に寄った事から木曽に分社した歴史がございます。

今年義仲館の前で撮影した源氏の旗記である笹竜胆(ささりんどう)です。
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駒王丸が木曽でスクスク育っているなかで世の中は歴史的な大きな変化を遂げております。いよいよ次は戦乱の始まりである『平治の乱』です。


注1
帯刀先生 (タテワキセンセイでは無く、たちはきせんじょうと読みます、私は12年間もセンセイだと思ってました 笑!) 東宮の警護職を束ねる長の役目の事です。東宮とは宮中において皇太子がいる場所であり、皇太子そのものを示す場合もございます。よって帯刀先生は天皇に余程信任がないと成れない役目です。


注2
武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)、実に読み難い官職の名前ですけど武蔵国の豪族にとっては憧れの職でした。この実権を握る事によって周囲の地侍を動員出来たのです。

注3
改めて院政とは具体的には次の3人です。白河上皇鳥羽上皇後白河上皇。その前は藤原氏による摂関政治でした。

注4
藤姓足利氏とは近江三上山の百足退治で有名な藤原秀郷を祖とし、下野の足利郡に本拠を置いていた豪族です。後に頼朝公により滅ぼされました。有名な足利尊氏公の足利氏とは区別されます。足利尊氏公の足利氏は藤姓足利氏と区別する為に源姓足利氏と表現される場合がごさまいます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 1

今回から私が第二の故郷と思っている木曽谷の英雄である旭将軍源義仲公についてご案内したいと思います。だいぶ昔の話ですが、2005年の大河ドラマであった『義経』で、義仲公の事を随分のと無粋に表現されている事が実に面白くありませんでした。また乱暴な言い方なのは重々承知で申し上げますと義仲公が立たなかったら、モジモジ君の頼朝公は何時迄も立てなかったと私は考えており、義仲公は歴史の先駆者であったと思われます。私が学んだ義仲公の様々な文献より抜粋して『簡単』にご案内したいと思います。

木曽義仲公 wikiより
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まず木曽義仲公はどんな方であったかご説明する前に源氏と平氏についてと、其の時の時勢について説明しなければ成りません。既にご存知の皆様には釈迦に説法ですが、桓武天皇の血筋から出たのが平氏清和天皇の血筋から出たのが源氏です。乱暴な表現ですが、出たという事は皇族から外れたと言う事であり、此の事を臣籍降下と言います。西暦757年に制定された養老令では天皇の4代後まで皇族とされて来ましたが、其れを討ち破り、もっとはやい段階で臣籍降下を行ったのが50代の桓武天皇でした。世の中でよく言われる源平合戦は『源氏』と『平家』の戦いであり『源氏』と『平氏』では無いのです。内容としては源氏の嫡流平清盛一族の戦いでした。(ココガ ダイジデス)

源氏一門 鎌倉観光ポータブルサイトより
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ご覧の様に義仲公の父君は源義賢公です。そして義賢公のお兄さんは鎌倉幕府を開いた頼朝公であり、頼朝公の父上が義朝公です。義朝公→義賢公→為朝公が3人兄弟なのです。3人兄弟の父親は河内源氏の棟梁である源為義公です。因みに末弟の為朝公については物凄過ぎる武人ですので、興味のある方は検索してみて下さい。此の方は私が思うに日本史上最強の武人だと思います。全ての武勇に由来する伝説が此の方の前では陰ってしまう程のお方なのです。

此の時代の武家における兄弟とは、我々が想像する兄弟とは全く環境が異なります。どう違うかと言うと、主人が奥方の家に訪問するのです。つまり3人の奥様が居て、其々に男子が1人ずつ仮に生まれたとすると、全く違う環境で3人が育てられるのです。現在は同じ家に兄弟も父母も祖父母も住んでいる事が当たり前ですが、当時は根本的に違う様式なので、同じ父を持っていても他人に近い兄弟となり、ましてや叔父や叔母などは他人同様となります。義朝公には義平と言う嫡子がおりまして、次男は頼朝公、範頼公、義経公と続きます。義賢公の嫡子は義仲公です。木曽義仲公は義朝公の子供の3人とは宿縁を持っていた事になります。

