みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

仕事の合間に見つけた大砲

私は神奈川県横浜市の営業所に勤務しております。横浜スタジアム迄歩いて2分の場所で有り、スタジアムを抜けると直ぐに中華街です。

先日馬車道商店街に有るお客さまの会社に訪問致しました。馬車道とは1850年代に開港した港町横浜の重要な場所です。明治には来日する外国船の停泊港と税関までの道が有った場所なのです。其の道を通る裕福な外国人が乗っていた馬車に因んで名づけられたと言われております。

横浜観光情報さまより
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そんな地に神奈川県立歴史博物館がございます。ちょうどパーキングの目の前に有ったものですから帰りにチョロっと寄ろうと思ってました。しかし商談が長引き博物館の営業時間を大きく過ぎてしまいました。

神奈川県立歴史博物館です。此の建物はどっちが表なのか実際に入ってないので分かりませんが、博物館の傍に私の目を釘付けにしたモノがありました。
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それは立派な大砲でした。俗に言われているカノン砲だと思います。此の時代の大砲を実見するのは初めての事です。
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角度を変えて撮影致しました。もの凄い迫力です。表面に酸化被膜が形成されているらしく錆の進行は止まっている感じがします。
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後ろから見るとこんな感じです。近くで見ると鍛鉄と言うより鋳物のような質感です。
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時代を判別する為にライフリング加工の有無が知りたかったのですが、発射孔にはゴムの栓のようなモノが詰まっておりました。思ってみれば当たり前の処置ですね。
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よく見ると台座に説明書きのプレートが埋め込まれておりました。
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説明書きによると此の大砲は帝政ロシア製の32ポンド砲であるとの事です。かつて横浜の外国人居留地でスイスの商社シーベル・ブレンワルト商会(1865年創立)と言う会社が営業しており、この大砲は同社の取扱商品の一つだったみたいです。やがて技術革新で大砲が新型に切替わる最中、使われなくなった此の大砲を船の碇(イカリ)に造り変えて、横浜に出入りする船舶に販売しようとしていたモノで有り、其れが関東大災による液状化現象で地中に埋まってしまったモノであると明記されておりました。船の碇に造り替えると言っても砲身の形状を造り変えるのではなく、鉄の鎖を足しただけの様な気も致します(笑)。

私の蔵書である六一書房さんの『大砲の歴史』によると、火薬を用いて弾丸を発射する大砲が現れたのは中世になってからと有ります。其れはチャイナの南にある寄州で開発された実火槍であったとされております。ただこの時はまだ砲身が木材だったようです。

それから73年後の西暦1332年にはモンゴル帝国より派生した元において、砲身長35.3センチ、口径10.5センチもある青銅製の大砲が製造されました。其れがモンゴル帝国のバトゥ将軍の遠征によってヨーロッパに伝わったのです。故に大砲はアジアで発明されて欧州で進化を遂げたモノとなりすね。

話は戻りますか、ちょうど此の大砲の前に道路を挟み横浜で創業50年の老舗お蕎麦屋さん『味奈登庵』さんが有ります。博物館に入れなくてイジケていたので久しぶりに入り、名物富士山盛りを頂いてまいりました。

20何年ぶりに富士山盛り食べましたのでお腹がはち切れそうです。むかし横浜で富士山盛りを食べていたのは30歳代前半、今は50歳半ばです。おバカな挑戦でした。
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