みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

更科でのキノコ取り

三連休で実家の母親の顔を見に参りました。金曜日は会社で表彰式があり、腹心の部下2人が参加致しました。1人は主任(課長代理)で、1人は3年目の女性社員です。本当に此の半期頑張って貰った我が支店の宝です。表彰状を受け取ってる光景を見ると胸が熱くなりました。その後の宴席も気分が良く、お酒も進み今朝の朝方は痛い頭と相談しながらの出発となりました。私が里帰りする場合は中央自動車道を更埴インターまで行けば時間的にも速いのですが、釣り師といたしましては台風明けの川が気になります。須玉でおりて清里、野辺山分を通り、峠を越えて佐久から五郎兵衛新田を抜け、望月に入り立科町を経由し平井寺トンネル越えのルートを選び好きなポイントを見て回りました。支流においては渓相こそ大分変わっでましたが、大きな変化は有りませんでした。本流は護岸のコンクリートが破壊されたり、何故かガードレールが川底に突き刺さっていたりで酷い事になっておりました。あり得ない高さに流木が絡まっていたのを見ますと凄まじい流れだった事が理解出来ます。行方不明の方を合わせると100人近い尊い命を奪った自然災害の恐ろしさを感じました。
色々見て回り実家には昼頃の到着となりました。此の休みは嫁いだ妹も遊びに来ておりました。食事をしている時に母親がキノコ取りに行こう〜との事なので皆で出かける事に成りました。通い慣れた山道を通り、現地に着いて入山したらビックリです! 沢山の栗茸が我々を迎えてくれました。時期的には遅いので栗茸狙いでしたが大正解です。母親も大喜びで『栗茸ご飯作る』と張り切ってます。

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栗茸の株


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これも旨そうな栗茸


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倒木によく生えてます


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木の隙間にも生えます

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ジナメコと呼ばれているキノコです


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これで半分、沢山取れました

餌箱の制作

やっと餌箱の胴部分が出来あがりました。此処からカシューを薄く何層にも塗り込みます。二回ほど薄く塗って三回目に10年以上国語辞典に押し紅葉していたペラペラの葉を貼り付けました。赤い紅葉の葉と緑の紅葉の葉を押花ならぬ押し紅葉しておりますが、破れたりして完璧な姿のままは稀です。乾くまで7日から10日掛かりますので完成迄は気の長い話になります。

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あと此処から7回〜8回塗り重ねて部品を取り付け完成です。中と外で交互に塗って参ります。丁寧に塗り重ねる事でシーズンオフに多少の傷なら目の細かい砥粉で磨いて1〜2回塗ったら綺麗になります。

決意の短刀拵え

綴るか否か悩んだのですが綴る事にしたので書き残します。私に取っては決意の印となる短刀拵えの話です。女々しい箇所も有るかと思いますが免じてお許し下さい。
平成24年の春に妻の乳癌が見つかり最寄りの病院で検査の後に手術致しました。術後一年弱で摘出場所に再度癌が見つかり再手術致しました。その後しばらくして妻の体に遠隔転移が見つかり化学治療を繰り返しましたが平成29年4月29日早朝に2人の娘に心を残して他界してしまいました。4月1日に次女の高校の入学式に妻は同伴したかったのですが、叶えられずに式後に病室を訪れた真新しい制服の娘に笑顔を見せていたのが今でも脳裏に焼き付いております。その後お葬式などで慌ただしく時は過ぎました。しばらくは家の何処に何があるのか?全く知らないので本当に困り、全て自分で整理するのに一ヶ月程掛かりました。15年程前に父親を亡くした時は、大きな傘が急に無くなった感覚を覚えましたが、妻の場合は更に強烈な表現出来ない程の大きな失望感でした。然し娘2人と信州更科に住まう母親と他県で暮らす妹夫婦と自分の職場の部下27名とその家族の為に意気地の無い事では全く前に進みません。其処で気持ちを切り換えるのは無理でしたが、行動を切り換えました。高校生の時に陸上部の恩師にキツイ練習で嫌になっても、『まずグランドに立つ事だ.....立てば体が勝手に動く』と教えられた事がその時は大いに役に立ちました。
然し....私が懸念した事は、今後私が死んで、娘達も嫁ぎ他家の者となり、娘の子供の代となったら、我が妻の事を誰も知らなくなって仕舞う事でした。そんな事だけは絶対に承知出来ません。其処である一つの方法を思い付きました。通夜や出棺前など最後の場面で妻の体の上で悪霊から妻の体を守ってくれた短刀に拵えを作ろう! 其処には妻の干支の目貫を付けて、小柄裏の平地に妻の名前と娘2人を立派に育てた事を刻み込んで後世に残そう!そしで娘2人に家宝として伝えよう!
 
