みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃秦氏の話  3

渓友会の名誉会長から難波の空に輝く素敵な日輪の写真を送って頂きましたので、此の場にて御披露させて頂きます。f:id:rcenci:20260516103630j:image

さて、今週は其の後の信濃秦氏の話となります。一族は更科から拠ん所無い事情により、離れる事となりました。まず、其の拠ん所無い事情から御案内させて頂きます。

保元元年に勃発した日本史上稀に見る本格的な内乱と致しまして、『保元の乱』がございます。天皇家の皇位継承争いに複雑な摂関家の内紛が複雑に絡み合い、更に源氏及び平氏が二分し、其の余波は地方に迄及ぶ大戦となりました。

古くは坂東での平将門公の乱の後に、功績の有った武家が歴史上初めて貴族の官位を授かり、更に低く見られて来た武家が此の保元の乱の大活躍により、逆に世の中に台頭して来た歴史の転換点とも言える大乱でした。因みに、初めて昇殿を許された武家はのは八幡太郎義家公です。f:id:rcenci:20260516103657j:image

後白河天皇を筆頭に伊勢平氏の棟梁であった平清盛公、公家では藤原忠通卿、源氏では源義朝が勝ち組となり、崇徳上皇、平忠正、源為義公が負け組なりました。勝利の要因は、正統な皇軍同士にも関わらず、後世に卑怯とも揶揄される後白河天皇側の夜討ちでした。此の夜討ちを提案したのは頼朝の父で有る義朝となります

破れて讃岐に流されてしまった崇徳上皇陛下です。(歌川国芳)f:id:rcenci:20260516103735j:image

今回主題の信濃秦氏は崇徳上皇側の陣営に参戦して大敗北を喫してしまいました。後世に鎌倉幕府崩壊から室町幕府に至った時と同じで、中央の争いは必ず諸国に明暗を分ける戦いを招きます。

白川殿に夜打ちをかける後白河天皇軍の絵が残されております。f:id:rcenci:20260516103820j:image

其の折の信濃秦氏の棟梁は秦能俊(はたよしとし)と言う人物でした。能俊公は配下と共に崇徳上皇のお側に仕えていた為、更科への帰参は叶わず、瀬戸内海を渡って土佐国長岡郡宗我部郷まで落ち延びたのです。秦能俊公は、掃討部隊が一族が住む更科への急襲を恐れ、当然信濃にも急使を走らせた事だと思います。

有名な土佐の桂浜です。秦能俊公も此の景色をご覧になっておられた事だろうと思います。f:id:rcenci:20260516103848j:image

土佐は東西と北の三方が急峻な山々となっており、オマケに南側は海が広がっており、当時は正に陸の孤島てした。また、此の地は古来より流刑の地でもありました。其の地に自ら飛び込むとは、歴戦の秦氏らしい選択だと考えます。

土佐に入った秦氏は、岡豊(おこう)と言う場所に城を築きました。写真は岡豊城跡です。f:id:rcenci:20260516103859j:image

岡豊(おこう)は現在の南国市にあたります。此の地を中心に勢力を広げていった秦氏は、やがて長岡郡宗我部郷の地名に習い、宗我部氏を名乗りますが、近隣に同姓の宗我部氏が居り、揉めた挙句に長岡郡の『長』を用いて長宗我部を名乗るに至りました。

岡豊城は土佐の此の位置に有りました。f:id:rcenci:20260516103910j:image

日本を二分する保元の乱の敗者側となってしまった秦能俊公ですが、後の偉大な長宗我部氏の基を此処に築いたのです。更科において基盤を築いた様に、土佐でも以後二十余代を数える家系の礎となりました。

土佐と其の周辺地域は穏健な信濃国更科とは違い、『土佐七雄』と称される程に強い国人領主達が存在し、歴代の長宗我氏棟梁は苛烈な激戦を繰り広げましたが、次第に両地を広げていきました。紙面の都合で此の辺りの御案内は省きますが、本当に凄い駆け引きと戦いだったのです。