日本史上最強の武人である源為朝
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此処でなぜ臣籍降下した源氏と平氏が歴史の表舞台に出たかを説明します。実質的な平氏の祖は平高望、源氏の祖は源経基です。最初は地方に勢力を伸ばす地味な存在でした。ところが935年に起こった平将門の乱により状況が一変してしまいます。平将門公は朝廷の支配から離脱して新皇を名乗のりました。当然朝廷は全力をあげて乱鎮圧に乗り出して見事に此れを治めました。話は外れますが、此の時に朝廷は鬼神のような強さを誇る将門公に対して武力のみでは無く、神霊的な攻撃手段を取りました。内容としては真言密教の僧である寛明に朝敵降伏の為に京都高尾山の不動明王像と宝剣を授けて敵地に近い成田山に向かわせ『護摩焚き』を行わせたのです。合戦の最中で風向きが変わり将門公が矢に打たれて没したのは、もしかしたら此の呪詛のせいかも知れません。功成った後に寛明は不動像を引き上げようとしましたが、像は根が生えた様に全く動きませんでした。其処で其の場所に成田不動が建立されたのです。よって成田不動尊平将門公を祀る神田明神は数百年間ものあいだ不仲なのです。成田山真勝寺の関係者や信者が神田明神の鳥居より中に入る事は絶対に有りませんし、神田明神の氏子が間違っても成田山には出向きません。表には出てませんが歴史上のタブーなのです。

神田明神
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成田不動
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乱鎮圧に功績が有った藤原秀郷平貞盛源経基が朝廷から官職を受けました。正に此の官職を受けた事が今迄朝廷の番犬並に扱われていた源氏と平氏を歴史の表舞台に押し上げたのです。其れ以後は西国の平氏、関東の源氏の何方も大きい波風無く朝廷を守っておりましたが、後の後白河天皇方と崇徳上皇方が衝突した保元の乱がキッカケで敵味方に別れて争う事になりました。


崇徳院 wikiより
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天神様の菅原道真公と崇徳上皇平将門公は日本三大怨霊と言われ、朝廷に怨恨を持つと言われております。コワイデス

前置きが大分長く成りました。でも源氏は何故ああも兄弟で争ったのかなどは当時のバックボーンを知らないと分からない事なのです。また平家は基本的に船の戦いが主体で長い伝統形式を持ってました。源氏は陸戦以外は全く経験がない状態で有り、戦い方や戦の義礼もお互い全く異なるものでした。壇ノ浦の戦いで平家方の船を操る水夫を射殺す命令を出した戦の経験がない九郎判官義経の命令などは全くの儀礼違反で有り、平家から見ると戦闘要員以外を殺すなんて非人道的な行動にも程があると取られたと思われます。つまり当時の戦はただ勝てば良いと言うものでも無かったのです。源氏方についた平氏は皆それを分かっておりしましたが総大将の義経の命令なので従うしか無かったと思います。頼朝公から派遣された戦目付の梶原景時もバリバリの平氏なので此の事は『卑怯』に思ったのではないでしょうか、当然主君である頼朝公への報告も良いモノでは無くなってしまい、その後の義経主従討伐という悲しい史実につながったのだと思います。(最後の一節は私感です)

屋島で大勝した源氏方に味方した武士には多くの平氏が存在しました。ご存知の様に鎌倉幕府初代執権である北条時政もバリバリの平氏です。また一方で負けた平家方にも源氏が多くおりました。当時の武士は全て723年(養老7年)に発布された墾田永年私財法により新しい田畑を開墾して来た地主達です。其の田畑を守るために刀槍を取り、自分の領地を守ったのです。源平合戦で多くの平氏が源氏に味方したのは清盛公の一族が日宋貿易で大儲けして公家化した事により、自分の領地を公家に脅かされると思ったのも理由の一つと思われます。多くの味方の人心が平家から離れたのも、ほぼ公家化した清盛一門では武士の気持ちが分からなかったからだと考えます。