思い付いたら速攻が私のやり方なので、以前より名前だけ知っていた大阪の刀身彫刻師に連絡を取り、妻の干支である猪の目貫を金無垢で誂える事と我家の家紋と妻の家の家紋を施した小柄と小柄の裏の平地に妻が今生において成し遂げた事を彫る様に依頼しました。鞘には私の家と妻の家が婚姻を結んだ証となる様に両家の家紋を蒔絵で施す事と致しました。無理難題にも大阪の先生は快く引き受けてくれました。一年弱の製作期間を経て出来上がったのが此の拵えです。
 

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黒漆潤み塗家紋蒔絵鞘合口拵え
 
 

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岩崎範光氏の手による金無垢猪図目貫
 
 

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岩崎範光氏作 赤銅魚子地家紋高彫小柄 
 
 

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小柄の裏に彫り込んだ銘文(申し訳有りません、名前の部分は画像より消しました)

 
刀身は岐阜県関市在住の藤原正明(本名は吉田研)刀匠の短刀です。平成4年に登録されており、私の入社年次と同じなので自分の守り刀として以前購入しておりました。 
 

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藤原正明9寸4分 身幅広く重ね薄く平造り 表に護摩箸 裏に腰樋 鍛えは板目肌 刃文は小沸出来で広直刃調に互の目足入る 鍛えに沿って金筋しきりに入る 帽子は突き上げて丸くかえる  総じて相州伝の造り込み
 
まさか我が妻の体の上に守り刀として置く事に成ろうとは全く持って夢にも思いませんでした。此の刀と拵えは娘2人の結婚式に帯びて妻の魂魄と共に2人の門出を見守ろうと考えております。当時に於いてお金をかける場所は此処では無いだろうという事も脳裏をかすめました。しかし妻が生涯をかけた娘2人の行く末を導く事と様々な事に対して私の決意の印として誂えました。

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餌箱の制作

台風19号の被害が時を経過する程に報道され、未曾有の大惨事である事が露呈しております。私の同級生の中にも被害を受けた家が有りました。命がけで雨の深夜に地域の半鐘を鳴らす為に滑る足元を顧みずに高い火の見櫓に登って住民を救った消防団の話も報道で知りました。あの高い千曲川の堤防を超える程の濁流を見てからの行動と知り、地域の消防団の深い結束と正義感に深い感銘を覚えました。全国から来て頂いてるボランティアの皆様に心から御礼申し上げると共に、改めて今回の台風で尊い命を落とされた方々のご冥福を心から御祈り致します。
 
 
9月5日のブログにも綴りましたが、友人から餌箱用にと譲って貰った古竹をカットしました。胴の部分ですが、上は指が入る深さを確保して、下は一節残して竹挽き用の鋸を入れます。沢山貰ったのですが下の部分から泥水を吸った物も有って合格は2つだけでした。周囲の肉を薄くするためにノミでカットしてサンドペーパーを掛ける作業を納得するまで繰り返します。機械があると簡単ですが、胴が本当の真ん丸だと胸の上で左右に転がるので微妙に緩急を付けます。そうなると機械で一気に均等に削る事は出来ませんので手作業となってしまいます。ところが此の作業は指が火膨れに成る程に大変なのです。
 

