重藤の弓です。上の娘に持たせました!
日本の弓は定寸は7尺3寸(221c m)と言われている長大な弓です。何と此の2m21cmの長さは世界最大なのです。私は門外漢ですが写真の弓は家に伝わった武具の中で父親が特に大事にしていた品の一つです。子供の頃は2番目の座敷の鴨居に掛けられており、座敷の空気を凛とさせておりました。此の弓の呼称は『重藤』と言い、重藤の弓は現在弓道の主流である小笠原流において最高格の免許弓です。小笠原流で精進して許しを得なければ『重藤』を使う事が許されてない特別な物であると小笠原流高段位の知人に聞きました。
藤で巻かれて補強されております。
弓の構造としては木と竹を合わせた合成素材が使用されており、接着には膠(にかわ)が使われ、黒漆で固められております。更に藤で補強されて朱漆が施されております。
握りの部分には皮が巻かれております。
古の弓は梓の木で作られており『梓弓』と言われて区別されていると知人が言っておりました。私の見識では弓も刀剣と同様に神器とされていたとの事。その証拠に鳴弦の儀という武家に男子が誕生した際に弓を鳴らして魔を祓ったと書籍にも出ておりました。此の反りを返して弦を張る訳ですが強弓は弦を張るのに2人必要な場合は2人張りなど言われており、中には5人張りなどと言う恐ろしく強い弓も有ったと伝わります。因みに強弓の最高峰は鎮西八郎こと源為朝公が使用した弓で8人張りの弓らしいです。
藤の巻き方も趣向を凝らした箇所が見受けられます。
弦です。
因みに『手ぐすね引いて待つ』とは薬煉(くすね)と言うマツヤニを油て煮詰めた物で弓の弦に塗って準備万端敵を待つ事が由来になったと小笠原流弓術を嗜む知人から聞きました。その時私は薬煉と言う単語自体初めて聞きましたが、弓道をされてる方には身近な物らしいです。
矢の長さは拳12個分と父から教えて貰いました。戦で使われる実戦用の矢はもっと太い物らしいです。
『ゆがけ』です。
右手に嵌めて弓を引く手袋の様な物です。指に部分に薬煉(くすね)が黒くついております。時は遡る事447年前の元亀3年12月22日に行われた三方ヶ原の戦いに挑んだ徳川方武将の石川数正は討ち死にした時に恥ずかしくない様に『ゆがけ』の正式な結び方を練習して出陣したと言われております。屍を晒した場合にゆがけの正式な結び方をしていないと三河武士として恥と考えたのでしょう。
鏃(やじり)です! 鏃の種類は物凄く多く存在致しますが此処では省きます。
wikiより
当家の弓とは色は少し違いますが大相撲の弓取り式で使用する弓も重藤の弓が使われております。
武田流流鏑馬の射手
これは数年前にたまたま鶴ヶ丘八幡宮に観光に行った時に行われていた武田流流鏑馬のワンシーンです。射手の携えている弓も『重藤』です。此の武田流の射手はこれから『天長地久の儀』に挑むところです。『天長地久の儀』とは馬上のまま左に3度右に2度回り、天と地に向かって弓を絞って「天下泰平、五穀豊穣、国民安堵」を祈る儀式と武田流の説明にございました。私は射手の装束に目が行き、見事な尻鞘の太刀や下半身に付けている鹿皮の行縢(むかばき)がとても印象的でした。
天に向かい重藤の弓を絞っている射手。
『街道一の弓取り』と言う言葉や武士の道を『弓馬の道』などと表現した事を思うと弓は太刀と合わせて象徴的な物だったと思われます。しかし鉄で出来ている刀剣類と違って何世紀も伝わり難く、余程大事にされた弓でないと残らないですね。写真では見え難いのですが射手の笠上に付いている鬼の小面が印象的でした。
どの様な経緯で此の弓がうちに有るのかは知る由もございませんが、ご先祖様が残したからには私も門外漢なりに知ろうと思い学生の頃に夏休みなどを利用して父が残した書籍を読んでみましたが、弓の歴史は本当に古く縄文時代に遡り、遺跡からも様々な石鏃が発掘されておるとの事。またより強力な武器としての追及により梓や竹などの単一素材から合成素材に変貌を遂げたとございました。しかし武器としての性能を追及する事と同時に美しさも追求して完成されたのが『重藤の弓』だと思われます。私の感覚が変なのかも知れませんが何故此処まで日本の甲冑や刀剣も含めた武具は美しい物なのかと思いました。