平家物語では平家の公達の勇ましく戦って散って行った事が美しく語られております。通常は負けたモノが美しく語られる事などございませんし、平家物語というモノ自体が存在してはダメなモノだと思います。源氏方に味方した平氏達が正々堂々と闘って散って行った一族の哀愁を偲んだ事と余りにも潔い散り際が当時の民心に響いたものだと思われます。平家物語の冒頭にある『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 奢れる人も久からず ただ春の夜の夢のごとし 猛き者も遂にはほろびぬ 偏ひとへに風の前の塵におなじ』の一節は本当に我々の心に沁みます。最後に今回は記述しているうちに熱く成り過ぎ、背景のみの御案内と成ってしまった事をお詫び致します。

次に続きます....次からやっと本番です!

去りゆく日

会社に勤務している者としての宿命に『転勤』がございます。其の転勤が今回は何時もより短い期間で突然にやってまいりました。社命により三重県松阪市への赴任です! 先週は松阪の営業所で前任の所長と引き継ぎを行っておりました。土曜日夜半に近鉄と新幹線を乗り継いで帰宅し、引っ越しの準備を日曜日のみで完結して今週は日本橋で後任との引き継ぎでした。

勤務期間1年と半年でしたが朝ごはんは決まって此処でした。
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引き継ぎ初日は日本橋から伊豆大島です。写真は東海汽船のジェット汽船の船内です。
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東海汽船のhome pageより
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2日目からも重要なお客さま中心に引き継ぎ業務を行いました。引き継ぎ期間は短いのですが、義理を欠く事だけは絶対にする訳にはまいりません。

金曜日最終日は青森県弘前市のお客様への訪問です。新青森で新幹線を降り、更に1時間ほど奥羽本線に乗りました。お客さまと食事をご一緒してトンボ帰りです。
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お店に戻ると管理職一同と社員の皆が待っていてくれました。一緒のタイミングで移動となった女性の主任も来てくれました。

緊急事態宣言が解消されても酒宴を伴う送別会は相変わらず禁止です。しかし皆から心のこもった送別の言葉や記念品を頂きました。一人ひとりに強い結びを着きを感じていた営業所だったので今回は本当に辛い別れでした。

次席には本当に苦労かけました。
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筆頭課長は思い出深い事ばかりです。
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親孝行な女性社員です。
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最後に管理職一同で記念写真を撮影して貰いました。此の一枚は私にとって一生の宝物です。
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最後に皆様に挨拶した時は不覚にも咽せました。『我が家族に幸あれ』と心に念じた次第です。違う部署の皆様にも見送られて営業所を後に致しました。土曜日には新しい家族が待つ松阪へ旅立ちます。

千曲川イワナ釣り 最終釣行とキノコ採り

2021年の最終釣行は更科の実家に帰る事と合わせて千曲川水系となりました。実はしばらく更科に帰れなくなる事もあって、母の顔を見ておきたいと思ったからです。

山はヨツヅミが映えます。霜が降る頃に食べると甘酸っぱくて口を尖らせた思い出がございます。
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早いもので山はすっかり秋の気配となっておりました。漆の葉や山葡萄の葉が我先にと赤く紅葉して艶やかさを競っております。今回目指す川は天然イワナの渓でしたので、現地に到着すると空気が凛としておりました。小一時間で千曲川イワナらしい美しい魚が餌を追ってくれました。綺麗な魚で今期を締め括れた事を竜神様に感謝致しました。

魚はすっかり秋の魚体です。
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お土産イワナも用意できたので、更科へ向けて出発です。道中にお諏訪さまを祀る神社が有りましたので、お詣りをさせてる頂きました。今期も無事にシーズンオフを迎えられた事に対して御礼申し上げた次第です。小腹が減ったので神社の駐車スペースをお借りして、下の娘が作ってくれた弁当を頂きました。