関船です。f:id:rcenci:20260516103932j:image

また、後々の長宗我部氏は地元の海賊であった池頼和(いけよりかず)と言う国人領主に一族の女性を娶らせて味方に引き入れました。此の事が次に大きな飛躍に繋がります。

その後の長宗我部氏は厳しい戦いと共に繁栄を続け、長宗我部元親公の時代となり、天正3年には、最強ともくされた一条氏を打ち破り、日本史上初めて四国全土を統一する偉業を成し遂げたのです。

元親公の像です。大身槍を携えた勇壮な御姿ですね。f:id:rcenci:20260516103945j:image

其の偉業の原動力となったのは、一領具足制度となります。長宗我部家当主は、農民に大事な土地を分け与えました。そうして彼等に自分の土地(領地)を守る気概を持って参陣する事を促したのです。

僅かな給金のみの雇われ農民兵とは明らかに違い、一領具足達の戦いは、小さいながらも自らの領地を守る聖戦いだったのです。当時と致しましては、全く常識外の発想で画期的だと考えます。

ただ....一領具足の兵士達は後々に一部が粛清される事になります。余りにも酷い話なので此のブログでの御案内は控えておきます。

一領具足の碑文です。彼等は普段は農業に従事しながら、合戦の折は鎧一を身に纏い、槍一筋を持って戦いに挑みました。f:id:rcenci:20260516104002j:image

しかし、絶頂だった長宗我部家は、此の後に悲劇の階段を転げ落ちて行く事になります。まず、秀吉の大軍勢が四国征討に出てまいりました。

島津氏との連合軍で秀吉軍に立ち向かった戸次川(へつぎがわ)の戦いの折、長宗我部家嫡男である信親公が討ち死にしてしまいました。此の事が後の長宗我部家にとりまして、とても大きな痛手となりました。秀吉軍が九州に大規模に進出し、長宗我部家は其の如何ともし難い秀吉軍との兵力差に降伏したのです。

其の際に、多くの血と汗で勝ち得た阿波、讃岐、伊予を召し上げられ、土佐一国のみの領主となりました。
 
嫡男の死は稀代の英傑であった元親公を変えてしまったと、後世の歴史家の多くは其の著書に残しております。様々な凶事も重なり、最強家臣団の結束は乱れていきました。其の後はオキマリの家督継承問題です。家中の反対派が次々に滅ぼされて行く中、有力な家臣の離反が相次いだのです。

リーダーが配下に対して、疑心暗鬼に成ればなる程、自らの組織は乱れて行くものです。此の事は昔も今も全く変わっておりませんね。

長宗我部家の家系図です。弓月君の言う御方は秦氏が日本に来た時の棟梁とされております。

其の後、再起をかけて関ヶ原の戦いに西軍として参戦しましたが、ご存知の通りとなり、家康に改易させられてしまいました。f:id:rcenci:20260516104015j:image

一縷の望みをかけて大阪夏の陣に残った兵力で参戦致しましたが、此方も御存知の通りの結果となり、盛親公の五人の子も斬首され、此処に大名家としての長宗我部家は実質的に滅亡してしまいました。

私も信濃秦氏との繋がりを知ってからは、真田丸などの大河ドラマを見ても、長宗我部家の行く末に一抹の寂しさを感じておりました。

真田丸で長宗我部盛親公役を演じられた阿南健治さまです。f:id:rcenci:20260516104037j:image

其の後、盛親公の叔父である長宗我部親房公の系統などが現在まで其の血脈を繋いでおられ流そうです。更に末裔の方が一族の歴史を書き記した書籍も出版されております。此の書籍は私の探究に大いに役立ち、有り難く思っております。

土佐に秦能俊公が来てからの長宗我部家の歴史は、本来なら数冊の書籍にも及ぶ膨大な内容となります。其れをたった数行の内容で御伝えしてしまいました。長宗我部家の後胤の皆さまから大いにお叱りを受けそうですが、此の場を借りて心からお詫び申し上げます。


追記
私が大学生の頃、更科に帰省した際、父の蔵書をひっくり返して色々調べていたのですが、其の折に初めて信濃秦氏から長宗我部家へと続く系譜を知りました。其れ以来、かつて地域に富みもたらせた大豪族として、長宗我部氏に畏敬の念を抱く様になった次第です。