みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

信濃の英雄 旭将軍木曽義仲公 『番外編』

裏切り者であるのが?
大勢が見えた英邁であるのか?
明らかに天からの役割を持っていた漢
源三位源頼政の事を
どうして書きたくて.....

皆様は私の稚拙な文中に出て来た源頼政について、どう思われましたか? 私の記述が下手で悪者になっちゃっているかも知れません。実際にどうだったかは個人の感覚によるところですが、この時代は裏切りと言っても、其れは一家を滅ぼさない為の大事な選択だったのです。信州ですと表裏卑怯と言われた真田昌幸が散々周囲を裏切りまくった挙句に親子が敵味方に別れて戦って家名を残しました。武田信玄は同じ新羅三郎義光を祖とする同族を次々と滅ぼし蹂躙して英雄に成りました。当時における武家の頭領が真っ先に考える事は自分の一族の安泰だったのです。


源頼政は保元.平治の乱では優れた先見性で勝利者側についておりました。平治の乱では結果として同族を裏切った形です。しかし源頼政が最終的に以仁王を口説いて平家追討の令旨を出させた事でその後に源氏側が勝利したのです。頼政は77歳にして最後に源氏の為に動き、戦って見事に討ち死にを遂げました。

頼政の出自を少しご案内しますが、八幡太郎義家公から継続する河内源氏嫡流源義朝でした。其れに対して頼政摂津源氏です。弓馬の道と言うよりは風雅な都人と言う感じの一族なのです。河内より摂津の方が今日の都に近い為だったかも知れません。実際に摂津源氏は有名な藤原道長の時代から摂関家に一族の女性を送って婚姻関係を結んでおりました。ところが公家化した摂津源氏でも頼政だけは武張った場面と歌人としての雅な一面をあわせ持った不思議な武人だったのです。

源頼政 wikiより
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源頼政と言えば真っ先に出てくる伝説が鵺退治(ぬえたいじ)です。平安時代近衛天皇が夜になると突然苦しみ出すと言う凶事が起こり、公卿達は原因を探っておりました。高僧に祈祷をあげさせたのですが、天皇の苦しみは続いておりました。やがて判明した原因は天皇が居る東三条殿の屋根に丑の刻になると黒雲が巻き、黒雲の中で鵺(ぬえ)が吠えていると言う内容でした。そこで鵺退治に選ばれたの武人は、弓の名人である源頼政だったのです。頼政の弓は『雷上動』と言う名弓であり、頼政から遡る事四代前の源頼光から伝わる家宝でした。また『水破』と『兵破』と言う矢も同じく伝わっております。二つの矢は文殊菩薩の瞳から作ったと伝わる矢であり、『水破』は矢羽に黒鷲の羽を用いていおり、『兵破』は山鳥の羽を矢羽に使っていたとの事です。源頼政が家伝の名弓と文殊菩薩の化身と言われている矢を放って見事に鵺を射抜いたと伝わります。 
 
鵺 wikiより
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近衛天皇は大いに喜び、頼政に『獅子王』という宝刀を授けました。コレは現在でも残っており、歴史を具現化した名刀として語り継がれております。源頼政は鵺退治は二度行いました。もう一回は二条天皇の時ですが、この時も見事に鵺を仕留めたと言われております。

獅子王  wikiより
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大和伝の名刀である獅子王は日本の重要文化財です。現在は上野の国立博物館に所蔵されてます。無名の太刀ですが、元々神社仏閣に納める刀剣や身分の高い人に献上する刀剣には銘を切らないのが慣例でした。因みに刀剣の茎(なかご)に銘を切るようになったのは701年の大宝律令で定められたからだと言われております。

黒漆太刀拵え 此方も重要文化財です
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和鐵で鍛え上げた太刀は千年を超えて残りますが、木材と漆で出来ている弓は経年には勝てずに残っていないのが残念です。因みに神社に奉納した大鎧などは緒や革紐などを修復をして現在まで国宝や重要文化財として伝わっている名品もございます。またこの時代の兜は鉄の板を鋲で止めて何枚も重ねて強度を上げる構造になっており、鋲を『星』と表現して星兜と言います。現在ジェット戦闘機などの圧力隔壁は、何と此の構造と同じ造りなのであります。日本人の叡智の凄まじさが伝わる事例のひとつでね!

星兜 『信濃の甲冑と刀剣』より
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ジェット機の後部に位置する圧力隔壁 wikiより
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この位置にあります。
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また頼政歌人としても有名でした。まず自撰と言われる『源三位頼政集』がごさいます。鴨長明にも『今の世には頼政こそいみじき上手なれ』と称賛されております。鴨長明下鴨神社禰宜さんの子として生まれ、若くして古今の和歌に精通し、優れた和歌を多く創り出し、和歌所寄人と言う官職に選出された大家です。

多くの合戦に武人として活躍し、歌人としての地位も合わせ持ち従三位に叙せられただ程の頼政が何故に無謀とも言える合戦に挑んだのか? 平家の知盛や重衡の大軍勢と戦ったのは何か隠し球が有ったのか? 最後は先祖の威徳を考えて行動に出たのか? 色々な歴史学者が自説を述べておりますが想像の域を脱っしません。

下記は自害の前に詠んだ歌です。

『埋れ木の 花咲くこともなかりしに
身のなる果は哀れなりけり』

意味
年老いて既に埋れ木のような自分は、此処から花の咲く様な嬉しい事など有るはずも無かった 其れなのに自分が兵をあげて、このような結果になってしまった事が今から思うと悲しい。

客観的に歴史の事実だけで言うと、源頼政が行動を起こさなかったら木曽にも令旨なんて絶対に届かず、頼朝公も政子と結婚はしたかも知れませんが、平家に合戦を挑むなんざ絶対に無かったと思います。そう考えると裏切りも含めて源頼政は天命を持って生まれて来た事に成りますね。上の歌も、私の稚拙な意味の解説も含めて、源氏の血脈が成せる技とでも申しましょうか、無意識のもとに天命を全うし、結果として敗れたようにも捉えられます。


番外編にお付き合い頂き
有難うございました。

次に続きます。