みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 1

今回から私が第二の故郷と思っている木曽谷の英雄である旭将軍源義仲公についてご案内したいと思います。だいぶ昔の話ですが、2005年の大河ドラマであった『義経』で、義仲公の事を随分のと無粋に表現されている事が実に面白くありませんでした。また乱暴な言い方なのは重々承知で申し上げますと義仲公が立たなかったら、モジモジ君の頼朝公は何時迄も立てなかったと私は考えており、義仲公は歴史の先駆者であったと思われます。私が学んだ義仲公の様々な文献より抜粋して『簡単』にご案内したいと思います。

木曽義仲公 wikiより
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まず木曽義仲公はどんな方であったかご説明する前に源氏と平氏についてと、其の時の時勢について説明しなければ成りません。既にご存知の皆様には釈迦に説法ですが、桓武天皇の血筋から出たのが平氏清和天皇の血筋から出たのが源氏です。乱暴な表現ですが、出たという事は皇族から外れたと言う事であり、此の事を臣籍降下と言います。西暦757年に制定された養老令では天皇の4代後まで皇族とされて来ましたが、其れを討ち破り、もっとはやい段階で臣籍降下を行ったのが50代の桓武天皇でした。世の中でよく言われる源平合戦は『源氏』と『平家』の戦いであり『源氏』と『平氏』では無いのです。内容としては源氏の嫡流平清盛一族の戦いでした。(ココガ ダイジデス)

源氏一門 鎌倉観光ポータブルサイトより
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ご覧の様に義仲公の父君は源義賢公です。そして義賢公のお兄さんは鎌倉幕府を開いた頼朝公であり、頼朝公の父上が義朝公です。義朝公→義賢公→為朝公が3人兄弟なのです。3人兄弟の父親は河内源氏の棟梁である源為義公です。因みに末弟の為朝公については物凄過ぎる武人ですので、興味のある方は検索してみて下さい。此の方は私が思うに日本史上最強の武人だと思います。全ての武勇に由来する伝説が此の方の前では陰ってしまう程のお方なのです。

此の時代の武家における兄弟とは、我々が想像する兄弟とは全く環境が異なります。どう違うかと言うと、主人が奥方の家に訪問するのです。つまり3人の奥様が居て、其々に男子が1人ずつ仮に生まれたとすると、全く違う環境で3人が育てられるのです。現在は同じ家に兄弟も父母も祖父母も住んでいる事が当たり前ですが、当時は根本的に違う様式なので、同じ父を持っていても他人に近い兄弟となり、ましてや叔父や叔母などは他人同様となります。義朝公には義平と言う嫡子がおりまして、次男は頼朝公、範頼公、義経公と続きます。義賢公の嫡子は義仲公です。木曽義仲公は義朝公の子供の3人とは宿縁を持っていた事になります。

日本史上最強の武人である源為朝
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此処でなぜ臣籍降下した源氏と平氏が歴史の表舞台に出たかを説明します。実質的な平氏の祖は平高望、源氏の祖は源経基です。最初は地方に勢力を伸ばす地味な存在でした。ところが935年に起こった平将門の乱により状況が一変してしまいます。平将門公は朝廷の支配から離脱して新皇を名乗のりました。当然朝廷は全力をあげて乱鎮圧に乗り出して見事に此れを治めました。話は外れますが、此の時に朝廷は鬼神のような強さを誇る将門公に対して武力のみでは無く、神霊的な攻撃手段を取りました。内容としては真言密教の僧である寛明に朝敵降伏の為に京都高尾山の不動明王像と宝剣を授けて敵地に近い成田山に向かわせ『護摩焚き』を行わせたのです。合戦の最中で風向きが変わり将門公が矢に打たれて没したのは、もしかしたら此の呪詛のせいかも知れません。功成った後に寛明は不動像を引き上げようとしましたが、像は根が生えた様に全く動きませんでした。其処で其の場所に成田不動が建立されたのです。よって成田不動尊平将門公を祀る神田明神は数百年間ものあいだ不仲なのです。成田山真勝寺の関係者や信者が神田明神の鳥居より中に入る事は絶対に有りませんし、神田明神の氏子が間違っても成田山には出向きません。表には出てませんが歴史上のタブーなのです。

神田明神
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成田不動
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乱鎮圧に功績が有った藤原秀郷平貞盛源経基が朝廷から官職を受けました。正に此の官職を受けた事が今迄朝廷の番犬並に扱われていた源氏と平氏を歴史の表舞台に押し上げたのです。其れ以後は西国の平氏、関東の源氏の何方も大きい波風無く朝廷を守っておりましたが、後の後白河天皇方と崇徳上皇方が衝突した保元の乱がキッカケで敵味方に別れて争う事になりました。


崇徳院 wikiより
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天神様の菅原道真公と崇徳上皇平将門公は日本三大怨霊と言われ、朝廷に怨恨を持つと言われております。コワイデス

前置きが大分長く成りました。でも源氏は何故ああも兄弟で争ったのかなどは当時のバックボーンを知らないと分からない事なのです。また平家は基本的に船の戦いが主体で長い伝統形式を持ってました。源氏は陸戦以外は全く経験がない状態で有り、戦い方や戦の義礼もお互い全く異なるものでした。壇ノ浦の戦いで平家方の船を操る水夫を射殺す命令を出した戦の経験がない九郎判官義経の命令などは全くの儀礼違反で有り、平家から見ると戦闘要員以外を殺すなんて非人道的な行動にも程があると取られたと思われます。つまり当時の戦はただ勝てば良いと言うものでも無かったのです。源氏方についた平氏は皆それを分かっておりしましたが総大将の義経の命令なので従うしか無かったと思います。頼朝公から派遣された戦目付の梶原景時もバリバリの平氏なので此の事は『卑怯』に思ったのではないでしょうか、当然主君である頼朝公への報告も良いモノでは無くなってしまい、その後の義経主従討伐という悲しい史実につながったのだと思います。(最後の一節は私感です)

屋島で大勝した源氏方に味方した武士には多くの平氏が存在しました。ご存知の様に鎌倉幕府初代執権である北条時政もバリバリの平氏です。また一方で負けた平家方にも源氏が多くおりました。当時の武士は全て723年(養老7年)に発布された墾田永年私財法により新しい田畑を開墾して来た地主達です。其の田畑を守るために刀槍を取り、自分の領地を守ったのです。源平合戦で多くの平氏が源氏に味方したのは清盛公の一族が日宋貿易で大儲けして公家化した事により、自分の領地を公家に脅かされると思ったのも理由の一つと思われます。多くの味方の人心が平家から離れたのも、ほぼ公家化した清盛一門では武士の気持ちが分からなかったからだと考えます。

平家物語では平家の公達の勇ましく戦って散って行った事が美しく語られております。通常は負けたモノが美しく語られる事などございませんし、平家物語というモノ自体が存在してはダメなモノだと思います。源氏方に味方した平氏達が正々堂々と闘って散って行った一族の哀愁を偲んだ事と余りにも潔い散り際が当時の民心に響いたものだと思われます。平家物語の冒頭にある『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす 奢れる人も久からず ただ春の夜の夢のごとし 猛き者も遂にはほろびぬ 偏ひとへに風の前の塵におなじ』の一節は本当に我々の心に沁みます。最後に今回は記述しているうちに熱く成り過ぎ、背景のみの御案内と成ってしまった事をお詫び致します。

次に続きます....次からやっと本番です!