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写真を見るとご理解頂けると思いますが、コレでもノミの跡が残ってしまってます。再度ノミで削り跡を消しながらサンドベーバーを掛け、微妙な緩急を作り出してまいります。実釣を想像しながら釣道具を作るのは楽しいのです。然しなぎら親指火膨れ本番は此処からです。

買い物 懐剣

刀剣には様々な種別の中で懐剣というものが御座います。 別名守り刀とも懐刀(フトコロカタナ)とも申しまして、咄嗟の出来事から自身の身を守ったり、仕える主人を守ったり、辱めを受ける前に自刃用にしたりなど武家の女性が帯に挿しておりました。男性でも懐刀(フトコロカタナ)を所持するケースが多々有ったと書籍などで最近知りました。様々な書籍を読むと、武器としての一面より『御守り』としての帯びる事の意味が強かった様な感じが致します。懐剣は現在でも結婚式において新婦が白無垢着用時に必ず帯に挿します(自前で用意しない限りオモチャ)。私は祖母や母親の守り刀を見てますので我が2人の娘にも.....と常より考えておりました。後々此のブログでもご披露致しますが、上の娘の守り刀は既に有ります。仮に結婚式という事に成ると、其れは門出でもあるので一度新作刀として注文しようと考えました。そこで全日本刀匠会という組織に連絡し、好きな作風を説明し得意としている刀工を教えて頂きたい旨をお願いした処、受付の女性の方が親切に対応頂き、今は詳しい方が席を空けているので、後程折り返し頂けるとの事で待っておりましたが梨の礫でしたので諦めました。其処で2年ほど予算と相談しながら気に入った物が世に出てくるのを待っておりました。そんな中で今回ご縁のございました物は現代刀であります。作者は大正から昭和初期の代表的な刀工である室蘭の堀井俊秀刀匠が鍛えた5寸一分弱の短刀です。堀井刀匠は堀井胤明氏の門人となり、その腕と人柄を評価され堀井家に養子に入り三代目と成りました。愛刀家には三笠刀で知られる当時を代表する名工です。

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全体像


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銘 (改名する前の銘です)


三笠刀の由来は東郷平八郎元帥の指揮の下で当時世界最強バルチック艦隊日本海海戦に於いて見事撃破した連合艦隊の旗艦で三笠という戦艦が御座います。連合艦隊日本海海戦の少し前にロシア旅順艦隊と戦いました。此の旅順艦隊を撃破しないとバルチック艦隊と旅順艦隊で日本連合艦隊は挟み撃ちにされ、日本は負けるという瀬戸際だったのです。此の旅順艦隊との海戦を黄海海戦と言います。此の戦いで旗艦三笠は後部の主砲の一門を敵砲弾で破壊されました。その破壊された砲の残鉄を利用し堀井刀匠が玉鋼と混ぜて鍛え上げ、当時の水交社を通して世に出した刀剣類が三笠刀です。『皇国興廃在此一戦』の彫物が施された物も御座います。刀剣は勿論武器ですが古から高い精神性が同時に備わり、武器としての有用性と同じくらいか、或いは其れ以上に高い精神性を尊重されております。此の短刀は列位が上の新刀や古刀における著名刀工と比べたら美術的価値は格段に低いですが堀井刀匠の『人としての高潔さ』が強く感じられました。今回の短刀は三笠刀ではありませんが、間違いなく堀井俊秀刀匠(茎に切られている銘は前銘の秀明です)が鍛えた物と考えます。

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帽子


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保存刀剣鑑定書

専門用語だと次の様になります。平造り 庵棟 小板目肌詰んで柾に流れる 刃文は直刃 帽子は丸く品良く返る 刃縁に小沸付いて匂い口明るく冴える 表に腰樋を脛巾下まで掻き流し裏に護摩箸を彫る 茎は生 化粧に筋違い鑢で栗尻......此の事を娘に教えるのに時間がかかりそうです。

