みすゞかる 信州の釣り人

体重0.14tの釣り師ですので目立つのが悩みです。 今までは写真を撮って釣行日誌としてましたが今後はブログとして趣味の歴史探索や刀剣も含めて綴ってみます。

帰郷 途中の休憩地と由来

昨今の事情により年末は更科の実家に帰る事を諦めました。当然ですが更科における氏神様への『二年参り』と家族揃っての『お年取り』も行わない事となります。更科に生まれて大学進学で東京に出て今に至りますが正月に更科に居ない事は初めての事です。しかしご先祖様や妻と息子が眠るお墓にだけはお参りしたくて先週土曜日に帰郷致しました。お参りの後はトンボ帰りでしたが母親から沢山の手料理を持たせて貰いました。母親はいつまでも母親であり、とても有難い事でした。今回は更科までの行き方を少し変えました。本来なら中央高速道で諏訪まで行って長野道に入り更埴インターで降りるのですが千曲川が気になってしまい須玉インターで降りて川上村経由で更科に向かったのです。

八ヶ岳は雪化粧をして美しい荘厳な容姿に変わっておりました。
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ついでに色々な沢を見て周りましたが無事を確認致しました。しかし本流においてはシーズン中に河川改修が終わってない場所に巨大なショベルカーが入って絶賛工事中でした。少しガッカリして無料の中部横断道から関越に乗り、更埴インターに向かいましたが思う処有って一つ手前の坂城で降りました。国道18号を長野市方面に北上すると右に葛尾山が見えてまいります。葛尾山の麓には沢山のお弟子さんを育てた信州が誇る人間国宝故宮入行平刀匠の鍛刀場があり、現在は刀剣類を展示する鉄の展示館と成っております。そして国道沿いに流れる千曲川の対岸に綺麗な三角錐型の岩井堂山が見える場所に小さなパーキングが有り、この場所が『笄の渡し』と言う小さな戦国時代の悲話が有った場所なのです。何度も寄った事のある場所ですが何となく惹かれて此の小さなパーキングに車を止めました。

少し前には此の看板がございます。
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その前に村上義清公と武田信玄公の話をしなければ成りません!どんなに要約しても長くなってしまいます(ホントニゴメンナサイ)。
村上氏の始まりは清和源氏である河内源氏の初代源頼信庶子である源頼清を祖とします。鎌倉時代は幕府の御家人でしたが承久の乱後鳥羽上皇に味方して干されました。その後足利尊氏公が征夷大将軍を名乗り後醍醐天皇側と衝突し、後醍醐天皇側の武将であって一緒に北条氏と戦った新田義貞公と戦う事となりました。此の戦闘において村上信貞が武功を上げ家を再興しました。後裔である村上義国以降は北信に勢力を置きました。戦国大名としての村上氏の実質的に最期の頭領で当時信濃国最強の男が村上義清公なのです。地域には千曲川を挟んで一族及び家臣団の城が多く有りました。大河ドラマ真田丸で俳優の西村まさ彦さんが演じた室賀正武も村上氏の縁戚です。真田丸では『黙れ小童〜』と若かりし頃の真田信之が発した言を一蹴する面白いシーンがございました。

