みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

夏休みの思い出 信州小布施北斎館

もう1カ月以上前の事ですが、夏休みに小布施に行ってまいりました。小布施は同じ信州なのですが、更科の自宅からは車で1時間程離れております。栗と葛飾北斎で有名な場所となります。

名古屋に勤務している下の娘も帰省しており一緒でした。目的は葛飾北斎の作品を展示している『北斎館』です。今回下の娘に日本が誇る葛飾北斎を知って欲しいと言う願いも有りました。

まずは花より団子の娘に小布施の栗の味を知って貰う為に老舗和菓子店の小布施堂の朱雀モンブランを食べさせました。巨大なモンブランを前に娘は大喜びです。
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母は豪華な栗餡蜜です。私も栗最中と渋茶を頂きました。
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さて本命の北斎館ですが、ご案内する前に少し葛飾北斎の事についてお話しさせて頂きます。詳しく説明すると五回シリーズくらいになってしまうので省略してご案内します。

北斎は現在の墨田区の貧しい家に生まれました。北斎は何回も名前を変えておりますが、親から付けて貰った最初の名前は時太郎と言います。その後鏡師に弟子入りしましたが続かず、貸本屋にでっち奉公したのです。その後は浮世絵師の勝川春章に弟子入りしました。つまり勝川派として浮世絵の世界に入ったのです。しかし、その後は兄弟子と反りが合わずに辞めてしまい、結局は厳しいながらも独立致しました。やがて時代は天保に入り、徹底した倹約令で有名な天保の改革となります。浮世絵は天保の改革では要らざる物でした。そこで北斎は懇意にしていた信濃小布施の大富豪である高井鴻山の招きによって信州小布施に居を移したのです。こうして北斎は自然に囲まれた桃源郷の様な信州小布施にて多くの傑作を残しました。

当地の古刹である岩松院本堂の天井絵『八方睨み鳳凰図』です。北斎生涯における大作ですので、お近くに行かれたら是非お立ち寄り下さい。
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最近NTT東日本が『八方睨み鳳凰図』を高精細デジタル化する事に成功致しました。流石に日本の誇りとも言える天下のNTTですね。この鳳凰は左右上下何方から見ても鳳凰と目線が合う不思議な絵なのです。
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北斎の絵浮世絵版画は様々な画家に影響を及ぼしました。まず、北斎の浮世絵を一番作風に取り入れたのがゴッホでした。此の事はゴッホが弟に送った手紙から読み解けます。そして鮮やかな光を求めた印象派で有名な『マネ』や『モネ』、また『セザンヌ』などにも強い影響を与えております。

実質的にゴッホが若い印象派の若い絵師に北斎の凄さを伝えた形です。考える人で有名な彫刻家のロダンも其の一人です。更に音楽家ドビュッシーなどは今回新札になった神奈川沖浪裏から発想した曲を作っております。個人的にドビュッシーは好きな音楽家だったので友人から聞いた時には驚きました。

此方が北斎館に展示されている神奈川県沖浪裏です。因みに此れは浮世絵版画と言って版元の注文により北斎が絵を描き、其の絵を元に彫り師が原版を彫り、絵付け師が仕上げる流れで刷り込まれたモノですが、世界で200枚程残っていると言われております。其の一枚が2017年にニューヨークで行われたオークションで1億円で落札されました。私のお馬鹿な発想ですが、此方が一枚しか無い肉筆画なら単純に200億円の価値という事です。
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長くなって申し訳有りませんが、浮世絵版画が海外に伝わった意外な事象をご案内致します。

まず、江戸時代に唯一海外との窓口が存在した長崎の出島に熱烈なコレクターが存在し、彼等から自国に伝わったと言う流れと、時代を経て明治政府の重要な外貨獲得の手段でもあった有田焼などの磁器を海外に船便で運ぶ際に梱包する木箱の緩衝材として浮世絵が使われていたのです。

え? っとなりませんか?