此の寸なら小柄な娘達の帯に挿してもサイズ的に問題ないと思います。その時が来るまで手入れを繰り返し、大事に保管してまいります。何れ拵えを制作しようと考えております。どの様な様式にするか? 金具類を探して小柄を付けるか? 出鮫の匕首拵えにするか? 楽しみが増えました。

正直に言うと此の様な形では無くて現金の方が娘は喜ぶに決まってますが、昔から続いた習慣ですので私が当主の内は伝統を引き継ごうと思います。愚痴になりますが当家では此の様な事も私で最後かもしれません。

台風19号

尊い命を失った方々のご冥福を心からお祈りすると共に被災者の皆様のご健康回復と一日も早い復興をお祈り致します。こうしている間も愛する郷里の皆様や他県の被災者の皆様が避難所で不自由な生活をおくる環境の中、心配な時間を過ごしていると思うと胸が痛みます。

10月11日から12日の台風19号は全く前代未聞の威力で関東甲信越から北陸を襲いました。 八王子に近い町田市に住んでる私も会社から戻ってから犬小屋など家の周りの物を全て玄関に仕舞いました。娘2人に着替えと大事なものを纏めて1つのバックに入れてリビングのテーブルの上に置くように指示して、ご飯を沢山炊いてオニギリを大量に作りました。お水とトイレットペーパーも押し込んで準備致しました。雨と風の中で外に何となく違和感を感じカッパを着て出てみると家の前の道路に泥と石ころが流れてました。なんだ?と思って家の前の坂を登ってみると家の上で土砂崩れが起きてました。

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夜中の崩落でした。


コレはエライ事だと娘2人を起こして直ぐに車に乗れる様にしておく事を指示致しました。外に消防の方が土砂を片づけておりましたので、話を聞いてみますと、水道管が壊れて土砂を巻き込んで大量の水が流れたが、今は水道管を止めたので雨の降る量しか流れてないとの事。その後雨足と狂風が継続してましたが、大きなサイレンの音がしたので再度外に出てみると上の現場が大きく崩落したと消防の方から伺いました。重機が上で動いているのは分かりましたが、現場がどうなったかは分かりません。雨と風が止んだので少し安心してソファーでうたた寝をして気が付いたら朝方でした。気になって行ってみると公民館上に通る道路がガードレール毎崩落しておりました。余りの出来事に唖然としておりましたが、作業を続けていた方々が泥だらけで必死の作業をしていおりましたので寝てしまった私が恥ずかしくなりました。地域の災害をこれ以上広げない為に頑張って頂いた皆様に心から御礼申し上げました。

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左側は水楢や小楢があり大丈夫でした。

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木の生えてない場所は無残な結果です。


私が産湯をつかった千曲川でも堤防が穂保地区で決壊し、濁流が住宅街に流れ込んでる映像がテレビで見ました。腸が口から出そうなくらい辛い映像です。穂保と言えば有名なアップルラインという通りがありますが、左右は林檎畑が存在し、千曲川は其の横の辺りです。どうか高い場所に逃れ無事であって欲しいと心から願いました。10月第1週に旅行に行った松城地域も冠水したとの事です。地域の皆様の心痛が伝わり、大自然に対して人間の無力を思い知らされております。だから往古の人々は大自然を神として崇めて来たのです。

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画像にある白い建物は松城ロイヤルホテルです。

私達渓流釣り師は他の人々より自然を理解している事が多いので、何か出来る事はないか?と自問自答しております。今後は急速に進む温暖化で今回よりも壊滅的な自然災害が来ると思います。今後は普段からの防災意識が必要不可欠ですね。

信濃国探索の旅 オマケ

誰が床几に座る信玄公を救ったのか?

