木曽川水系八沢川の横を通る道路沿いに此のような案内板がございます。実は美しいイワナやアマゴが釣れる木曽の八沢川沿いには亜細亜が誇る巨匠が一時期情熱を費やした場所が有るのです。今日は其の偉人の話となります。
昔小学館のビッグコミックに『天空の弦』と言う漫画が連載されておりました。其の天空の弦の主人公は陳昌鉉さんという方です。上の写真は其の陳さんが若い自分に苦労して技術を習得した地への案内板なのです。
此方が天下の弦の第1巻です。陳昌鉉さんと言う在日韓国人の半生を題材として描かれたおります。
失礼にあたる言い方でご親族様には申し訳ありませんが、陳昌鉉さんは韓国の貧しい農家のお生まれです。大東亜戦争中に日本に留学し明治大学を卒業され母国の英語の教師を目指しますが、母国は動乱の最中で帰れませんでした。其処で日本で英語の先生になろうとしましたが、国籍条項が存在し陳氏は韓国籍に為に叶いませんでした。
その後信州上田出身であり、日本の宇宙開発の父であり、国内有数のバイオリン研究家でもある糸川英夫博士の公演を聞き、其の中で糸川博士の『名器ストラディバリウスの再現は不可能である』と言う言葉に触発されバイオリンの制作を志したのです。ところが韓国人である陳氏の弟子入りを当時のマスター達は見送りました。此の時に陳氏は露骨な差別や偏見をストラディバリウス再現と言う夢の為に乗り越えてみせると心に誓ったと言われております。
そこで陳氏は当時日本有数の弦楽器生産地であった木曽福島の八沢川沿いに丸太小屋を建てて移住し、バイオリン製造工場への就職を試みましたが叶いませんでした。しかし強い信念の元に木曽川で砂利を取って生計を立てながらバイオリン造りを習得致しました。当時の木曽では弦楽器の各パーツ毎の分業制であった為に其々の工人達から教えて貰ったのです。此の事を思っても木曽の方々の優しい心情が伺えますね。陳氏は木曽で生涯の伴侶である李南伊さんと出逢い結婚したのです。
その後に行商に行った東京で桐朋学園教授でバイオリニストでもある篠崎弘嗣と出会い、其の才能を開花し調布市に工房を構えました。その後も意欲的に研鑽を積み重ね、自らが製作したヴァイオリンなどが『アメリカ国際ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ製作者コンクール』において6部門中5部門で金賞を受賞したこです。此のコンテスト始まって以来の快挙に世界中が湧きました。そして陳氏は東洋のストラディバリウスと称されたのです。
コレが『天空の弦』において、東洋のストラディバリウス誕生の瞬間の1コマです。正直泣けました!
どちらかと言うと、自他共に認める極右の私ですが、陳昌鉉氏の生き方に大いに共感し心から尊崇の念を抱いております。私の本棚には今でも『天空の弦』全10巻が有ります。
また陳さんは平成16年に木曽町に自らが製作したバイオリン『木曽号』を贈呈しております。写真は有名演奏家によるバイオリン魂いれの式典です。
2012年に木曽町は陳昌鉉氏の記念碑を建てました。駐日韓国大使と当時の木曽町町長である田中勝己氏が除幕式を取り行っております。釣り師の皆さんは直ぐにお分かりかと思いますが、行人橋上流の道沿いに足湯の有る場所です。
其の銘文は『懐かしきかな木曽福島 我が青春の夢のあと 朝な夕なに仰し木曽駒 八沢川のせせらぎに夢をみる 玉石の輝く日を』と有ります。陳氏は川底の玉石を自らに例え、やかては必ず輝けるように努力する事を木曽駒ヶ岳に誓っていたのだろうと思います。
私の得意ポイントは八沢川出会いからの本流上流部ですので川から上がる際に此の記念碑は良く見かけますが、その度に地元の皆様の温かい御心を感じる次第です。
陳昌鉉氏は平成24年5月13日に調布市の自宅で82歳の生涯を閉じられました。現在の工房は2人の息子さんが後継者として工房を引き継いでおります。改めて偉大な東洋のストラディバリウスに合唱させて頂いた次第です。
追記
私も天空の弦を読んで知ったのですが『ストラディバリウス』とは父親のアントニオ.ストラディバリと2人の息子が造った弦楽器をさします。単に『ストラディバリ』だとアントニオ.ストラディバリ個人をさします。