信濃国は守護が小笠原氏の他、足利尊氏に任命された信濃総大将と言う官職を村上氏が拝命していた経緯がございました。室町幕府初代将軍からの拝命なので其の後も効力抜群でした。では本題ですが何故村上義清公は強いと言われたかと申しますと戦国最強の武田軍団を2度までも撃退した事が由来です。
甲斐国の横には駿河国及び遠江国守護大名である今川義元公、相模国を領した北条氏康公が居たおかげで甲斐の信玄公は領地を広げるために反対側の信濃国に出兵するしかありませんでした。平賀氏や大井氏、笠原氏、小笠原氏、諏訪氏、滋野一族などとの戦い勝利し、残る北信の地を制する為には当時信濃最強の村上義清公と戦うしかなく、両勇はやがて激突する事となりました。両者が最初に激突したのは天文17年の上田原の戦いです。此の戦いで信玄公は板垣信方甘利虎泰重臣二人を失い数多の戦死者を出してしまいました。此の戦では義清公の相手の思考を読み取る力と家臣団の強い結束力及び地の利を生かした戦術が甲斐の若虎を退けたのです。もう一つは天文19年に行われた砥石城攻めでの負けです。此の負け戦は余りにも見事な負けっぷりで砥石崩れと名付けられ武田家に伝わります。砥石城跡地に登った事のある私が感じた事と致しまして、この城は山と崖に囲まれており、攻めるとしたら砥石のような崖しかないというとんでもない城であり、どうする事も出来ない難攻不落の名城でした。当時の籠城兵は500人、対する武田軍は7000人で戦っておりましたが如何ともせずに攻めあぐねておりました。そんな中で武田軍にとって大変な事態が発生するのです。今迄高梨氏と戦っていた筈の村上義清公が急に高梨氏と和睦して駆けつけて挟み撃ちに転じるとの急報が入りました。元々義清公と高梨一族が合戦している隙に砥石城を落とす作戦だったので話は違って来たのです。甲斐からの行軍と砥石城攻めで疲れている武田軍は撤退を余儀なくされました。撤退する武田軍を義清公率いる精兵2000騎が襲ったのですから武田軍はたまったもんじゃありません!此の戦いでは信玄公自身も命からがら上原城に撤退する酷い負け方でした。此の時も事前に武田軍襲来を予期していた村上義清公の作戦が見事に的中したと言えます。
しかし此処からが武田家臣団本領発揮の場面なのです。砥石崩れから僅か一年の天文20年武田家家臣となった真田幸隆が海野平の戦いで武田に恨みを持ったままの実弟である矢沢綱頼を説得して調略に成功しました。内通者を確保した事により砥石城はあっけなく陥落したのです。

砥石城跡地 wikiより
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天文22年武田に通じていた大須久兵衛尉が村上義清公を裏切り、続いて身内の屋代氏や室賀氏も離反した為に村上義清公は居城の葛尾城を一時脱出しましたが再度体勢を整え奪還致しました。武田信玄公は一旦は躑躅ヶ崎に帰るも態勢を立て直して再度大軍で葛尾城を攻めました。家臣団の離反により戦う態勢が取れない村上義清公は葛尾城を脱出して越後の長尾景虎(後の上杉謙信公)を頼って向かう事に致しました。ところが葛尾城から脱出する過程で義清公等と奥方達が別れてしまったのです。そこで奥方は腰元達と千曲川を渡って対岸の荒砥城に逃れようと船を探しました。武田軍を恐れて地元の漁師は船を貸そうとはしませんでしたが一人の船頭が引き受けてくれました。奥方は命からがら逃げてきた訳ですから渡し代金を持ち合わせておりませんでした。其処で身に付けていた笄を渡して代金の代わりにしたと伝わります。千曲川を渡る船に乗り、振り返ると今迄家族と暮らしていた葛尾城が燃え上がる様子をを見て、奥方様はさぞ辛かっただろうと思います。その後越後に奥方様が到着したと言う話は伝わってないので定かではありませんが一説には船から身を投げたとも伝わります。一方義清公と嫡男国清は無事に越後に逃れました。結局は義清公が越後に逃れた事で川中島の戦いに至ったのです。川中島合戦後の村上義清公は根知城を与えられ嫡男の国清と共に上杉家の家臣として迎えられたのです。国清は謙信公の養子に迎えられ山浦を名乗り不動の地位を上杉家で築きました。義清公は信玄公の死の5ヶ月前に根知城内において73歳で没しました。いつ頃が分かりませんが義清公の奥方が渡った場所を『郊外の渡し』と言われる様になったとの事です。此の場所に立つと葛尾城が燃え上がる中義清公の奥方が此処を渡った光景が脳裏に容易に想像出来て戦国に生きた女性の心情が偲ばれます。

笄の渡しに有る説明板です。現在は国道沿いに苅屋原ミニパークとして自動販売機や数台分のバーキングがございます。
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対岸には神秘的な伝説を秘めた岩井堂山がよく見えます。快晴の日には千曲川の流れと合間って美しい景色だと思われます。
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