三太刀七太刀の像についてですが、『甲陽軍鑑』と言う書物に出ている内容を基に此の像は造られております。実際にこれだけ大軍の将が一騎打ちとは考え難いのですが『甲陽軍鑑』は後世の規範と成った有名過ぎる程に有名なな軍学書であります。

甲陽軍鑑』によれば第4次川中島合戦において上杉謙信公と武田信玄公が一騎打ちと成り、白布で頭を包み月毛の馬にまたがった騎馬武者が床机にに座っていた信玄公を切りつけ、この斬撃を信玄公は軍配で受けた。横目衆である『原大隅守」は槍で馬を突いて危機を救ったと有ります。原大隅守は原虎吉と言い信玄公より感状を18枚も貰ってる大忠臣です。武功により信玄公より大隅守の官職を与えられております。横目衆とは家臣全体を監視したり、他国の事情を偵察したりする役目です。それだけ信玄公に信頼されていたと言う事ですね。さて此の原大隅守虎吉の執念の石なる大石が古戦場に存在しております。

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信玄公を守るために槍を振るった内容が書かれてます。


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謙信公をうち取れなくて悔し紛れに突き通した大岩です。


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一番右側にいる武将が原大隅守です。


真贋は別として『一念岩をも通す』と諺に御座いますが、正に具現化された歴史遺物です。岩の向こう側の景色が見えますね!此の穴の形状だと大隅守が振るった槍の形状は平三角槍でしょうか。


武田家の武将は個性的な人物が多く其々が独立的な意識が強かったと聞き及んでおります。信玄公のお骨折りは如何程のものか?と想像致します。戦国最強軍団がその集大成を迎えたのは三方ヶ原合戦であると大方の史家が伝えております。武将一人ひとりが知れば知るほど面白い内容ですね!

武田家には原性を名乗る武将がもう2人存在しております。その内の1人は鬼美濃こと原美濃守虎胤です。出自は桓武平氏である千葉氏の一族で父親と2人で武田信虎を頼って甲斐に入国し召し抱えられた経緯を持ちます。激戦の中で敵将を討ち取るなどの武功を積み重ねて美濃守の官職を与えられるなど大活躍致しました。合戦時においては敵方に鬼美濃の名で知れ渡っておりました。然し一度甲州法度に背き追放され、北条氏康を頼った事も有りました。しばらくして信玄公よりの復帰要請を受け甲州に戻った経緯も有るなど破天荒な一面も持ち合わせております。敵に恐れられた鬼美濃ですが、反面情に厚く、北条方に居た時の話で、虎胤が敵方の小荷台隊を襲撃し戦功を立てました。その襲撃で重傷を負って動けない敵兵がおりました。その者に対して虎胤は補給路を断つという本来の目的が叶った為に無駄な殺生は行わず、立ち去る事を強要したところ、相手は傷が深くて歩けないとの事でした。其処で虎胤は重傷の敵を担い、敵陣まで送り届け『また戦場で合間見えよう』と言い放ち自陣まで戻ったとの事です。此の事は敵方はおろか味方まで賞賛したとの逸話が残ってます。なんて豪胆な、なんて男らしい、なんと武人らしい、なんて華の有る話でしょうか! 私は此の武将が大好きです。

もう1人の原さんは長篠の戦いまで生き残った原昌胤です。美濃土岐氏の流れを組む武将で陣馬奉行を務めて功を上げ隼人佐の官位を拝領しております。信玄公と勝頼公に仕え長篠で散った英傑です。私の知る処では高名な原性を名乗る武田家の武将は前述の三人です。

原虎吉の横目付、原虎胤足軽大将、原昌胤の戦奉行。自軍の内情と他国の情勢の把握、一番に敵と戦う荒くれ傭兵部隊の統率、戦さ場での巧みな戦術的人員配置と退路の確保などは考えてみたら此の三武将でかなりの仕事をしていた事が窺い知れます。余計な内容だと思いますが好きな内容だけに綴ってみました。