かやくご飯野お握りと卵焼きでした。
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腹ごしらえも済みましたので更科までの道を快調に進んでいると、全ての景色に思いが馳せてまいります。五郎兵衛新田の美味しいお米、望月町の美しい田園風景など初秋の信州は本当に美しい場所だと改めて感じ入りました。

道路が空いていたので9時頃には更科の実家に到着しました。母にイワナを渡したり、アレやコレやと話しているうちに、元気そうな母を見て安心したのか分かりませんが、昼まで寝てしまいました。目が覚めたら『ご飯だよ』との事だったのだので、お昼ご飯を食べながら釣りに行った山にベニテングタケが沢山生えていた事を話すと、元々キノコ採りが大好きな母が山に行ってみたいと言い出しました。それならと支度をして2人で山に向かいました。実績のある場所から入山すると目当てのジコボが出てました。コレは比較的早く採れるキノコです。

正式にはハナイグチと言い、美味しいキノコです。
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結構出てます。
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母親は山に入ると別人です。その早い動きはウサギの様で、とても80歳手前には思えない健脚です。 

一通り採ってから違う山に行く事に致しました。途中で樋知大神社(ひじりだいじんじゃ)と言う山頂近くの氏神様に寄り、ジゴボの御礼とクマさんに会わない様にと祈願しました(笑)。此の神社は地元でも知る人ぞ知るパワースポットです。

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参道には杉の大木が並んでます。
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直径3m以上ある御神木です。
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鎮守の森は太古からの橅林です。
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参拝を終えて違うポイントから入山すると、何と見事な一本シメジが沢山採れました。

匂い松茸味しめじと言われる美味しいキノコです。
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高さは25cmも有る立派なキノコです。
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母は立派なシメジを採ってご機嫌です! ところがコレだけでは無かったのです。大木の裏に回ってみたら更科の山では滅多にお目にかかれない『白舞茸』が有りました! 通常の舞茸と比べたら香りは少し落ちますが、それでも芳しい香りかま鼻腔を突き抜けます。

ヘルメットくらいの大きさです。
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氏神さまが母と私に最高の山の恵みを与えてくれたのだと感じました。有り難くて社の方角に向かって心から拝礼致しました。母はとにかく大喜びで助手席に座り色々な山の話を私にしてくれました。御祭神の武水分命は水を司る神様で渓流師にとっても水神様として崇められております。その日の晩御飯には、母親手作りの白舞茸の天ぷらとジゴボの饂飩が出てまいりました。舞茸の香りと歯応えが絶品で、ついつい地酒を飲み過ぎてしまった更科の夜となった次第です。

木曽川 ヒレ丸イワナ襲来後の尺一寸

今週は台風が来てましたので諦めておりましたが、不思議ない事に直前でルートが変わったのです。月曜日から天気予報を携帯に穴が開くらい見ておりましたが、此のくらいの雨なら大丈夫だろ〜と思って勇んで出発致しました。

黄金色の稲が広がって美しい光景です。
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朝一番で狙った本流に入りましたが、見事な迄のノーヒットでしたので野上川と言う支流に入りました。20cmくらいの綺麗で美味しい魚を今晩の酒の肴にする事が狙いです。ところが成魚放流でもあったのでしょうか? 胸ビレが無くて尾ビレが丸い魚ばかりのオンパレードです。好みにもよる事ですが、私は自然を頂いている気がしないのでリリースしております。しかし其の釣れっぷりが半端じゃありません! 型も良くて入れ食い状態なのです。

あっと言う間にミミズが終わってしまいましたので、車に予備のミミズを取りに行きました。釣り上げだ全ての魚がヒレ丸なので、私のビクは空っぽのままです。また戻るか否かで少し考えましたが、もう少し上の高い堰堤を攻めてみる事にしました。
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目当ての高い堰堤は夜半からの雨で結構な水量でしたので、少し重いオモリを付けて戻り波に入れました。すると『グ〜』と引き込む大物のアタリです! 針掛かりした後は物凄いスピードで暴れ回っておりましたのでアマゴかな? と思いましたが、浮いて来た魚は大きい顎のしゃくれた天然の雄イワナです。慎重に寄せてタモ入れ致しました。さっきまでのヒレ丸君とは全く違う容姿で野生を感じます。