勿論当時はプチプチなど有りませんし、新聞紙も有りません。此れは浮世絵版画が当時の日本国内において重要視されていなかった事を現しております。明治初期となれぼ所詮時代遅れの大量生産品だったのです。北斎が活躍していた時期における浮世絵版画の国内価格は3文ほどから販売されており、特別な大判や連番なものでも20文くらいでした。今の金額に合わせると60円〜400円です。驚く事に明治期になると安価な物はゴミ同然だったのです。

海外の受取人が品物を受け取り、クシャクシャになった紙を広げてみたら、其処にもの凄い芸術品が描かれていたのです。高額な磁器や尾張七宝などを求めたのは海外の資産家であり、美術品に目が肥えていたのでしょう。ジャポニズムの始まりです。

更に1867年のパリ万博では日本のブースで着物を着た若い美人が働いている姿を海外の方が見て、浮世絵に描かれている女性達は日本に実在する人達であり、ファンタジーではない事に驚愕したと言われております。今だに『芸者』は大人気ですね!

皮肉な事に日本は西洋文化の取り入れに躍起となり、国内の古い浮世絵は廃れていったのです。しかしパリに留まりジャポニズムを広めた悲運の功労者である林忠正の活躍によって北斎の浮世絵は世界に確固たる地位を築きました。西洋に認められると国内で新たに見直される流れは少々面白く有りませんが今も残る事象ですね。

北斎館さまには多くの版画や肉筆が収蔵されてますが、何点かご紹介させて頂きます。まずは富嶽三十六景のうち3点ご紹介致します。

富嶽三十六景の凱風快晴(赤富士)です。シンプルな構図ですが、何故か見る者を惹きつける力が備わっております。
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富嶽三十六景の駿州江尻です。現在の清水の辺りの光景ですが強風が吹き荒れる街道として有名でした。左の女性は菅笠と懐紙を吹き飛ばされてます。凄い表現力だと感じ入る事しきりです。
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富嶽三十六景甲州石班沢です。石班沢(かじかざわ)とは山梨県南巨摩郡富士川町辺りです。漁師が投網を投げてますが、漁師と投網と富士の織りなす三角の構図がとても斬新です。
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また、北斎は『橋』をよく描きました。 諸国名橋奇覧から2点ほど紹介致します。

諸国名橋奇覧 足利行道山くものかけはしです。現在の足利市の山中に建つ浄因寺と茶室である清心亭へ架かる橋は、簡素であり天空に架かる橋の様です。しかし北斎の意図として山の下から巻き上がる一条の雲を、もうひとつの橋として表しています。う〜ん....恐れいりました。
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諸国名橋奇覧 ゑちぜんふくるの橋です。柴田勝家越前国に架橋した九十九橋です。前景に人々が往来する橋を描き、遠景の河岸には大量の板を立て越前和紙の職人たちが紙を乾かしている光景が描かれております。
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最後に肉筆画を2点ご紹介させて頂きます。

ニ美人と名付けられた北斎美人画です。立ってかんざしの具合を確かめる花魁と其れを見上げて何やら微笑んでいる花魁の構図がなんとも言えず安心感が有ります。此の鮮やかな赤色は此の時期の特徴です。此の頃に北斎の三女だった葛飾応為が嫁ぎ先から追い出されて戻っていたのかは私の知らざるところです。
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生首の肉筆画です。北斎北斎漫画と言う大作を残してます。人間をはじめ動植物の構造から湧き出る様々な姿を描いている大作です。此方も恐らくは人体構造を突き詰める為に描いたものかも知れません。何時も様に何処と無く温かみを持つ北斎の絵とは一線を画す忠実な模写に鬼気迫る迫力を感じます。
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最後までご覧になって頂き有難く思います。巨匠葛飾北斎嘉永2年の春に90歳で病没致しました。北斎が最後に残した求道者たらん言葉をお伝えし、終わりたいと思います。

『後五年生きさせてくれれば、俺は本当の絵師になれるのに』