みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

趣味の萩焼

趣味が多過ぎるのも困ったものですが、家族の影響を強く受けた趣味は50歳を2つ過ぎた今でも続いております。まず祖父が刀剣商でしたので様々な品が家に存在し多分過ぎる程に影響を受けました。また祖父は大の川魚好きであり、私が夏の夕方に毛鉤で魚を釣り上げて帰ると本当に大喜びでした。父は能楽師であると共に大の歴史好きでしたので大概の事は父から学ばせて貰いました。祖母と母は器に深い造詣を持ち、お客様が来訪した日など特別な日の食卓には鮮やかな蒔絵が施された漆器やお気に入りの陶磁器でお客様をもてなしておりました。季節の花を大きな水盆に飾り、其の場に合った軸を掛ける時に父と楽しそうに話していた姿が思い起こされます。そんな関係で私も其れ等の分野に多分に影響を受けているのではないかと勝手に考えております。なかでも陶磁器への興味は社会人になってから岐阜県多治見市に実家を持つ同僚の家に遊びに行ったのですが、同僚のお父さんが生業としている絵付け師の仕事を通して焼き物の歴史を聞いてからでした。刀は鉄と火と水を使い、焼き物は土や陶石と火と水を使いますが、どちらも自然の力を作者が引き出して製作されるところに強い魅力を感じます。

今回は私が気に入って買い付けた萩焼を2点ほど紹介しようと思っておりますが、その前に萩焼の歴史をご案内致します。秀吉によって朝鮮への出兵が行われ、多くの大名と共に朝鮮に渡った毛利輝元公が最初の文禄慶長の役から帰国する時に朝鮮の陶工である李勺光と言う方を自領に招き、少し後に弟の李敬も招きました。その後の2人は関ヶ原の戦いに敗れて領土を削減された輝元公と共に安芸から長州の萩へ移り、萩の松本村に藩の御用窯を開いたのが萩焼の始まりと言われております。

近所にいた茶道に通じた仲間に『萩焼の抹茶椀はテーブルの上に置いても其れなりに良いけど、畳の上に置いて濃茶を注いだ時の色の冴えを想像しながら見たら良いよ』と教えて貰いました。そして萩焼の面白いところは『萩の七化け』と言われ、使うほどに貫入と言われる細かいヒビから茶渋が入り器の景色が変化していくとも教えてくれました。実に日本人らしい物を大事にする話だなと感じた次第です。萩焼には色々な種類が有りますが、私の好きな物は『琵琶色』と言われている肌です。

十五代坂倉親兵衛作 萩茶碗

高台です。

光を落とすと落ち着いた雰囲気が出ます。

坂倉家は毛利輝元が連れて帰った李兄弟の兄方の家系であり、6代目から『坂倉』を名乗ってます。

こちらが共箱になります。

守繁栄徹作 萩蕎麦茶碗  蕎麦茶碗とは蕎麦を食べる茶碗では無く、半島から伝わった元々の茶碗の色が蕎麦の色に似ていた事からの呼称です。

此の琵琶色に惚れました。

高台です。

栄徹氏の銘です。

仕覆(しふく)を被せました。

共箱です。

二つ目の茶碗の作者は1967年に開窯した萩焼窯元 蓮光山の守繁栄徹氏の作陶です。買い付けてから時が経過し、FBで栄徹氏のお子様である守繁徹氏(現当主さん)が大学の先輩にあたる方だと知りました。そして少しの時を経て刀友の一人が山口県宇部支店に転勤になったのです。地図で宇部市を見てみますと宇部市萩市は近いでは有りませんか! 私の見た地図では5mmくらいでした(笑)。向こうも単身赴任なので気軽に連絡を取り『萩市の守繁先輩の窯元まで行ってくれ』と住所を送ったのです。地図では5mmでしたが実際には1時間半かかる道のりを刀友は快く向かってくれました。ちょうど萩焼の湯呑みが欲しくて探しておりましたのでタイミングピッタリだったのです(刀友よゴメンなさい)。お店に到着した刀友から色々な作品の写メが送られて来ました。そして最終的に私が選んだのは此の湯呑みです。

守繁徹先輩作の湯呑みです。

この土色が堪りません。

緑茶を入れてみました!

共箱です。

窯元に着いた刀友君を案内してくれたのは徹先輩の息子さんであり、息子さんも本学を卒業されたとの事でした。後日私宛に送られて来た品の中には購入した湯呑みの他に本学の学友会で製作されたと思われる湯呑みも入っておりました。お礼の電話をしようとしたら守繁先輩から逆に連絡を貰い、窯焼きで手が離せなかった為に当日は不在であった旨をお伝え頂きました。守繁先輩に心から感謝の言葉をお伝えし電話を切ったのですが、何とも言えない温かい気分に成れました。会話の中で守繁先輩は私が後輩にも関わらず『まだまだ精進している身なので....』と仰られた事が強く印象に残っております。