木曽の秋イワナに相応しい風貌でした。
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昆布でしめてお刺身で頂きます。
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落ち口の肩で美味しろうなアマゴが釣れてくれました。
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今度は瀬で同型のアマゴです。
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此処でアクシデントが起こりました! もう一つ上の堰堤に行こうとした時、不覚にもバランスを崩して水中の沈み岩にフライングエルボーをかましてしまいました。何時もの事ですが岩には勝てません! 肘を強かに打って木曽の清らかな水流を左半身で体験させて頂いている時に、餌箱の蓋が開いて残りのミミズがドンブラコッコと流れて行ってしまったのです。やっと調子が出て来たので残念でしたが納竿と致しました。

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良いイワナを釣らせて頂いた御礼をしようと南宮神社に向かいました。以前の参拝時にお会いした氏子の方が、本殿を柿渋で塗ると言っておりました。どうやら其れが完成した様であり、実に見事な色合いとなっておりました。作法通りに心を込めて参拝させて頂きました。何時も思う事ですが、神域は小雨の時が特に美しく清やかに感じます。

鳥居も立派な鳥居に変わっております。
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トイレも白木でリニューアルされてました。綺麗過ぎてトイレには見えません!
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男子トイレの表示は義仲公でしょうか。
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だとしたらコレは巴御前ですね!
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魚の処理を済ませて権兵衛峠の広いパーキングに車を止め、下の娘が作ってくれたお弁当を車中で頂きました。その後は何時も通りに眠気に襲われ、2時間半ほど仮眠をとりました。少し前は車中で寝ていると、冷房をかけているにも関わらず大汗をかいておりましたが、昨今は涼しくて熟睡度もアップしております。目が覚めて車外に出て一服していると、山々は秋湿りの雨でモヤが立ち込め、とても幻想的な光景である事に気が付きました。余りの清けやかさに深く深呼吸をして木曽を後に致しました。

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木曽川 初秋のイワナ釣り

先週は諸事情があって釣りに行けませんでしたが、今週は満を辞しての釣行です。今年は気のせいか肌寒くなるのが少し例年より早い気が致します。木曽の渓魚の皆様も鮭科の本能に従って団体様一向で遡上してくれていると勝手に思い込んでの出発でした。

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現地に着いてみると本流は大分濁りが取れたとはいえ、上流にダムが有る川特有の濁りです。何となくですが、濁りは見飽きたので今回は上流部の大支流である笹川に向かいました。物凄い工事をしていたのが記憶に新しいのですが、ダメもとで向かいました。この川に入る釣り人の殆どが堰堤狙いですが、私は瀬釣りが好きなので、良い瀬を探して右往左往していると、お誂え向きの瀬がありましたので本日は此処を釣る事と致しました。この川は経験的に『ヘチ』に良型魚が着いてます。根がかり覚悟で岸際に仕掛けを送り込む様に流すと、流し終わりで『ユラッ』とデカイのが姿を見せてから元の位置に戻って行きました! 

其れにしてもデカイ奴でした。仕掛けを流すのが早すぎたと思ったので、もう一度食ってくれる事を祈ってゆっくり流すとビタっと目印が止まりました。すかさず合わせると何かに引っ掛かって動きません!『根掛かりか〜』と思い、糸を切る為に竿を畳んで糸を掴むと手元に生き物の動きが伝わってまいりました。急いで竿を伸ばして煽るとバシャバシャっと凄い引きです。糸は通しの0.8号だから心のゆとりが有りましたが、なんせ提灯釣りなので竿のタメが全く効きません! ヘチから川に降りて何とかタモ入れした魚はジャスト40cmのヤマトイワナでした。思わぬ大物に木曽の竜神様に手を合わせて感謝致しました。タバコを一服つけて休憩してから、再び川を遡行していると、大岩を配した深くて良いヘチのエグれがございましたので餌を投入してみました。今度は明確なアタリが出ました。この魚もかなり暴れて楽しませてくれましたが、先程の手応えが強烈過ぎて尺上でしたが余裕を持って取り込めました。もう1匹25cm程のイワナが釣れてくれましたが、何やら今日はもう充分な様な感じが致しました。まだ1時間程しか釣ってませんが納竿とした次第です。

