お盆の大整理の折、古い埃だらけの桐箪笥の小引き出しの奥に、同じく埃だらけの古布に包まれた杉材の小箱を2つ見つけました。
蓋を開け、緩衝材の綿を退けてみると、蓋の裏には『〇〇家兜仏』の筆書が有り、中には小さな古銅製と思われる仏像が其々一体づつ入っておりました。本日は此の仏像の話をさせて頂きます。
其の小さな仏像とは此方です。高さは3.7cmと3.6cmです。失礼ながら私の手のひらで撮影させて頂きました。
かなり昔の話ですが、父が『うちには先祖が兜の中に入れていた兜仏が有るぞ』と言っておりました。父が他界した10年程後に、思い出して探しましたが、見つからなかったのです。今回見つかった仏像は、正に其の『兜仏』でした。
私なりに調べましたら、特に戦国時代に武家の信仰として広まったようです。兜仏は武者が兜の中に忍ばせていた都合で、此れ程迄に小さく造られているようです。
此方は千手観音像です。我が家の男子は子年生まれが多いと聞いておりますが、千手観音さまは子年生まれの守り本尊です。特に災難除けと延命にご利益が有ると言われております。
此方は八幡大菩薩像です。当時は神仏習合の時代である為、八幡神と菩薩を習合させておりました。八幡神とは一般的に応神天皇を指します。像を仔細に見ると戦神らしく、弓と矢を携えているのが分かると思います。
後ろを見てみると、千手観音像の方はノッペリしており、八幡大菩薩像の方は細部まで細かく彫っております。不勉強ながら刀装具に些かの趣味を持つ者として、細かい細工をしている方が時代は若い傾向が有ると分かります。つまり千手観音像の方が時代が古い物となります。
ご参考までに、此方は石川県指定の有形文化財である真言宗明泉寺さまの千手千眼観世音菩薩です。26年ほど前に縁有って一度訪れた事が有りますが、北陸でも指折りの古刹で有り、永い歴史を感じたのを覚えております。
此方は私が所蔵している掛け軸に軸装されている八幡大菩薩の絵になります。弓と矢を携えておられる御姿が特徴となります。那須与一が『屋島の戦い」で、小船に掲げられた「扇の的」を射落とした折に『南無、弓矢八幡大菩薩』と唱えたシーンは有名ですね。
我が家には父から受け継いだ切り込み跡が残る鉄錆地の二十四間筋兜と黒漆塗の八間筋兜が有ります。錣の小札を結ぶ皮の緒が千切れてボロボロになっており、始末の悪さが恥ずかしく撮影はやめておきました。果たして此の2つの兜に件の兜仏が収められていたかは定かではありません。
現在は白衣観音(びゃくえかんのん)様の側に安置させて頂いており、御神酒と塩をお供えしております。この後、寸法に合わせた専用の桐箱を購入したら、知る限りの覚え書きを添え、元箱と共に保管するつもりです。
此の『兜仏』を兜の鉢内に秘めて合戦に赴いた益荒男が、本当に我が家の御先祖さまなのかは、我が家の姓が記された『〇〇家兜仏』と言う箱書き以外の資料が見つからず実際のところ確定出来ません。
我が家の先祖の事は、この際置いて考えても、兜仏自体が江戸期に入り、島原の乱以後急速に廃れた事を考えると、既に400年近くは経過している仏像となります。
家名を護る為に命懸けで戦った武人の心の拠りどころで有った事は間違いなく、歴史的な遺物である事も重ねて間違いないと考えます。

兜の中に崇敬する御神体を秘めて命懸けの合戦に挑む武者の姿を思いながら、此の小さな仏像を見つめていると、実に荘厳な御姿に思えてまいりました。果たして此の武者は戦場の露と消えてしまったのか、其れとも生きて生家に戻ったのか....。今では知る由も有りません。
今後は私が命有る限り大切に保管し、諸々の品と合わせて由来を記し、確りと次の世代に伝えて行こうと改めて決意した次第です。