木曽川の底力を強く感じました。
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三つ口のイワナでした。
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イワナの日本固有亜種であるヤマトイワナの特徴ですが、体に白点が一つもございません。対してニッコウイワナには多くの白い点がございます。
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背中にも白点は有りません。本日の夕飯にお刺身で頂き、アラは明日の朝にイワナ汁にして頂く予定です。
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此処で魚の処理を済ませました。笹川の流れは薄く濁ってます!
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帰り支度を済ませ、身なりを整えてから木祖村氏神さまである諏訪神社に御礼の参拝をさせて貰いました。

小雨の中で朱色の鳥居が荘厳さを醸し出しております。
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本殿は写真撮影するのが憚られますので標柱でお許し下さい。お諏訪さんの信仰は信州人の誇りです。
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此処は玉垣の代わりにアララギを植えてました。
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丁度赤い実が沢山成っておりましたので二粒ほど頂戴致しました。甘くて美味しく懐かしい味でした。しかしこの実は果肉は食べれますが種は猛毒ですので注意が必要です。タキシンと言う毒で果肉以外の木全てに含まれておりますので気を付けて下さい。
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帰りは鳥居トンネンを抜け、権平峠で遅い朝ごはんを食べてから帰りました。あと2、3回で今年の渓流シーズンも終わりだと思うと、毎年の事ですが寂寥の念を覚えます。

次女の懐剣拵え

このブログに2019年10月17に載せた『買い物 懐剣』にて紹介させて頂いた刀身に拵えを制作する為、府中の研ぎ師の先生を通して其々の刀職の方に依頼して貰いました。有り難い事に下の娘が来年成人式を迎える運びとなりましたもので、身に付ける振袖に懐刀を帯びる事が出来る様にと考えた次第です。

依頼してからかなりの時間が経過致しましたが、やっと出来上がりました! 下緒は行きつけの浅草の組紐屋さんから贖い、拵え袋は専門の職人さんにフルオーダーでお願い致しました。懐刀を打ち上げた刀匠は大正から昭和初期における代表的な刀工である堀井秀明刀匠です。堀井刀匠は日露戦争黄海海戦で被弾した戦艦三笠の大砲の鉄から刀を鍛えた三笠刀で知られております。清廉潔白な人柄で信頼に値する刀匠であったと伝わり、其の子孫は今でも北海道室蘭で鍛刀しております。

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鋒(きっさき)です。
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此の懐刀は刃長は5寸1分弱(15cm強)で小柄な次女の体系にピッタリだったのです。昭和3年の作刀で92年の歳月を経ており樋の中に薄錆が出ておりましたので研ぎ師先生に研磨も依頼致しました。以下は専門用語で恐縮ですが、簡単に刀身を説明させて頂きます。刃文は直刃、地鉄は小板目が詰んで流れごころにの肌になります。匂口は小沸ついて深く、刃縁は冴えて焼き叢なく良い仕上がりだと考えます。何故次女の為に購入したかとの言いますと、長女には既に別の一刀を揃えておりましたが、次女には何も無かったからです。武人の拵えは江戸時代が下るに従い、金具や鞘に意味合いを含んだ意匠となっておりますので、私めも懐と相談しながら其れなりに考えてみました。

『鳶色漆家紋蒔絵鞘合口拵』
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鞘の色が写真だとオレンジっぽく映ってしまいますが濃い茶色です。また拵えの呼び名が長くて少し分かり難いと思いますが、トンビの羽の色に似た濃い茶色の鞘に家紋(九枚笹)の蒔絵を黒漆で施し、鍔を付けない合口と表現するタイプの拵え(外装)であると言う事です。トンビは夢に出現すると最高の幸運をもたらす吉鳥と言われております。また往古には神武天皇が日向の高千穂を出て東征に向かった時に同族で有る長髄彦ナガスネヒコ)と訳あって合戦と成り、苦戦を強いられていた時に金鵄(金色の鳶)が神武天皇の持つ弓の上に飛来し、金色のまばゆい光を発して敵兵の目をくらまして勝利をもたらしたと伝わった事から、物事に対して勝利に導く神鳥として日本人に好まれてまいりました。我が次女の行く末にも幸運をもたらせて欲しいと願って鞘の色に選んだ次第です。

トンビ wikiより
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此方は下緒です。
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下緒には濃色(こきいろ)と言う紫とグレーを足した様な色を選びました。濃色は鎌倉時代には日本て行われていた紫根染を何回も繰り返した日本の伝統色です。紫を取り入れた意味として、紫は『尊敬』や『品位』を表しており、個性的であると言う意味合いもございます。我が次女は美容系の道に進んでおり、正直言うと私には全くもって関わりの無い縁遠い世界です。しかし無縁の世界とは言え、相手の個性を良い意味で表現する世界の様な気が致しますので『品位』と『個性』のキーワードは次女の守り刀に付属する下緒として適していると考えました。

『黒鮫』と言う柄糸を巻かないで鮫皮(エイの皮)を巻いて黒漆を施した柄に致しました。
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鮫皮は元々は魚の皮なので濡れると用を成しません。鮫皮に黒漆は昔からあるスタイルなのですが、防水と補強の為に黒漆を塗り重ねたと言われております。

赤銅で作られた花瓢箪図目貫です。
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拵え袋は正絹の紫地に小さな桜花を散らした物を選びました。房紐は平安時代からの伝統色である『卯の花色』です。この組み合わせは娘の着物に合わせたモノです。
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次女の名前は『萌』です。私は渓流釣り師なのでモノトーンの山々に春の息吹を感じるのが大好きです。次女にも新緑の様な生命感に溢れたイキイキとした女性に成ってほしいとの願いを込めて名付けました。此の目貫は春の楽しい行事である花見をイメージした桜に瓢箪の『花瓢箪図目貫』と言われている物です。楽しげな人々の声が聞こえてくる様な品で我が次女にはピッタリでした。材質は銅に少量の金と銀を混ぜた赤銅という合金を使用し、色揚げを施したものです。

刀身を拵えの柄に納めました。
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刀の白鞘はお米を練った続飯と言われている糊で朴の木を張り合わせております。従ってルパンに出てくる石川五右衛門の刀の柄はとても戦えるモノでは無いのです。

本身の代わりに鞘に納めてある木製の刀身を『ツナギ』と言いますが、鞘師の先生方はどうやってこれ程ピッタリな物を作れるのか?とても不思議です。時代劇ではタケミツと呼ばれれてますが、コレは鞘の素材と同じで朴の木で出来ております。
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一式です。
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懐剣とは別名で懐刀とか守り刀とかと言われており、通常は栗型(下緒を通す部品)とか柄巻とかは施さないで柄も鞘も漆塗りのみで仕上げた拵が多く感じます。しかし懐剣は女性が身につける唯一の武器でもあるので、手が滑らない様に鮫皮も目貫も付ける事と致しました。ただ男性と違い左腰でなく帯の左上に差します。女性でも自分の身は自分で守るという意味合いもございますが、災いや邪悪な物などから身を護り、己が将来を切り開くと言う意味の方が強いと思われます。今回は手入れの仕方や休め鞘である白鞘から拵えへ刀身を入れ換えるやり方、房紐の結び方などを次女に伝えておきました。ところが次女の反応は『ふ〜ん』との返事であり、些か心配な状態となりました。